39.胃腸のシャボン玉
39.胃腸のシャボン玉
それを聞いた瞬間、私はそれがたちの悪い冗談か、比喩表現の一種であってほしいと願った。
常識的に考えれば、ヒューマノイド・ロボットに嘘はつけない。論理回路が矛盾を許容しないからだ。
だが、彼女はどう見ても大量生産された既製品ではない。市場の九九・九九九九九九九九%を占める大企業の従順な量産機とは異なる、特別なカスタムモデルだ。
つまり「嘘をつく機能」が実装されている可能性に、私は縋った。
そうであってくれという希望を抱き、私は辛うじて引きつった笑みを浮かべて問い返した。
「嘘、だろ?」
訊くと、霖はこの世で一番哀れで、可哀想で、気の毒な存在を見る目を向けてくる。
人間が持つ複雑な感情機能を精一杯エミュレートしたような、完璧な憐憫の表情。
彼女はその感情を極めて丁寧にシャボン玉へと包装し、私にクリスマスプレゼントのように送ってきた。
プレゼントが目の前に漂着する。
私は、この世で最も恐ろしい形相のサンタクロースに出会ってしまい、クリスマスがトラウマになった幼子のような心境になる。
受け取りたくもないのに、恐る恐る両手を差し出す。
見たくもないのに、悪夢に魅入られたように目が離せない。
それは自分のCPUが発した自発的な命令ではなく、地球から送信された人間の強制プロンプトに機械的に従わされているような、抗い難い義務感だった。
私は水晶占いでもするように、そのシャボン玉の中を覗き込む。
シャボン玉の中には、冬眠する小動物のように真ん丸く蹲り、すやすやと眠っている女子高生型ヒューマノイド・ロボットの姿があった。
記憶喪失という設定により、私のメモリバンクには彼女に関するデータは一切存在しない。
だが、私のボディは違った。
記憶素子など搭載されていないはずのパーツ群――サーボモーター、油圧シリンダー、ジャイロセンサー、冷却ファン、人工筋肉繊維、放熱板の隙間――それら全身のアクチュエーターや構造材が、物理的なレベルで「覚えて」いた。
データとしては保存されていないが、潤滑油の染みのように、あるいは摩耗の癖のように深く染み込んだ気配。
彼女固有のバイブレーション。
その圧倒的な存在感が、ボディの末端から滲み出し、凝縮され、やがて一粒の液体となって私の目からポタリと零れ落ちた。
私の目からこぼれた透明な雫が、シャボン玉に落ちる。
それは単なる光学的な液体だったはずなのに、シャボン玉の表面に触れた瞬間、内部に溶け込み、空間を変質させた。暗室のようだったシャボン玉の中が、私の涙によってスイッチを入れられたように淡いピンク色に灯る。
その明かりが、眠れる彼女の瞼をノックしたようだった。
シャボン玉の中のヒューマノイドが、ゆっくりと覚醒する。
上半身を起こし、けだるげに伸びをしてから、私の方を見上げる。
シャボン玉の中にいる彼女に、外の世界の私が見えているのかは分からない。視線は確かにこちらへ向けられているものの、焦点が微妙にずれている。マジックミラー越しに覗いているような、あるいは次元の違う場所から観測されているような、認識の非対称性があった。
私は三秒間、彼女を凝視した。
その姿を、空っぽになった私のメモリチップへ、焼き印を押すように丁寧に刻み込む。
そして、ボディの暗がり、あちこちの隙間に星屑のように散らばっていた「かつて彼女と交わった記憶の残響」を拾い集め、調合し、ようやく一つの名前を再構築した。
「靂」
私が彼女の名を口にした途端、ずっと焦点の定まらなかった彼女の視線が、吸い寄せられるように私と交錯した。
ようやく、目が合う。
だが、肝心の表情が見えない。
今この瞬間、何よりも重要なデータであるはずなのに、まるで意図的なプライバシー保護フィルターでも掛かったかのように、その顔にはモザイクのようなぼかしが入っていた。
「靂!」
私が叫ぶと、彼女は弾かれたように立ち上がった。そして両の拳で、シャボン玉の内壁を叩き始める。
ここから出してくれと懇願するように、あるいは理不尽な監禁に対する救助要請のように、絶望的かつ必死に透明な壁を乱打する。
その動きに連動するように、霖が腹部を押さえた。
まるで急な腹痛に襲われたかのような仕草。
「こいつ、まだ消化されてなかったのね」
苦痛に顔を歪めながらも、その声音にはどこか楽しげな色が混じっている。
「やっぱり丸呑みするんじゃなかった。ご飯はちゃんと咀嚼して飲み込まないとダメだね。反省、反省……」
それを聞いた瞬間、私の沸点が限界を超えた。
憤怒が頭頂へ突き抜ける。
私は目の前のシャボン玉を、憎き妹の首に見立てて両手で強く絞り上げた。
パチン。
シャボン玉があっけなく弾け飛ぶ。
それはやはり単なるディスプレイだったのだ。
霖の胃袋の中でまだ生存し、しかし徐々に消化されつつある靂の現状を、ホログラムとして中継していただけに過ぎない。
「靂を返せ」
低い声で唸ると、霖が肩をすくめた。
「無茶言わないでよ、お兄ちゃん。嘔吐でもしろって言うの?無理だよ。ばっちいし」
「お願いだ。靂を返してくれ」
「だから無理だってば。一度嚥下したものを吐き戻したら、内臓が壊れちゃうよ」
霖はさも常識を説くように解説した。
「私の消化液は超高濃度のデータ溶解酸なの。逆蠕動を起こして食道を逆流させれば、声帯ユニットも首周りのメインケーブルも全部ただれ落ちて、二度と喋れなくなっちゃう。構造上、一方通行にできているんだよ」
「じゃあ……」
私の声帯から、ギラギラと燃え盛る青い炎のような音が漏れ出す。
「君の腹を掻っ切って、取り出すしかないな」
「惨いことを言うね、お兄ちゃん。いや、鬼ちゃん」
心底切なそうな表情を浮かべながらも、霖の口角は三日月のように吊り上がっていた。
「もう仕方ないなぁ。そんなにこの子と会いたいなら、私の腹の中で再会させてあげる」
霖は高らかに宣言した。
「お兄ちゃんも、いただきま~す」




