11 老人の笑顔
夕暮れが近づいてくる頃、家を出てあの海岸に向かった。
薬でいつもより眠れたせいだろうか?
足はそれほど重くはない。
砂浜に足を踏み入れると、あの老人が私を待ってくれていたかのように、こちらを向いて座っていた。
今日も私がここに来ることがわかっていたのだろうか?
近づいてゆくと私をしっかり見つめて、ゆっくりハーモニカを加え、犬のおまわりさんを吹き始めた。
不思議だ。
ほんとうに不思議だ。
ハーモニカの音色を聴いた瞬間に心が溶けていく。
迷子の迷子の子猫ちゃん ...
あなたのお家は何処ですか?
忘れていてもおかしくないはずの歌詞が浮かんでくる。
今の私の状況が見透かされているような歌詞だった。
この人は人の心が手に取るようにわかるのかもしれない。
やっぱりここに来たのは正解だった。
素直に思えた。
老人のすぐ前まで来て、私も砂浜に座る。
挨拶はない。
会釈は一度あったが、ほとんど初対面だ。
犬のおまわりさんを最後まで聴かせてくれた。
2人の間に会話はない。
老人はハーモニカをハンカチで吹いて横に置いてある黒いカバンの中に入れる。
そして、ズボンの後ろのポケットから手のひらサイズのノートを取り出す。
ページが風に煽られて中が少し見えた。
とても綺麗な文字がびっしり並んでいた。
ボールペン習字の手本のように美しい。
老人の顔を近くでみると、これ以上の笑顔は見たことがないほどの優しい表情だ。
短くなったえんぴつを取り出して、新しいページにサラサラと素早く書いて私の目の前にノートを差し出した。
「私は耳が聞こえません」
「えっ!」
そしてにっこり笑ってくれた。
私は胸を撫で下ろした。
そうだったのだ。
初めて会ったあの時の老人の頷きは、ただの会釈だったのだ。
背後に私の気配を感じたので、ただの軽い挨拶だったんだ。
普通に聞こえる人より気配を感知する感覚が研ぎ澄まされているのだろう。
あの時、老人は後ろ向きだったのに、背中で誰かがいると気配を感じていたのだ。
あの声とは何の関係もなかった。
私の老人に対する薄気味悪さは一気に吹き飛んで、親しみさえ感じるようになっていた。
私は正直に聞いてみた。
「耳が聞こえなくてもハーモニカを楽しめるのですね。」
私の口の動きで話していることはわかるようだ。
鉛筆を握り、ノートに書いてくれた。
「ハーモニカの音は聞こえなくても唇に振動が伝わって楽しいのです」
文字を書くスピードが驚くほど早い。
「だから耳が聞こえなくてもとても幸せです。」
私を見つめる老人の目はとても優しい。
同時にとても深い目をしていた。
老人は書き続ける。
「若い頃、耳が聞こえないことがとても辛い時期がありました。
でも今はとても幸せです。
耳が聞こえないことが幸せなのではありません。
心で聞くことができる世界を知ったのです。」
老人は小さなノートをポケットにしまい、横に置いてあった黒いカバンの中から少し大きなホワイトボードとマーカーを取り出しそこに書き始めた。
誰かと詳しく話し込むためにいつも用意されているのだろう。
「ノートより経済的ですよね」
と私が言うと、またやさしい笑顔をくれて、マーカーを滑らせるように書き始めた。
ノートに書くよりさらに速い。
そのスピードにまたまた驚いてしまう。
書くことが、この人にとっては生きてゆく武器になっていたんだと感じた。
老人は綺麗な文字で書く。
「私は日本の唱歌や童謡が大好きです。
私の心の奥まで語りかけてくれ、私を慰めてくれます」
老人の黒く日焼けした顔に夕陽が当たって
とても幸せそうな表情になった。
「ハーモニカはいい音ですね。心が本当に落ち着きます。」
私が言うと、
「老人は私もどんな音か一度でいいから鼓膜で聴いてみたいです」
と書いて優しく微笑んだ。
この笑顔たまらない。
本当に癒される。
「私は生まれつき耳が聞こえないので聴こえると言うのがどんな感じなのかわからないのですが、私の唇は耳の鼓膜のような役割をしてくれているのです。
だから聞こえていると言ってもいいくらい私は満足しています。
唇だけではありません。私にとって音とは手触りや肌触りのことなのです。
私はだいたいいつも夕暮れ時にこの砂浜に座ってハーモニカを吹いています。
聴きたくなったらいつでも会いに来てください」
私はこの老人がどこに住んでいるのか、
どんな仕事をしてきたのか、そんなことは聞く必要はないと感じていた。
老人も私のことは何も質問しない。
不思議な関係だが、この人は人を癒す何かを持っている。
間違いない。
特別な何かだ。
はっきりわかる。
私はこの病の為にありがたくない多くのマイナスを受け取ってしまっているが、しかし、プラスもある。
それは感と呼ばれているものだ。
この老人は特別な何かを持っている。
私にはわかる。
幻覚でないことを後で確認したかったので写真を撮りたかったが、そんなことはもうどうでもよくなっていた。




