【5000字短編】真面目すぎる王子が、魔女と契約して国を救うお話。
【タイトル】瓶の中に入れるもの
夜明け前の王都は、深い霧に包まれ、王城さえかすんで見える。
王子は傷だらけの手で外套をきつく握りしめ、今にも倒れそうな足取りで、冷たい路地を進む。
泥と仲間の血にまみれた軍靴が、ひび割れた石畳の上を重く鳴らした。
目指すのは、王城の玉座の間。そこで待つているはずの魔女を、どうしても問い詰めなければならなかった。
城門は閉ざされたままだった。
衛兵たちは肩を寄せ合い、誰ひとり声を発せず、王子の姿を見ても目を伏せた。
道の両脇には、燃え残った松明と、踏みしめられた泥の跡がどこまでも続いているように思えた。
時折、砕けた盾や見捨てられた剣が、瓦礫の山に混じっているのが目に入った。
「魔女め……、最後の最後で裏切ったのか……」
王子は低くつぶやき、怒りの色をそのまま顔に浮かべる。
唇の端には乾いた血が滲み、頬に泥と涙の筋が残っていた。
悔しさと悲しみが胸に重く沈む。
――『最後のひとつ、心の色が必要なのです。王子様がそれを持ち帰れば、全てが叶うのです』
あの夜の魔女の声が、耳の奥にこびりついて離れない。
最後のひとつの『感情』を手に入れるために、王子は魔女に言われるがまま、辺境の戦地へ兵を率いて向かった。
だが、そこで王子を待っていたのは隣国の大軍だった。
敗北は、容赦なく王子の軍を呑み込み、友も部下もひとり残らず散っていった。
「これが魔女の言う対価だったのか……?」
そんな疑念が胸の底で鈍く疼く。
城の廊下は、妙に静かだった。自分の足音だけが冷たい石床にやけに大きく響いた。
すれ違う侍従や従者たちは、王子の顔をまともに見ようとせず、遠巻きに頭を下げた。その沈痛な雰囲気に、胸がざわつく。
窓の外に目を向ければ、霧がまだ晴れず、瓦屋根に朝露が光っている。
「すべてを信じて託したのに――」
王子は十数年前の出来事を思い出す。
王により招聘された魔女の力で、飢饉は消え、金貨は溢れ、疫病も一夜で癒えた。
城も町も、最初は歓喜に沸いた。
そして、魔女が現れてから、王国は目覚ましい変化を遂げていった。
だが、豊かさに溺れた人々は努力をやめた。貴族は職を忘れ、城の空気すらぬるく、重く淀んでいった。
このままでは国そのものが腐ってしまう――。
唯一、それを畏れていたのが王子自身だった。
「このままでは駄目だ……」と王子は何度も胸の内で呟いた。
だからこそ、王子は密かに魔女と契約した。
『この国を正しい方向に戻してほしい』と願い――
それからの日々、王子は魔女に示されるまま、自らの『感情』を瓶に捧げてきた。
疑念の夜、魔女の忠告に従って家臣を処罰したときの『紫』の瓶。
城下で病人を抱きしめながら、希望を託したときの『橙』の瓶。
玉座の間で、魔女の力に救われた民を見て涙したときの『藍』の瓶。
けれど、まだ満たされていない、最後の瓶が残っていた。
それを満たす『感情』が何かは、王子にはわからない。
だが、今回の戦のあとに満たされると。魔女は、そう言っていた。
玉座の間の扉が重々しくきしみをあげる。
足を踏み入れると、薄暗い広間の奥、祭壇の前に魔女が静かに立っていた。
その足元には十一本の瓶が、淡く幽かな光を湛えている。
「私がお前に頼んだのは、国の更生だ。歪みを正し、民が自分の力で立ち直るための導きを求めたのだ。誰も傷つかず、皆が救われる――そんな未来を、私は信じていた!」
魔女は、顔を上げることもなく、ただ黙々と瓶を並べている。
王子は、怒りと悲しみに拳を握りしめた。
「だが……現実は違った。民はますます骨抜きになり、貴族は薄汚く腐敗し、いまや王宮は崩壊寸前だ。
何故だ、なぜ君は何も言わず、淡々と粛清のようなことを繰り返す!
君がやっているのは、更生じゃない。国を死なせているだけだ――」
王子の声は、やがて涙まじりの嗚咽となった。
「私は……私は君を信じていたんだ。君と共に、国を救えると、ただそれだけを、信じて……」
魔女は冷ややかに沈黙し、王子の訴えがまるで届いていないかのように見えた。
王子は、祭壇の前に並ぶ瓶のひとつひとつに目をやる。
淡い青
鈍い銀 深い緑
不透明な紫 冷たい灰色
やわらかな黄色 あたたかい橙
淡い紅 濃い赤
暗い藍 金色
そして最後の瓶に、『黒に近い赤紫』の感情が、王子の眼前で満ちていく。
「……やはり初めから裏切るつもりだったのか? 私の心も、国も、全て君に託したのに。何故だ――どうして……!」
王子は膝から崩れ落ち、拳で床を叩いた。
あらゆる誠実さも、愚直なまでの信念も、ここでは意味をなさなかった。
最後の瓶は、『赤紫』色に満たされた。
目の前の魔女の顔はたしかに笑っていた。静かに一つずつ瓶を祭壇に捧げ、静かに呟いた。
「……馬鹿正直な王子様」
王子はその意味も、祭壇の光が生み出す異変も理解できない。
(全てが間違いだったのか……)
ただ、視界が淡くかすみ、世界が静かに白んでいくのを、呆然と見つめていた。
† † †
十二本の瓶に集めたのは、王子の「感情の色」だった。
最後の一本――赤紫は『絶望』の色。
王子の胸で生まれ、育まれたその『絶望』が、瓶の中へ静かに流れ落ちていく。
ガラスの内側で渦巻く『赤紫』の色は、まるで重力を帯びて沈み、やがて音もなく満ちた。
魔女はその光景を見つめる。
指先に微かな震えが走るのを、必死に押し殺している。
この瞬間を迎えるために、どれだけの夜を超えてきたことか――。
満足と諦め、そして切なさが入り混じった、複雑な表情が浮かぶ。
(これで、すべてがそろった)
この瞬間を迎えなければ、術は完成しない。
この国は変われない。
そして、王子も生き残れない。
玉座の間には冷たい朝の空気が満ちていた。
壊れた窓枠から差し込む光が、ひび割れた床と魔法陣を青白く照らす。
静けさは耳鳴りのようで、息を飲むたび胸が痛んだ。
愚直であり誠実で、決して『希望』を失わなかった王子。
ようやく彼から『絶望』を手に入れられたことに、魔女らしくなく安堵する。
「……ようやく、終わりが見えたわ」
背後では、王子の呼吸が荒い。
泥と血にまみれた軍衣のまま、床に膝をついているのだろう。
もし振り返れば、抱きしめてしまいそうだ。
何か言葉をかければ、力づくで止められるかもしれない。
だから魔女は振り向かない。
足元に並べられた十二本の瓶。
そのうち一つ、金色に光る瓶が、魔女の視線を強く引き止めた。
魔女はそっと手を伸ばし、指先を添える。
淡く温かい光が、皮膚越しに脈打つように伝わってきた。
「……まさか『愛情』が、満ちたなんて」
本来、この瓶が満たされるはずはなかった。
恋慕はあったとしても、それは依存の延長だと魔女は思っていた。
けれど王子の想いの色は違った。
『恋慕』の『薄紅』色ではなく、『金』の光――。
手を繋ぎたいと願われ、隣に立ちたいと望まれた温かな感情。
守りたい未来と並んで置かれた、静かな愛。
魔女の唇に、かすかに笑みが落ちた。
悲しく、温かく、痛いのに幸福だった。
この世界で決して得られないと思っていたものが、たしかにここにある。
「……私には、贅沢すぎる贈り物ね」
だが、術は止められない。
止めれば、この国は腐り続ける。
王子は誠実なまま破滅し、民は二度と立ち上がれない。
魔女は理解している。自分が為すべきことを。
「あなたが私に差し出した十一の感情と、……この最後の『絶望』。その対価には、私は必ず応える。
魔女は契約に背かない。代償を受け取った以上、果たすのが務めであり……誇りだから」
王子は知らない。
この術が、時間を巻き戻す魔法だということを。
王が魔女を招聘するあの日の前に。
そして、魔女自身の存在と、王子が向けた温かな愛情の記憶が、代償として支払われることを。
(王子が泣き、私を裏切り者だと罵っても。今この瞬間が、世界を救うただひとつの鍵になる――)
魔女は金色の瓶を、静かに胸元に抱きしめた。
深く息を吸い、最後のひとつ、赤紫の『絶望』の瓶を祭壇中央へと置く。
十二色の瓶が魔法陣に輝きを与え、淡い光が床をすべり、空気が微かに震え始めた。
「……愛してるわ。だから、あなたの願いに応えることの方が、私には大切なの」
これは裏切りではない。
契約の履行。
救いの形。
魔女という存在の矜持そのもの。
「さよなら、王子様」
静かに詠唱を終えると、十二の色がひとつに溶けあい、まばゆい光が玉座の間に満ちた。
光が解き放たれる。
世界が、音もなく巻き戻り始める。
そして、すべては新しい朝を迎えるために――。
† † †
玉座の間を満たした十二の瓶の光は、音もなく広がっていった。
魔法陣の紋様も光を放ち、壁の装飾を柔らかく照らす。
瓶のなかの色がそれぞれに脈打ち、重なりあって眩い白金の奔流となり、やがて城全体を包みこんだ。
王城の外では、深い霧が晴れていく。
崩れかけた家々の屋根に朝日が差し、泥にまみれた広場や冷え切った噴水にも、やわらかな光が満ちていく。
道端の木々の葉は春の瑞々しさを取り戻し、石畳に積もった塵が風にさらわれ、遠くの鐘楼が、これまでに聞いたこともない澄んだ音色で夜明けを告げ始めた。
時は逆巻き、崩壊の記憶をさかのぼる。
消えかけていた希望、奪われたはずの命、失われた笑い声――
すべてが、静かに、丁寧に、元の場所へ戻っていく。
痛みも、悔恨も、やり直す機会さえ失われたはずの人々の心も、どこか新しく、生まれ変わっていく。
けれど、その奇跡の術がもたらした代償を知る者は、誰もいない。
王子も、民も、貴族も、兵士たちも、誰ひとりとして気づかない。
魔女はもう、どこにもいなかった。
その存在は、人々の記憶からも歴史の書からも、まるで初めからいなかったかのように消え失せていた。
王子が注いだ愛情も、契約の証も、ただ静かに、光とともに消えていった。
城に春の気配が満ちていく。
古びたステンドグラスが朝日の虹色に輝き、人々は畑を耕し、兵士たちは戦の記憶も持たないまま訓練場で汗を流す。
貴族たちは机に向かい直し、子どもたちは広場で声を上げて遊んでいた。
世界は、まるで何事もなかったかのように、静かに動き始めていく。
けれど、もし誰かがふと立ち止まって、風の匂いや光のやさしさに心を留めることがあるとしたら。
それは、魔女がこの国へ最後に残した、見えない祝福のしるしなのかもしれない。
≪ 完 ≫
……ではなくて。
実はこの物語には、まだ続きがあった。
本来、十二本目――『愛情』の瓶は、必要なかった。
魔女自身も知らぬまま、その余分なひと瓶は、術に思いがけない奇跡を残していた。
春の朝。
霧の晴れ間、小さな村の市場に、野菜をいっぱい詰めた籠を背負う少女が一人、ぽつんと立っていた。
栗色の波打つ髪に、すこし眠たげな瞳。
昨日までのことは、どうしても思い出せない。ただ、手の中には空になった小さな瓶がひとつ、残されていた。
「……何かしら? この瓶……」
少女は瓶の光を受けて、ぼんやりと首をかしげる。
そこへ、馬に乗ったまだ若い王子が供を連れて市場に現れた。
商人たちが親しげに声を掛け、王子も穏やかに応じる。
けれど、王子の視線はふと立ち止まり、ひとり佇む少女に吸い寄せられていた。
背中の籠いっぱいの野菜、手には空っぽの瓶。その少女は自分の手元の瓶を不思議そうに見つめている。
次の瞬間、少女と王子の視線が交錯した。
王子の胸の奥で、名もなき光が小さく灯った。
理由もなく、ただ無性に、この少女のもとへ歩み寄りたくなる。
少女もまた、なぜか懐かしい気持ちに包まれて、思わず頬を染めていた。
「君は、野菜売りなのか?」
「あ……はい。多分、そう……だと思います」
少女は自分の背負子を見て、困ったように苦笑いした。
その不思議な様子に、王子の口元にも優しい笑みがこぼれる。
「多分だって? おかしな子だな。背負ってる野菜、私が全部買おう。王城まで届けてくれるか? 代金は……そうだな、その瓶いっぱいに金貨を詰めて支払おう」
ふたりがまためぐり逢ったのは、この世界に愛情の瓶が残っていたから。
そして、瓶の中には再び愛情の色が満たされる。
この先の物語は、まだ誰も知らない。
この話は
主人公視点 → 相手役視点 → 神視点
と言う視点移動の課題で、全部三人称で書いています。




