『静かな旋律』
## 第一章:風の譜
―柊 結芽視点―
図書館の午後は、いつも少しだけ眠っているような空気が漂っている。
ページをめくる音、遠くで誰かが咳払いする気配、誰か一人が動くと空気が動き床を移動する足音がやけに一番大きく聞こえる、そんな空間。
そう、誰かが本へ視線を走らせることを止めない限り、図書館という箱の中で音は動かない。
私はその静けさが好きだった。
一歩外へ出ると世界は音で溢れている。耳を塞いでも自分の鼓動が聞こえるぐらいに、音は常に私の周りにあって私を許してくれない。
元々私は色んな音楽が好きだった。
少し指を動かすだけで奏でられる旋律が好きだった。
けれど、ある日音楽に対してトラウマを持つようになってから、私は家を出ることが怖くなるほど音から離れたくなった。
けれど、家から出ないと人は生きていけない。別に生きていなくてもいいと思ったけれど、時間は私の思い通りに動かず勝手に過ぎ、私の身体も思い通りに動いてくれず勝手に食事を求める。
生きるには音の溢れる世界にいる必要があった。
それでも私は、とにかく音のない場所が欲しかった。
見つからなければ、海の底にでも沈めば静かだろうかと考えたこともある。
最終的にそんな選択肢で終わる人生でもいいと何度思ったことだろう。
ところが、そんな私を救ってくれる場所があった。
それがここ、図書館だった。
音楽をやめてから音のない場所にいることが、私の心を落ち着けてくれるようになった。
しかも私が見つけたこの図書館は、近くに保育園や小学校などの子ども用施設がないことも功を奏し、子どもたちの喧騒で溢れるなんてこともなく、昼間に暇をつぶしに少し居座る老人か、本好きそうな人しか来ない、本物の静寂を作り上げる奇跡の場所だった。
逆に言えば、そのせいで働きたい人がいなかったのだろう。
やりがいもない、喋る相手もいない、ただ、本だけを見つめる毎日。
スマホをひっそり弄ることができて、パソコンでの作業などがあればまた違っただろうが、この図書館は一度浮浪者居座り事件があってから監視カメラがあちこちに設置されており、本当に本を読むことしか許されない場所となっていた。
大切な本が溢れる場所で飲食が禁止なのは当たり前なのだが、監視カメラの多さからスマホをこっそりいじるような死角がなく、人によってはずっと誰かに見られている気がして寛げない感覚になるらしい。
本に没頭していればそんなことは気にならないものだが、どうやらこの図書館の近くに住む人たちにとっては、本を借りてさっさと帰る方がいいらしく、居座るには居心地の悪い場所となっているらしい。
よっぽどの本好きでなければ働くことはできないだろう。
かといって、私もそこまで本が好きというわけではない。
ただ、この静寂が欲しかった。
だから私にとってはとても居心地のいい場所であり、唯一の安息の場所とも言えた。
そんな日常が色を変え始めたのは、いつものようにカウンターに座っていた日の事だった。
窓の外では風が吹いていて、木々の葉が揺れているのが少し埃をかぶった曇り気味の窓から見えた。
そろそろ秋が近づいてきているから、急に寒さを感じた時のためにカーディガンを常備した方がいいだろうか、と思案しながらふと視線を上げると、一人の男性が音楽随筆の棚の前で立ち止まっているのが視界に入った。
普段、老人や気分転換に訪れる主婦らしき人は見るけれど、こんな平日の昼間に少し高級そうなスーツをピシっと着こなした人が静寂の空間に居るのは非常に珍しい光景だった。
思わず目を惹かれた私は、まだ中途半端にしか読んでいない本に手を置いたままじっと観察していた。
無意識だった。
けれど彼はスマホで何かを検索するのに夢中なのだろう。
暫くスマホを見ていた後、ポケットにしまうと指先で一冊の本をそっと引き抜いた。
その時に見えた拍子は、『風の譜』。
亡き作曲家が残した手紙と楽譜をもとに、音楽と人生の交差が描かれている一冊。
あまり借りられることのない静かな本であり、私が音楽を離れてから唯一好きでいられ続けている、音楽に関する本だった。
自分が好きな本を手に取って貰えることは、単純に嬉しい。
そんな小さなことで私が少し心を躍らせていると、彼が本を抱えてこちらへと体を向ける様子があり慌てて視線を落として本を読んでいるふりをした。
誰しも、知らない人にじっと見られているのはいい気がしないものだ。
それを私は、よく、知っている――
「お願いします」
カウンターに来た彼は、耳に心地よい爽やかさの残る低い声で言い、私の前に本を差し出した。
「はい、かしこまりました」
私はもう読んですらいない本を閉じて脇に置き、本を受け取った。
手になじみのある本に、また心が少し踊ってしまった私は。
気づけば、司書としてではない声をかけていた。
「その本、選ばれる方が少ないんですよね」
彼は驚いたように「え」と私を見た。
目が合い、私は自分の失言に気が付く。
捉えようによっては、人気のない本を選ぶなんて、と卑下しているようにも聞こえてしまう。
そうじゃないことを伝えるために私は慌てて言葉を続けた。
「あ、えと、私の好きな本でして。それで嬉しくて、つい」
上手く言葉が紡げず、自分でも意味の分からないことを言っていると自覚していた。
このままでは気まずい空気になってしまうと、私はとってつけたように「この本好きなんですか?」とあまりにも中身のない質問をしてしまっていた。
一瞬、沈黙が流れる。
いつもは心地よい静寂なはずなのに、今は気恥ずかしくて私は「すみません気にしないでください」と早口に言った。
そうしていつも通りに仕事をしようと本の手続きを始めると、彼が「好き、というか」と言葉を発した。
「……なんとなく、惹かれたんです。今の僕に、必要な気がして」
その言葉に、私は少しだけ胸が鳴った。
『なんとなく』――その曖昧な言葉は、私の好きな言葉だった。
音楽をやっていた頃も含め、図書館に勤めることになったのも、全てにおいて私の行動はいつも“なんとなく”始まって、なんとなく心に残るものばかりだった。
そんな、なんとなくばかりの生き方は私が奏でる旋律にも表れていて、それを否定された。
なんとなくは、私の人生に常に隣り合わせにある言葉だ。
だから否定された瞬間、生きていること自体も否定されたようで、私は音にトラウマをもつことになってしまった。
だけど、彼の声は。
彼の音は。
静かで、芯があり、なんとなく、心地いい。
言葉を選ぶときの間が、まるで音符のなんとなくある間のようで、妙に私の心にすんなりと入って来た。
何故かはわからないけど、私は、なんとなくもっと彼と話したいと思った。
でも、流石に初対面でそんな大胆なことが出来る程私は強い人間ではない。
私は黙々と手続きを済ませる。
彼の選んだ本と、彼の目と、彼の沈黙が。
私の中の何かをそっと揺らした。
聞こえない彼の音が私の血液をとくとくと鳴らしているような感覚は、やっぱり、なんとなく心地よくて。
いつしか私を動かした音楽と同じくらい、その少しだけの時間は。
心を動かす静かな音楽を私の中で波紋を広げていた。
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## 第二章:音のない場所で
―芹沢 悠真の視点―
普通の会社員である俺が偶然にも何の変哲もない平日に休みを取れることになった。
恋人もいない。平日に遊ぶ約束をできるような友人もいない。
ただ、有給消化の為に与えられた本当に何の意味もない平日の休日だった。
そんな日に図書館に赴いた俺に声をかけたのが、休日に人がまばらにいる図書館ではめったに見かけない女性だった。
本に視線を落とし続ける彼女は柊結芽という名札を首にかけていて、年は大体俺と同じくらいに見えた。
だから不思議だった。
俺たちの年代はいわば、成長の年。頑張りや努力によって将来が変わる20~30代といういろんな可能性を秘めた年だ。
それなのに、こんなに静かで何もやることがなさそうな図書館で1人司書として働く静かな彼女の存在は妙に俺の目を引き、纏う空気は柔らかく静かな何かを纏っていた。
とはいえ、じっと見ていては失礼だ。
俺はスマホに目を落としている振りをして、普段は立たない音楽に関する本が陳列する棚に立った。
本当にただただ自然にそこへ足が向いただけだったのだが、ふと目に入った『風の譜』が妙に気に入った。
まるで、彼女のような雰囲気を纏う本だな、と。
そんな気持ちで手に取ったから、彼女から声をかけられた時は心底驚いた。
だけど、同時に嬉しかった。
ただ、ナンパみたいな言葉を口にしたくはなくて、当たり障りのないことしか言えなかった。
もっと、こう、口が上手い男に生まれていればよかったなと、どれほど思ったことか。
『この本好きなんですか?』
『……なんとなく、惹かれたんです。今の僕に、必要な気がして』
改めて思い返してみても、本当に当たり障りがなさすぎて自分自身に幻滅した。
ただ、別に告白をされたわけではないのに彼女が静かに発した『好き』の言葉が妙に耳に残ってしまった。
そこまで女性に飢えている身ではないと思っていたのだが、自分も男だったのだろう。我ながら単純だ、と呆れてしまう。
そして、もしかしたらまた会えるかもしれないと期待して、1か月後に有休をとり図書館に足を運んでいる自分にも、心底呆れる。
ところが、今日の図書館は雰囲気が違った。
図書館の展示棚に、可愛らしい字で書かれた小さなカードが添えられていたのに気づいたからだ。
「音楽と記憶」
――その言葉に、俺の足が止まった。
並べられた本の中に、あの『風の譜』があったからだ。
なんとなく手に取り、数週間前に仕事帰りに返却ポストに入れたのと同じ本。
音楽のことはよくわからないけれど、あの本が綴る文字の音という静けさは今も俺の心に残っていた。
「あ」
後ろから声がして振り向くと、彼女がいた。
今度はハッキリと目が合い、彼女の視線は本ではなく俺を真っ直ぐと見ている。
「この展示、あなたが?」
気づけば、挨拶より先にそんな言葉が俺の口から出ていた。
彼女は白百合が大きな花弁を揺らすような柔らかく純真な笑みを浮かべると頷いた。
「はい。音楽って、記憶とすごく結びついているんです。だから、音のない音楽をたくさんの人に感じて頂ければ嬉しいな、と思って、展示を頑張ってみました」
初めて話したときの柔らかな声が、目の前で少し気恥ずかしそうな表情で答える。
可愛らしい、と思った気持ちはきっと嘘ではないだろう。
かといってそれを口にするのがよくないことは自分自身で重々わかっていた。
こんな静かな図書館でナンパじみた言葉を出すなんて、嫌われるに決まっている。
例え心がどれだけ動こうと、俺と彼女は所詮司書と本を借りる人。ただそれだけの関係だ。
それでも俺の目は、彼女が伸ばした指先が一冊の本をそっと撫でる様子を追っていた。
その仕草は、ただ本を宝物のように扱っているように見えるのに、まるで音を奏でているかのようにも見えた。
音のない旋律。
彼女は、この静かな空間で空気に溶け込むようなそんな音楽を奏でているように見えたのだ。
「音が鳴らない場所だからこそ、音を思い出せる気がするんです。大好きな音だけを」
その言葉を口にした彼女は、どこか寂し気な空気を纏っていた。
音楽が好き。
だけど嫌い。
そんな、矛盾した雰囲気を覆ったような言葉にも聞こえた俺は、気づけば語りかけていた。
「確かに。文字を読んでいるだけで音って聞こえてきますよね。記憶の奥に眠る音楽が、頭の中に流れ込む、ていうか。だからこそ、一番自分の中に残る音楽へと変わっていく。自分だけの音のない音楽に。だからこそ、音楽に関する本は全体的にそんなイメージが大きいからついつい手に取っちゃうんですよね」
言ってから、少し喋りすぎではないだろうかと思った俺は彼女の方を見て「すみません、1人で語ってしまって」と急いで頭を下げた。
すると、彼女は両手を振って「いえいえ、むしろ興味深くて素敵なお話を聞けて嬉しいです」と笑ってくれた。
「それはよかった。僕、読書が好きでして。音楽系の本に関しては、いつも誰かの言葉が旋律になることがあって、好きなんですよね。旋律が頭の中で音もなく流れた瞬間、まるでそれが、自分の為の音に感じるんです」
「誰かの言葉が、旋律に……」
調子に乗ってまた長々と喋ってしまった俺だったが、彼女は一部分を取って反芻すると、また花弁が優しく揺れるような柔らかい笑みを浮かべた。
「誰かの言葉が旋律になる。とても素敵な表現で、好きです」
彼女はそう言って、俺の目を見て微笑んだ。
その笑顔が、図書館の空気に音のない旋律を流したように感じた。
もう、俺は誤魔化せなかった。
今まで感じたことのない旋律を空気で感じたから。
そしてその日から、俺は展示棚の前で立ち止まるようになった。
本を手に取るふりをしながら、展示したであろう彼女と言葉を交わす機会が持てるよう待つようになった。
話す内容はいつも短くて、静かで、他愛のないものばかり。
それでも、不思議と彼女とのやり取りは、脳に焼き付くように残った。
音のない場所で、2人だけの声が響く。
それがこんなにも心地いいなんて、俺は知らなかった。
本よりも、俺の心を奪うものがあるなんて。
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## 第三章:雨のあと、光のまえに
―柊 結芽の視点―
「この曲、実在するんですか?」
彼がそう言って差し出した本は、また『風の譜』だった。
今私たちは、めったに使われていない図書館のテーブルに向いて横に並び、お勧めの本を紹介し合っていた。
彼が『風の譜』を手に取り、私が声をかけた日。
もう一度彼を見てみたいと願って展示品を並べてみたらその願いが叶い、展示棚をきっかけに私たちは言葉を交わす回数が増えていった。
平日の図書館は滅多に人が来ないことから、必然的に2人きりで会話をすることが多く、そうしてゆっくりと回数を重ねている内に、本以外の好みの話もするほど私たちは仲良くなっていた。
新しい友達が出来たことで私は嬉しくなり、今日は全く人がいないということで、それぞれの好きな本を机に並べて椅子に座り“推しの本”紹介会を開催していたところだった。
そこで、彼が指したのが『風の譜』のとあるページだった。
彼の指先は、ページの端に鉛筆で小さく文字が書かれている場所を示していた。
“雨のあと、光のまえに”
それは、私が学生時代に書いたものだった。
架空の作曲家の手紙に触発されて、誰にも見せずに書いた旋律の曲名。
最初は、しまった、と思った。
いくら人が訪れない図書館であり、人気のない本であっても、貸し借りされる本に勝手に文字を書くのはタブーだ。例えそれが学生時代の昔の私であっても。
だからきっと、私はバツの悪そうな顔をしてしまっていたのだろう。
突然、彼が「ふは」と笑いを漏らした。
「な、なんで笑うんですか?」
「ああ、すみません。なんだか、悪戯が見つかった子どもみたいで、可愛らしくて」
可愛らしい。
そんなことを異性から面と向かって言われることは初めてで、体中の血液が沸騰したのかと勘違いするほど暑くなった。
顔も蒸気していたのだろう。
彼は「大丈夫、見なかったことにしますね」と風の譜を閉じた。
その口角は相変わらず楽しそうに上がったままなのが私は気に食わなかったが、そこまで悪い気はしなかった。
だからだろうか。
私は気づけば立ち上がり「じゃあ、折角なので、見てもらおうかな」と言って司書として普段ずっと座りっぱなしの机に向かっていた。
他の人も働いているから司書用の机は共有物でもあるけれど、それぞれの司書専用の個人引き出しがある。
その中の一つに、私はトラウマでもあり忘れられない思い出でもある紙をしまっている。
正直、少し、迷った。
本当に見せていいものかと。
でも、ああ言った手前引き返すことは出来なかった。
私は、少し震え始めた手で机の引き出しから楽譜を取り出した。
紙は少し黄ばんでいる。
そして。
線のない用紙であったがために、音符の並びは恐ろしく不格好で、不揃いだった。
でも、それは。
私が書いた、私の音。
“雨のあと、光のまえに”
その題名が、風の譜に書かれた文字と全く同じ文体で大きめに用紙の上に書かれている。
私はその文字を見てから、ドク、と心臓が揺れるのを感じつつも、数度深呼吸をしたのちに彼の元へ戻り、震えが止まらないままの手でそっと彼の前に置いた。
「この曲、私が書いたんです。あの本の作曲家に、憧れて」
彼は、驚いたように目を見開いた。
そして、楽譜をじっと見つめた。
彼は、音楽はほとんど聞かないし音符も読めないと言っていた。楽器に触ったのは学生時代の授業のみとも言っていた。
そんな彼の目が、私が書いた不格好な音符を一つ一つ噛みしめるように視線で追っている。
その視線は、まるで、並んだ音符から音のない音楽を聴いているかのようだった。
「静かな朝の、まだ誰も起きていない時間みたいだ」
ふと彼から漏れたその言葉に、胸がふっと揺れた。
誰にも聴かせたことのない旋律に、誰かが言葉をくれた。
それだけで、私の心の音がほどけていくような気がした。
彼は、この音符が奏でる音楽を想像できないはずだ。
それなのに、文字で、音符で、音を感じてくれている。
それが、私にはとても新鮮で、嬉しかった。
ふと、私は図書館の窓の外へ視線をやった。
雨が、降り始めていた。
図書館の窓は分厚いから、耳を澄まさないと窓を打つ雨の音は聞こえない。
だから、今は私と彼2人だけしか、音を発せない。
そんな、静かな午後。
音のない場所で、一番傍にいる人が私の音に耳を澄ませてくれている。
それは、ずっと遠く昔に置いてきたはずの旋律が、もう一度、私の中で鳴り始める瞬間でもあった。
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## 第四章:ほどける旋律
―芹沢 悠真の視点―
偶然目に入った“雨のあと、光のまえに”という誰かが書いたフレーズ。
それを曲名だと思ったのは、開いていたページが何か音楽を聴きながら読みたいと思った部分だったからだった。
聞いてから、なんで曲名と決めつけたんだ俺は、と思ったが、どうやらその予想は大当たりだったらしく彼女が気まずそうな顔をしていた。
罰が悪そうなその表情はどこか子どもっぽくて、いつも司書として働く大人びた姿とはまた違い非常に可愛らしいと感じてしまい、そのままの感想がつい口から出てしまった。
怒ったのか、恥ずかしかったのか。頬を紅色に染まらせる彼女が、たまらなく愛おしく感じた。
すると席を立ったので、やっぱり怒らせてしまったか、と後悔した。
ところがどうだろう。
彼女は少し黄ばんでいる紙を差し出してきた。
音符の並びは不揃いで、ところどころ消えかけた鉛筆の跡があった。
でも、それが逆に、誰かの手で大切に書かれたものだと伝わってきた。
「この曲、私が書いたんです」
彼女はそう言ったあと、少しだけ目を伏せた。
『雨のあと、光のまえに』
そのタイトルは、妙に俺の頭に残った。
ふと、窓の外が視界に入った。雨が降っていた。
けれどあの窓は分厚いのだろう。図書館内で響く音は、俺と彼女が奏でる言葉や動きだけ。
俺はもう一度、楽譜に視線を落とした。
別に音符が読めるわけじゃない。
だけど、何故かその音符からは、静かで、でも確かに希望があるような響きのような旋律が聞こえた気がした。
「学生の頃に書いたんです。誰にも、聴かせたことはなくて」
彼女の声は、いつもより少しだけ低かった。
けれど図書館の静かで穏やかな空気が、彼女の言葉をそっと包んでいた。
「コンクールで酷評された曲があって……それ以来、音楽を誰かに聴かせるのが怖くなったんです」
彼女の言葉は震えていた。
きっと勇気を出して吐き出してくれたのだろう。
声の震えで、俺は彼女がこんなにも静かな図書館で司書をしている理由の謎が全て解けた気がした。
――彼女は、音のない世界を求めていたんだ。
それなのに、彼女は俺に自分の音を見せてくれた。
何か言葉を返さなければいけない、と思うものの、すぐには何も言えなかった。
音楽に関して、俺は全くわからない。
でも、誰かに否定された記憶が、どれだけ長く残るかは知っている。
その心だけは、共感できる。
「でも、この曲は……聴こえなくても、残る気がしました」
気づけばそんな言葉を口にしていた。
自分でも意味が分からない言葉だと思う。
けれど、今この場に適切な言葉だと、言ってから俺は感じた。
彼女の方へ視線を向けると、パチパチと瞬きをしたのち、少しだけ目を見開く彼女が居た。
視線が絡み合う。
なんだか心も通じ合った気がして、俺の口角が自然と上がった。
すると、彼女も。
静かに、笑った。
「あなたの言葉って、音楽みたいですね」
その一言が、俺の胸にすっと染みた。
音楽を知らない俺が、彼女の音楽に触れた瞬間だったのではないだろうか。
その日から、俺たちは本だけでなく音楽についても言葉を交わすようになった。
彼女は、そのたびに楽譜の断片を見せてくれた。
俺は、それに言葉を添えていく。
「この部分は、眠たそうな感じがする」
「こっちは、なんだか楽しそうだ。スキップでもしていそうな様子が浮かぶよ」
「ここは、思い出をそっと撫でているみたいだ」
彼女は、俺の言葉に真剣に耳を傾けて、楽譜に旋律を重ねていった。
音と言葉が、静かに混ざり合っていく。
完成されていく音楽にどこか心が弾んだ。
俺はふと、あの日のように窓の外を見た。
雨が止んだ後なのだろう。薄っすらと美しい虹が見える太陽の光が煌めいて、少し眩しさを感じる景色だった。
今日も、静かな午後だ。
そんなことを想うと共に、自然と彼女の方へ視線が向いてしまう俺の心は。
何故か、妙に五月蠅い音楽を奏で始めている気がした。
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## 第五章:静かな旋律
―柊 結芽の視点―
彼と話す時間が、少しずつ日常になっていった。
図書館の静けさの中で交わす言葉は、短くて、でも確かに心に残る。
彼は音楽に詳しくない。
でも、私の音に、言葉に、真剣に耳を澄ませてくれる。
それが何より嬉しかった。
ずっとこんな日常が続けばいいのにと思う程、彼との時間が私にとっての幸せな音楽へとなりつつあった。
そんなある日、彼が言った。
「ここ、何でか分かんないけど、誰かを待っている感じがする」
楽譜の一小節を指して、そう言った。
私は驚いた。
その旋律は、大学時代に書いたものだった。
誰にも見せず、誰にも聴かせず、ただ自分の中に閉じ込めていた音。
「……待っていたのかもしれません」
言葉にしてみると、胸の奥が少しだけ痛んだ。
誰にも明かしたことのない傷を思い出し、喉の奥が詰まる感覚がした。
そんな私に気付いてか、それとも私の答えに納得したのか、彼は静かに頷いた。
「なるほど。音楽って、誰かに届けるために生まれるんですね。だから、音楽を知らない僕にも届くものがあるんですね」
その言葉に、私は目を伏せた。
届かなくてもいいと思っていた、音楽がある。
でも、彼の言葉が、私の戸惑いをほどいていく。
私は意を決し、家で1人書いては消しを繰り返した末に完成させてしまった楽譜を手渡した。
タイトルは『静かな旋律』。
彼と話す時間の中で生まれた音楽。
彼の言葉が、私の心の奥深くに眠っていた音楽に色をつけて、目覚めさせてくれたからこそ出来上がった曲だ。
「これは、あなたの言葉から生まれた曲です」
私の言葉に、彼は目を見開いた。
驚いて当たり前だろう。
むしろ気持ち悪がられてもおかしくない。
でも、彼はやっぱり。
静かに、穏やかに。
優しく、笑った。
「僕の言葉が音楽になるなんて……すごいですね。嬉しいです」
図書館の窓の外は快晴なのだろう。
窓から差し込んだ光が彼を照らしたような気がした。
ふと、窓が視界に入る。
空は、青く澄んだ色で染まっていた。
まるで空すらも音楽を奏でているように、音のない澄んだ曲を私に見せていた。
私は彼を真っ直ぐ見る。
視線が交わる。
無意識に、楽譜の上で、私たちの手が重なっていた。
音のない空間は相変わらず変わらない。
私と彼の2人だけしかいない音のない世界のまま。
だけど、今日は少し違う。
重ねた手から温度が伝わり。
自然と楽譜の上で私たちの影が重なる。
触れ合った唇が、一瞬だけ静寂の中で旋律を鳴らす。
それが、私の中で音楽になる。
そしてその音楽が。
私の心を幸福の旋律で満たしてくれた。
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## 最終章:風のあと
―芹沢 悠真の視点―
図書館の窓の外、雨は止んでいた。
空には、淡い光が差し始めていた。
俺は今、彼女に会うために閉店間際の図書館に立っていた。
あの日、一瞬だけ触れ合った温もり。
でも、それだけで終わった。
二人だけの空間に別の来客者が現れたからだ。
それもそうだ、あそこは図書館。
誰でも訪れることのできる場所。
だから、俺は。
ちゃんと二人だけの世界で、彼女に言葉を渡したかった。
俺の中に生まれた、彼女の音楽に触れたことで生まれた言葉を。
どのように伝えようか、と悩んでいる間に、仕事を終えた彼女が暗くなった図書館から出てきた。
「え」
俺の姿を見てまん丸と目を見開く彼女はいつも以上に可愛らしく、愛おしい姿をしていた。
閉館時間は知っていたから何の連絡もせず俺はここで待っていただけでなく、触れ合ってからそのまま別れを告げる暇もなく来客者があった為、何も言葉を交えるタイミングなかったから、彼女にとってこの状況はドッキリ並に驚いたことだろう。
でも、改めてちゃんと、正式に。
俺の言葉を告げるために。
鍵のしまった図書館の扉の前で呆然と立ち尽くしている彼女の前に、俺は立った。
「あなたの音楽が、俺の静かな日々に色をつけてくれた。だからこれからも、僕の傍であなたの音楽を聞かせてくれませんか?」
彼女が、驚いたように何度も瞬きを繰り返す。
口も、パクパクとしていた。
その様子が可愛らしくて、思わず口角が上がるのを感じていた。
すると、彼女もふわっと微笑んだ。
その笑顔は、初めて出会った時よりもずっとずっと柔らかかった。
「あなたの言葉が、私の音楽をほどいてくれました」
彼女は、そう言って肩に下げていたカバンを探ると、一つの封筒を差し出した。
中には、音符が綺麗に並んだ美しくて新しい楽譜が入っていた。
タイトルは――『静かな旋律』。
俺は思わず彼女を見つめる。
交わった目が、あなたのために書いた曲です、と語っていた。
「この曲、いつ聴かせてくれる?」
思わず俺がそう言うと、彼女は「フフ」と楽しそうに笑った。
その笑い声は、温かな太陽の光を浴びた鈴のように軽やかで澄んでいた。
「いつでも聴かせてあげられますよ。2人だけの時に」
それは、恋人になります、という言葉や、結婚します、という言葉のやりとりよりも、ずっと深い約束のようだった。
二人だけの音楽に触れて、二人だけの言葉に包まれて。
そんな時間が、この瞬間からずっと続いていく気がした。
図書館を離れると、街は雨上がりの匂いに包まれていた。
彼女と並んで歩く帰り道。
言葉はなくても、繋いだ手と、合わせた歩幅から音楽があふれ出す。
俺たちの間だけで流れる、静かな旋律が街を包んでいる。
これからもそんな心地よい旋律に溢れた日々を送れると思うと、俺は嬉しくて、繋いだ手を絶対に離すものかと少し力をこめて握った。
いつまでも、彼女とだけの音楽を聴けますように。
** 終**




