Haphazard Fantasy ~濁流の悪夢~
ここは、とある大企業が所有・運営する『輸送中継拠点』である。荷物や資材、あるいは『ひと』を、最終目的地へ送るために、一時的に集積、仕分け、積み替えする施設だ。
(……ここは、どこなの……?)
まだ小学生くらいにも見える幼い少女が、真っ白な無機質な衣服を着せられて、部屋の片隅で震えながら膝を抱いて座っていた。
少女がこの部屋に連れてこられたのは、つい昨日の出来事。街中で両親と買い物に出かけているときに、ふとした瞬間に離れ離れになり、彼らを探しているうちに、突然何者かに後ろから拘束され、なにかを嗅がされて、意識を失った。
そして、気づいたら、この衣服を着せられて、部屋に閉じ込められていた。
少女は、巨大な輸送施設の一画にただ存在していた。彼女はなにもしていないように見えたが、そこにいることそのものが、彼女に与えられた役割だった。
少女は膝を抱えたまま『帰りたい』と願っていた。だが、その願いは届かなかった。ふいに、扉のロックが外れる音がした。重いスライド式の扉が開き、ひとりの男が中に入ってきた。彼は、白衣を着た無表情の不気味な男だった。
男は、嫌がる少女の身体を頭から足先まで詳しく調べながら、確認した内容をクリップボードに挟まれている紙に書き込んでいく。検査と記録を終えた男は、少女になんの説明も与えないまま立ち上がり、入ってきた扉から外に出ていった。扉が閉まると、再び機械音が鳴り、ロックがかかった。
少女が扉に近づく。そっと手で触れた。しかし、彼女には扉を開けることはできない。男を追いかけることも、この部屋から逃げ出すことも叶わなかった。
次の日、少女は、扉の向こうから施設内を行き交う職員たちの会話を耳にする。内容を全て理解することはできなかったが、一部聞き取れたものは『奴隷』『出荷』『健康状態』『魔王』『利益』『隠ぺい』などの言葉だった。少女は、それらの内容が自分を指しているのではないかと怯えた。
それから、数日が過ぎた。少女は、いつ解放されるのか、そもそも本当に外に出られるのか、それすらわからなかった。職員からなんの説明もされることなく、閉ざされた空間で、同じ日々を過ごしている。与えられる食事は、栄養を満たすことだけを目的にしたかのような、味気がなく、まったく美味しくないものだった。そこに少女の好みや楽しみは全く考慮されておらず、食事の時間すら安らぎにならなかった。
少女の中には、恐怖だけでなく、苛立ちや寂しさ、絶望が少しずつ積み重なっていった。
日が変わり、施設の外では大量の雨が降り続け、屋根や外壁を打つ雨音が途切れなく続いていた。
集中豪雨は日中だけでは収まらず、深夜になっても降り続いた。いや、むしろ雨脚はさらに強まり、施設の近くを流れる河は急激に増水していった。
水位は堤防の限界近くに達しており、河は決壊寸前だった。しかし、そんなことは、閉じ込められている少女には、なにもわからなかった。
河の決壊が迫る中、施設の職員たちは、明らかに平静を失っていた。扉の向こう側から、断片的に『避難』『商品』『廃棄』『魔王』『粛清』といった言葉が聞こえてくる。職員たちは、迫りくる水と同様に、その後に待つ処罰を恐れているようであった。
恐怖を和らげるべく、少女は魔法を使った。ボッと小さな炎が手のひらに灯る。……あたたかい。その炎を見ていると、すこし気分が落ち着いた。
そしてついに施設近くの河が決壊した。堤防を突き破った濁流は、一気に周囲に押し寄せ、その勢いのまま輸送中継拠点を襲う。建物には、激しい衝撃が走り、床や壁が大きく揺れた。
少女の手のひらの小さな希望が消える。
濁流が建物を襲ったその瞬間! 少女の頭の中で、ぷつり、と細い糸が切れるような音がした。
限界を超えた少女は、とうとう金切り声を上げた。それは助けを求める声でもなく、恐怖も怒りも悲しみも全てが混ざり合った叫びだった。幼い喉から発せられたとは思えないほど鋭く、激しい声は、閉ざされた扉を突き抜けて、施設のフロア全体へと響き渡った。
少女の絶叫を聞きつけ、扉の向こうから慌ただしいいくつもの足音が近づいてくる。複数の職員が部屋へ駆け込み、その中で一瞬だけ『鎮静剤』という言葉が聞こえた。
しかし、限界を超えた少女には、もうその言葉の意味を考える余裕もなかった。
職員たちは暴れる少女を力づくで押さえつける。手足と胴体を抑え込まれ、身動きが取れなくなったところで、首筋に注射が打ち込まれた。注射器の中身が、少女の体へ押し込まれていく。
職員たちは、これで少女は眠り、事態も収まるだろうとホッとした。
しかし、異変は終わらない。
少女の全身が、寒さに凍えているかのように、がくがくと震え始める。それと同時に、彼女の頭の中へ、正体のわからない声が響き始めた。
――殺せ。
――出よう。
――殺せ!
――出よう!
――殺せ!!
――出よう!!
それは少女自身の声であるように感じた。
鎮静剤が効くはずだったその瞬間、少女は、かっと目を見開く。そして、彼女の体から凄まじい魔力が一気に放出された。本来は目に見えないはずのそれが、空気が歪んで見えるくらい、奔流のような圧力となって、職員たちを襲う。
鎮静剤を打って一安心していた職員たちは、その不意打ちに全く対応できず、複数人の体がまとめて吹き飛ばされ、壁際まで叩きつけられた。
そして、少女は、ゆっくりと立ち上がった。
少女はもはや意味のある言葉を発することができず、言葉にならない叫び声を上げる。そして、まるで獲物へ飛びかかる獣のように、深く身を沈めて跳躍の力を溜めると、そのまま閉ざされていた扉へ向かって突進した。
激突の瞬間、頑丈なはずの扉がガコンと鈍い音を立てて大きく揺れる。それでも少女は止まらない。拳で何度も何度も扉を叩きつける。衝撃が積み重なるうちに、扉が少しずつ歪み始め、ついには隙間が生まれた。
少女は、その隙間へ手や指をねじ込むようにして、無理矢理、扉をこじ開けた。
扉の外へ出た少女が目にしたフロアの光景は、まさに地獄のような有様だった。閉じ込められていたのは、少女ひとりではなかった。フロアには同じような扉がいくつも並んでおり、その多くが、内側から無理矢理こじ開けられたように歪み、大きな隙間を作っていた。
そして、そこから飛び出したのであろう大勢の少女たちが、数十名の職員たちと乱闘を繰り広げていた。しかし、それは対等な争いではない。少女たちが職員たちを一方的に蹂躙していた。職員たちは次々と打ち倒され、反撃らしい反撃もできずにいた。
さらに混乱していたのは、少女たちが職員だけでなく、少女同士でも争っていたことである。髪を引き抜けるほど強く引っ張り合って、殴り合い、噛みつく者までいた。秩序は完全に失われ、そこにあるのはただ暴力と混沌だけだった。
少女は、異様なほど目を見開き、狂乱するフロアの中で必死に出口を探した。そこで見つけたのは、上階へと続く階段だった。その先に、本当の出口があるのかはわからない。それでも、少女の頭にあるのは、ここから逃げ出したいという衝動だけだった。
――出たい。
――出たい!
――出たい!!
少女が階段に向かって、一歩を踏み出した。その瞬間――視界が突然、暗転した。
意識はすぐに戻った。気がつくと、少女は床へ倒れていた。何者かに横から殴りつけられたのであった。襲撃者は職員ではない。それは、少女と同じ白い服を着た、同じように正気を失った別の少女だった。
少女を襲った相手の少女は、すでに完全に理性を失っていた。口元から泡を吹きこぼし、白目を剥き、意味の通らない言葉を喚き散らしながら、倒れた少女に覆いかぶさるようにして、首に手をかけた。
しかし、そこで奇妙な異変が明らかになる。
本来なら苦しいはずの圧迫をその身に受けても、少女は呼吸の苦しさをほとんど感じなかった。それは、単なる興奮や錯乱ではなく、もっと決定的な変化だった。この時点で、少女はすでに『ひと』ではなくなっていた。
首を絞められてもなんの問題もない少女は、覆いかぶさる相手の顔面へ拳を叩き込む。衝撃により、首を絞めつけていた手が緩み、その一瞬を逃さず頭突きを浴びせ、拘束から抜け出した。
少女は立ち上がると、振り返ることなく階段へ向かって駆け出した。ところが、倒したはずの少女もすぐに起き上がり、狂乱したまま少女を追い始めた。
少女は階段を一段ずつ踏むのではなく、ほとんど跳ぶようにして駆け上がる。しかし、たどり着いた上階は出口ではなかった。そこも下の階と同じ構造をしており、多数の収容室が並んでいる。職員の大半はすでに息絶え、床には遺体が散乱していた。解放された少女たちは互いに髪を掴み、殴り、噛みつき合い、フロア全体が醜い争いで満たされていた。
少女はその混乱の隙間を縫うように走り抜ける。
やがて、周囲の少女たちが、走り抜ける少女の存在に気がついた。ひとりが追い始めると、それにつられるように別の少女も動き出し、次々と少女の背後へ加わっていく。
彼女たちが少女を追いかける理由はわからない。
少女の身体には、逃走を続けるほどに異変が進んでいた。
疲労するどころか、体の奥底から脈々と力が湧き上がってくる。駆ける速度は増し、一歩ごとの歩幅も異常なほど広がっていった。もはや走っているというより、床を蹴るたびに空中へ飛び出し、着地と同時に再び跳躍しているような移動だった。
そして、次の階段へたどり着くと、階段の下から上階までを一跳びで飛び越えた。
次にたどり着いたフロアは、収容区画ではなく、職員たちが利用するスタッフルームのような区域だった。先ほどまでの階とは異なり、そこには争った跡も、破壊された設備も、倒れた職員の姿も見当たらなかった。辺りは不気味なほど静まり返っており、直前までひとがいた気配だけが取り残されていた。職員たちはすでに、さらに上へ避難したのかもしれない……。
少女は、上へ続く階段を見つける。背後からは、少女を追う無数の足音が迫っていた。立ち止まって周囲を調べる余裕はない。少女は迷わず階段へ向かった。
その先にあるハッチは、すでに開け放たれていた。
開口部の向こうから人間の叫び声が聞こえる。同時に、上空からはなにかがばらばらと高速で回転する音が響いていた。それがなんなのか、少女にはわからない。
旋回音は、氾濫した河が立てるごうごうという轟音や、降り続ける雨音と混ざり合っている……。
ついに、少女は、ハッチの向こう――外へと飛び出す。
閉じ込められていた施設の中には、病院を思わせるような消毒液のにおいと、清潔ではあってもどこか温かみのない空気に満ちていた。
そこから解き放たれた少女は、外気を肺いっぱいに吸い込む。生まれて初めて呼吸をしたかのように、貪るように。
その瞬間、少女の胸には確かにひとつの感情が湧き上がった。
――自由だ。
そう叫ぶつもりだった。
だが、少女の喉から出たのは、もはや意味を持つ言葉ではなかった。ひとの言葉になりきれない、奇妙な叫び声だけが空へ放たれる。
そして、その声を聞いた周囲の大人たちは、少女の解放を喜ぶどころか、恐れ、怯え、我先にと逃げようとする。
どうやら、そこには上空から垂らされた縄梯子があり、大人たちはそれにしがみついて避難しようとしていたようだ。しかし、極限状態に陥った彼らには協力し合う余裕などなかった。
互いの足を引っ張り、押しのけ、先に登ろうともがく。
誰かが誰かを蹴落とし、誰かが必死にしがみつき、結果として誰もまともに縄梯子を掴めない。
少女の目には、その光景がひどく醜く映った。
少女は、こんな場所からはもう完全に離れるのだと直感する。そのとき、彼女の背中にむず痒い異変が走った。
次の瞬間、勢いよく服を突き破ってあらわれたのは、蝙蝠のような二対の翼だった。それは少女にとって本来あるはずのない、初めて生えた器官であった。だが、彼女は戸惑いながら、不思議なことに初めからその使い方を知っていた。
少女は大きく翼をはためかせる。
豪雨の中、濁流と怒号と旋回音の上を突き抜けるようにして、彼女の体は空高く舞い上がった。
そして、そのままどこかへと飛び去っていく。
おそらくは――家のある方向へ。
◇
少女が飛び去ったあとも、悪夢はそこで終わらなかった。
彼女を追っていた別の少女たちが、次々と開いたハッチから外へあふれ出してくる。その勢いはまるで、腐った肉から蛆が湧き上がるかのような、おぞましく、止めどない奔流だった。
外へ出た少女たちは、必死に脱出しようとしている者たちを獲物として認識したようだ。視界に捉えた瞬間、口元を不気味に歪め、言葉にならない叫び声をあげながら、一斉に襲いかかった。
その場に残るのは、血と肉の残骸だけだった。
程なくして、巨大な氷塊が夜空を走り、旋回していたヘリコプターを撃ち落とした。
さらに、その少女たちもまた、それぞれ異なる変化を見せる。背中から生やした翼は一様ではなく、炎のような翼、氷のような翼、水を思わせる翼、木や植物のような翼など、様々な特性を持つ翼としてあらわれていた。
そして彼女たちも、豪雨の夜空へ次々と舞い上がり、四散するようにどこかへと飛び去っていった――。
◇
――この事件に関する記録は、当該企業の手によって抹消された。
公的な記録をどれだけ調べても、その痕跡を見つけることはできない。
だが、企業の裏の顔を知る者たちの間では違った。
あの豪雨の夜に起きた出来事は、決して口外してはならない重大なインシデントとして、ひとびとの記憶に深く刻まれている。
これは、なにも知らなかった無垢な少女たちが、ひとならざる魔女へと変貌し、世界へ解き放たれた物語――。




