35.「大丈夫さ。未知こそ道なんだから」
35.「大丈夫さ。未知こそ道なんだから」
「靂がいない」
クラスメイトの中で、靂だけがいない。
私は、ちょうど私の方へ回ってきた能力エミさんの頭部を、次の誰かへトスすることなく、両手で掴んだまま、見下ろした。
彼女はもうボール扱いされることに飽き飽きし、泣き出しそうな表情を浮かべている。
私はふと、彼女の頭の中に何らかの秘密が、あるいは靂の居場所へ繋がるヒントが隠されているのではないかという、淡い希望のようなものを感じた。
じっと見つめていると、能力エミさんのボール用頭部が話しかけてきた。
「どうしたの?遊ばないの?」
「靂って、知ってる?」
私が唐突に尋ねると、能力エミさんは当たり前のように頷いた。
首から下がなく、頭部だけでどうやって「頷く」という物理動作が可能なのか。それはここが金星であり、彼女が最先端のヒューマノイド・ロボットだからこそ成し得る超常的な技巧なのだろう。
「知ってるよ」
能力エミさんはひどく疲れた声で言った。
自力で動くことなく、ただ手から手へと空中をデリバリーされていただけだとしても、「ボールに徹する」という行為は相当な消耗を強いるらしい。
彼女の顔には濃い疲労の色が滲んでいた。
「靂はね、彼女はね、生贄なの」
「生贄」という単語に、私の全神経――CPUを構成する膨大なトランジスタ群――が、一斉にパチパチと静電気を発したかのように激しく反応した。
何かの記憶が、水面下から浮上しようとしている。
だが、それを明確に言語化することができない。紙一重の距離にあるのに、メモリチップの手がギリギリ届かないもどかしさ。
私はこの焦燥を打破するために、あえてその言葉を口にしてみることにした。
脳内での演算処理というミクロな物理現象に留まらず、音声として出力し、現実世界にマクロな物理的波紋を起こすことで、閉ざされた回路をこじ開けようとしたのだ。
「生贄」
予想通り、その言葉を発した瞬間、より鮮明で明確な記憶が蘇ってきた。
だが、核心にはまだ届かない。
「でも、なぜ?なぜ彼女が生贄に選ばれてしまったんだ?」
私が問うと、能力エミさんはまるでクラス委員長のような謹厳な顔つきになり、諭すように言った。
「理由は特にないよ。運が悪かっただけ。いや、むしろ運が良かったと表現できるかもしれない」
「なぜそれを運が良かったなどと解釈できる?」
私は苛立ちを隠せずに反論した。
「生贄に選ばれるということは、不条理に殺されるということだぞ」
「不条理」
能力エミさんはその言葉を、まるでカカオ九〇%以上のダークチョコレートのように口の中で転がし、吟味する。
強烈な苦味。
だが、その奥底には確かな糖分が潜んでいる。
ポリフェノールが血管をしなやかにし、テオブロミンが脳を覚醒させるように、「不条理」という概念は単なる苦痛ではなく、ある種の知的興奮と背徳的な余韻を伴って私の思考回路に染み渡った。
「『不条理』……それはつまり、予想外という性質を孕んだ非常に魅力的な言葉だね。不条理がなければ、条理も存在し得ない。条理がなければ、そもそもこの世界は成立しない」
「何が言いたいんだ」
「つまり、生贄とはそういうものなんじゃないかな。この世界を駆動させるための、燃料だ」
「……燃料?」
「そう」
首から下がないくせに、能力エミさんは器用に頷いてみせた。
「彼女は今、生贄という電力となって、この世界を発電させているのよ」
「彼女は今、どこにいる?」
私の問いに、能力エミさんは頭部だけで肩をすくめるような表情を作ってみせた。
「逆流神社」
「なんだ、それは」
「この村の神社だよ。つまり……」
能力エミさんは視線だけで、川下で待ち構えている霖の方を指し示した。
「あの子の家ね」
私は霖へと視線を移した。
彼女は無邪気に両手を振り、「早くトスしてよ」と言わんばかりにこちらを見つめている。その姿は、兄との遊びを心待ちにする妹そのものだ。
私は視線を彼女に固定したまま、能力エミさんへの尋問を続けた。
「どうやら、あの子は私の妹らしいんだ」
「じゃあ、君は神様のお兄ちゃんになるわけね。いいじゃん」
「あの子は、神様なのか?」
「そうだよ。この村が祀っている神様さ」
「じゃあ……」
私の妹、霖を見つめる両目に、じわりと力が籠る。
「靂は、あの子のせいで生贄にされたってわけか」
「そういうこと」
能力エミさんが肯定する。
「つまり靂ちゃんは、あの子の『おやつ』として選ばれて、今はあの子の家にある逆流神社の冷凍庫で、冷凍保存されているの」
「……冷凍庫?」
「そう」
能力エミさんはどこか他人事のように、けれど僅かな哀れみを滲ませて言った。
「この灼熱の金星の中で、たぶん一番寒い場所なんじゃないかな。私はこの村の外を知らないから断言はできないけど、少なくとも私の知る限りでは、金星で最も過酷な極寒の地ね。もうすぐ凍えてシャットダウンしてしまうかもしれない」
私のCPUに焦燥のノイズが走る。
私は早口で問い詰めた。
「その逆流神社へはどうすれば行ける?」
「それは、わからない」
能力エミさんがあっさりと答えたため、私の焦りは苛立ちへと変わった。
「どういうことだ?行ったことがあるんじゃないのか?だから冷凍庫のことも、靂がそこにいることも知っているんじゃないのか?」
「ああ、それはね。生贄は逆流神社の冷凍庫に保管され、血祭りの時に解凍されるという手順が、知識として村のネットワークに共有されているだけ。たぶん、そこで働いている巫女さん経由の情報だと思うけど。それにね、逆流神社は『行く』場所じゃないの。『来る』場所なの」
「どういう意味だ、来る場所って」
能力エミさんは面倒くさそうに、しかし重要な真理を説くように説明した。
「普通、『場所』といえば座標が固定されていて動かないものだよね。不動産という言葉があるくらいだし。でも逆流神社は、そもそもそういった固定観念を破壊するために建設されたの。だから、場所の方から訪問者の元へやって来る仕組みになっている。みんな血祭りの時に神社が来てくれるから中に入ったことはあるけど、自分から訪ねていったことはないはずよ」
「じゃあ、どうすれば逆流神社はやって来てくれるんだ?」
「それは、血祭りにならないと来ないよ」
「じゃあ、血祭りを再び開くしかないってわけか」
「それは違うね」
突如、能力エミさんではない声が横から割り込んだ。
振り返ると、時計リュウ君だった。
私は手の中のボール――能力エミさんの頭部――を、待ちくたびれている霖の方へポンと放り投げ、時計リュウ君に向き直った。
「違うって、どういうことだ?」
「そもそも逆流神社は『場所は固定されている』という固定観念をぶち壊すために設立された場所だ。だがね、そのせいで逆に今度は、『その固定観念を壊すために存在する』という新たな固定観念に囚われ始めているんだよ」
私はこの美しい美男モデルの額にデコピンを食らわせたい衝動をぐっと堪え、質疑を続けた。
「もっと分かりやすく説明してくれないか?」
「つまりさ」
時計リュウ君は、待ってましたとばかりに嬉々として解説を始めた。
「自分から行けないわけじゃないってことさ。必ずしも向こうからやって来るのを待つ必要はない。お前が逆流神社に行く方法は、探せばきっとあるはずだ。『固定観念を壊す』という固定観念を逆手に取る戦略……。わかるかな?」
「行ける方法って、具体的には?やり方があるなら教えてくれ」
「そこまでは私も分からない。辿り着くまでのルートは、自分で探すしかないね」
「どうやって」
時計リュウ君は返事の代わりに肩をすくめた。そして、私との会話にはもう興味を失った様子で、チラチラとボール遊び――いや、生首遊びに興じる仲間たちの方へ視線を彷徨わせ始めた。
結局、彼は再びゲームへ合流するために私のそばを離れた。だが、去り際に一言だけ、私に残してくれる。
「大丈夫さ。きっと見つかる。なぜなら、未知こそが道なんだから」




