8 老人とハーモニカ
第8話老人とハーモニカに於きまして、一部内容が抜け落ちていたため修正いたしました。すでにお読みいただいた方は、お手数ですが再度ご確認いただけますと幸いです。
ラストの30行ほどが修正されている箇所でございます。
夜になってベッドに入ったが、疲れているのにやはり眠れない。
もう一度あの海岸に行ってみたい。
あの海の匂い、風とキラキラ光る夕陽の輝きが忘れられない。
私に必要な何かを見つけることが出来るかもしれない。
そんな気にさせてくれる海だった。
あの海岸には確かに私を解放させてくれる安らぎがあった。
じっとしていても何も変わらない。
明日また行ってみよう。
明日はあの海岸で何かをする予定はないが、とにかくあそこに行きたい。
仕事はないのだし、家にいても何も変わらない。
私はこの状態から抜け出したいんだ。
そのためなら何でもしたい。
翌朝、いつものように睡眠不足で、体は鉛のようだったが、力を振り絞って駅に向かうことにした。
しかし、電車の中に足を踏み入れるとやっぱり引き返そうかと思うほどの倦怠感に襲われてしまった。
でもこのまま帰っても何も変わらない。
どうなるかわからないが、とにかく行ってみることにした。
車内でだるさと不快感に耐えていたため、疲れで足に力が入らず、気持ち悪くなってしまった。
いつも気持ちが悪くなると、同時に恐れに心が支配されてしまう。
考えても自分が何を恐れているのか分からない。
でもこわくて仕方がない。
恐怖の対象がわからないのは耐えられない。
それに、家まで帰れる体力が残っているか心配してしまうほど疲れ切っていた。
駅に着いてホームに足を下ろすとベンチが見えたのですぐ腰を下ろした。
20分ほどホームのベンチで休んで、回復を待っていたら、少し正気に戻った気がしてきた。
ここで諦めて帰ってしまうほうが、良くない方向にいってしまいそうで、それもまた怖かった。
力を振り絞って、駅の階段を降りていって、砂浜に足を踏み入れる。
海に向かって少しだけ歩いたが、やはり力尽きてしまう。
歩けなくなってしまった。
呼吸が荒い。
あまり食べてないので、体力がないのは当たり前だが、それだけじゃない。
体力の問題だけじゃない。
電源が切れてしまったような神経回路がつながっていない感じだ。
これ以上は歩けない。気力が萎えてしまった。
砂の上にしゃがみ込んで、倒れそうな体を手でささえていた。
何も考えられない。
目を瞑ってじっとしていた。
しばらくするとまた呼吸が少し楽になり、暗くなる前にひとりで帰れると思えてきた。
こんな事をいつも繰り返すようになっている。
心が少し落ち着いた時だった。
風の音に混じって微かに何か聴こえる...
目を開けて辺りを見渡したが何も見えない。
すると、微かにバイオリンのような、ハーモニカのような澄んだ音色が聴こえてきたのだ。
目を凝らすと波打ち際に誰かが座っているように見える。
逆光でよく見えない。
左手で光を遮るようにして目を凝らすと、やっぱり人がいる。
波打ち際に誰かいる!
バイオリンじゃない。
ハーモニカの音だ。
よく聞こえるように両手を耳の後ろに持ってきて音を集めてみると、小学校の音楽の授業で聴いていた唱歌のふるさとだ。
透明感のある優しい音色が海風に溶けている。
懐かしい曲だった。
年配の男性のようだ。
クラゲがゆっくり泳ぐように体を前後左右に揺らして、右手を小鳥のようにパタパタ羽ばたくように動かして、ひとりで夕陽に向かって歌うようにハーモニカを吹いている。
その後ろ姿は愛する小鳥にキスしているみたい。
私は忘れてしまっていた幸せの色彩を画家にも負けないくらいの眼力で目に焼き付けていた。
ハーモニカの音色は私の心の琴線を丸ごと外して空に放り投げてくれた。
自分でもびっくりした。
あの気持ち悪さ、あの恐怖感が、強大な換気扇に吸い込まれるように一気に消えてしまったのだ。
奇跡のような瞬間だった。
解放感が全身に行き渡り、体ごと空中に浮き上がるような不思議な感覚だ。
私は戦闘機の翼のように両手を思いっきり後ろに伸ばして胸いっぱいに幸せを吸い込んだ。
現実とは思えない。
三分ほど前には動くこともできなかったのに...
その時だった!!
一瞬、潮風ではなく山の清流のような綺麗な真水の香りが鼻をかすめた。
なんだろう!この感じは?
「...休ませてあげます...」
えっ!
声が聞こえた!
優しい声だった。
まわりには誰もいない。
小さな声だったが、確かに聞こえた。
何処から聞こえてきたのだろう。
気のせいだろうか?
いや、確かに聞こえた。
頭が混乱して幻聴が聞こえたのだろうか?
でもはっきりした声だった。
「...休ませてあげます...」
えっ!
また聞こえた。
はっきり聞こえた。
間違いない!
まわりには誰もいない!
あの老人の声じゃない。老人からは遠すぎる。
耳元で囁くようなはっきりした声だった。
そして、2回目の声を聞いたすぐあと、老人が私の方を振り向いた。
まるで私が声を聞いたことを知っているかのような優しい笑顔で小さく頷いた。
この老人はいったい何者なんだろう?




