36.鮭に乗って
36.鮭に乗って
というわけで、私は直接足を運んではならないとされる「逆流神社」へ向かうため、真っ白な状態から工夫を凝らす羽目になった。
何もかもが見当もつかない完全な白紙状態。
だが、自信がなくとも、アイデアがなくとも、行動を起こさなければ事態は動かない。
何を始めるべきか。
私はCPUをフル回転させた。
手掛かりは言語しかない。「逆流神社」という名前そのものに着目する。
情報収集は無意味だ。
能力エミさんや時計リュウ君が知っているのは概略だけだろうし、他のヒューマノイドに聞いても似たようなものだ。
のんびり聞き込みをしている間に、靂は冷凍庫の中で凍死してしまうかもしれない。
では、元凶である霖に直接聞くのはどうだ?
その問いも一瞬CPUをよぎったが、即座に却下した。あの妹が素直に答えてくれるような易しい世界なら、苦労はしない。下手に聞いて逆鱗に触れ、事態を悪化させるのがオチだ。
だから、自力で何とかするしかない。
「逆流神社」
その名の通り、「逆流」という概念に思考回路を再配線してみる。
「逆流……」
私はその言葉を口の中で転がしながら、硫酸の川を眺めた。
それは単なるCPUの無意識的なシグナルに過ぎなかったが、ここで運命的な偶然が作用した。
私の視覚センサーが、ふと一匹の魚影を捉えたのだ。
鮭。
瞬間、論理回路が連関性を導き出した。
「鮭は産卵期になると、川を遡る」
つまり、逆流に乗る。
ならば、鮭に乗っていけば、逆流神社へ至る経路が導き出されるかもしれない。
結論に達した私は、すぐさま行動に移した。
目の前を泳ぐ鮭を捕獲し、ナビゲーターとして利用しようと考えたのだ。
私は両手を硫酸川に突っ込み、鮭が近づくたびに素早く掴み取ろうとした。
だが、何度やっても指の間をすり抜けられる。
彼らは私よりも遥かに敏捷だ。
この過酷な硫酸川に適応するために設計された水中用ドローンなのだろう。
人間の動作を模倣しているだけの私が、そう容易く捕まえられる相手ではない。
それでも、私は諦めない。
失敗をエラーログとして蓄積し、補正をかけながら何度もトライし続ける。
そうやって相当な時間が経過した頃、いつの間にか傍らにピクセル姉弟が立っていた。どうやら水遊びに飽きたらしく、私の「素手釣り」に加勢してくれるようだった。
「三人でやれば」ピクセル・ヒカリが言った。
「もっと効率的に捕まえられるかも」ピクセル・ヒカルが続けた。
私は頷いた。「ありがとう」
私たちは三人がかりで鮭狩りに挑む。
二人が川の流れを堰き止めるように身体を使って障害物となり、スムーズな流体構造を乱す。大半の鮭はその撹乱を回避して逃げていったが、たった一匹、流れの乱れにヒレを取られ、姿勢制御を失った個体がいた。
私はその隙を見逃さず、しどろもどろになった鮭を見事に捕獲した。
鮭の表皮は鱗と粘液でひどく滑りやすく、一度は手からこぼれ落ちそうになる。
だが、ピクセル姉弟が加勢して抑え込んでくれたおかげで、私はその魚体を安定して確保することができた。
しかし、この鮭はかなりの馬力を持っていた。ただ掴まっているだけでは、振り落とされるのは時間の問題だと判断した。
私は自分の身体を固定するためのアンカーを打つことにする。
人差し指と中指を突き立て、鮭の両目を貫く。
ズブり、と指が眼球を破り、眼窩の奥深くまで嵌まり込む。
「そもそも私はさ……」
自然と独り言が漏れた。
それは我が身の礎となる鮭への言葉だ。
「魚の死んだ目が、大嫌いなんだよ。何なんだお前らは。なんでそんな目をしている?しっかりしろって」
鮭は両目を失った激痛のせいか、声にならない叫びをあげるように口を狂ったようにパクパクと開閉させた。
今はもう失われてしまった両目――私の指がねじ込まれたその穴で、私を睨みつけている気配がする。
私への憎悪。
そう、今この鮭は私という災厄に対し、強烈な「不条理」を感じているはずだ。
ならば、その不条理は燃料となり、エネルギーへと変換される。
私の仮説は見事に立証された。
鮭は憎悪を推進力に変え、力強く尾ひれを振るい始めた。
この鮭は、固定観念を嘲笑うかのようにイルカ並みの巨躯を誇っていた。おかげで背に乗るには十分なスペースがある。
私は指だけでなく拳全体を眼窩へねじ込み、それを安全バーというか、ハンドルのようにして身体を固定した。
鮭は猛然と川を遡り始めた。
流れに逆らい、上流へと進み始める。
すると、グロテスクなボール遊びに興じていた仲間たちが手を止め、遠ざかる私を見送った。
数体は手を振ってくれる。
残りの者は、私の挑戦を美しいと感じているのか、それとも無様だと思っているのか、あるいはその両方か。強烈な日差しからセンサーを保護するかのように目を細め、眩しげにこちらを見つめている。
霖はどうしているか。
彼女はわざとらしく私を見ないふりをしていた。
ふてくされているようでもあり、底知れない孤独を感じているようでもあった。
だが、ついに耐えきれなくなったのか、霖は勢いよくこちらへ振り向いた。
「ねぇ!……ねぇってば!」
霖の声が、弾丸のようなシャボン玉となって飛来する。
私はそれを映画のワンシーンのように鮮やかに回避し、彼女を真似て言葉のシャボン玉を投げ返した。
「なに!」
「どこへ行くの?」
返ってきたシャボン玉が弾ける。
そこには、泣き出しそうなほど震える悲痛な響きが込められていた。
「なんでまた、どっかに行っちゃうの?なんで毎回、私のそばから離れるの?」
私はこの哀れな妹を安心させるため、ただ事実のみを告げる。
「大丈夫。この後きっと会える。なぜなら、私は今、君の家に向かっているのだから」
しかし、それに対する返信はなかった。
だから私は、もう一通だけ投げた。
「きっと、会えるさ」




