33.硫酸川
33.硫酸川
唐突な提案に戸惑う暇もなかった。
敷物の上に座り込んでいた私の手を、霖が強引に掴んで引き起こす。
そのまま彼女に手を引かれ、私は走り出した。庭を出て、家の敷地を出て、どこかへと連行されていく。
走り出す直前、アンモナイトの潤滑油を浴びてコガネムシに変えられてしまった哀れな桜たちが、何匹か私の体にしがみついてきた。「元の美しい姿に戻してください」と懇願するかのように。
私はそれらを体の塵でも払うように叩き落とし、遠ざけながら、テレパシーで彼らに言い捨てた。
『コガネムシ、格好いいじゃん』
私は霖に引かれて走る。
私たちが走っているのは村の中のようだが、どこか様子がおかしい。
建物は崩れ、風景は荒廃している。まるで戦争の爪痕か、あるいは廃墟のようだ。
「村に何かあったの?」
私が尋ねると、霖は振り返りもせず、弾んだ声で答えた。
「大きい火事があったの」
「……火事?」
「うん。ケシ畑で放火事件があって。今はもう落ち着いたけど」
「落ち着いた、というよりは……」
私は呆気にとられながら、現在進行形で駆け抜けている村の惨状を見回した。
そこは村というより、巨大な焼却炉の底のようだった。
無事に残っている家屋など皆無に等しい。
通り沿いには、強制シャットダウンされたヒューマノイド・ロボットたちが、まるで墨汁を頭から被ったかのように黒々と焼け焦げた姿で転がっている。
それは「落ち着いた」などという生易しい状態ではなく、完全な崩壊、あるいは滅亡と呼ぶべき光景だった。
かつて村だった場所が、今はただの巨大な骸となって横たわっている。
「大丈夫だよ」
霖が軽い調子で言った。
「すぐに復興できるから。この村は『ケシ』で有名だからね」
「……ケシ?」
「うん。向電気回路薬系チップのこと」
「それって」私は息を呑む。「つまり、麻薬だろう」
「そうだよ。麻薬さえあれば、村はすぐに蘇る。快楽のあるところに、ヒューマノイド・ロボットたちは集まってくるものだから」
「快楽……」
私は同意できずに眉をひそめる。
「そんな原始的な誘惑で、今時の最新鋭ロボットたちが釣れるものなのか?」
「お兄ちゃん、知らないの?」
霖は走りながら、くるりと器用に振り返った。
「それが最近のトレンドなんだよ。タンパク質のホルモンメカニズムを完全に模倣するのが、今の金星の流行りなの。巡り巡って、またドーパミンの時代が来たってわけ」
そこから霖は、ドーパミンやセロトニン、アドレナリン、ひいてはエンドルフィンといった神経伝達物質の作用を、いかにして電子回路上で具現化しているかというエンジニアリング講義を長々と始めた。
私はそれをつまらないBGMのように片耳で聞き流しながら、黙々と足を動かした。
視界を流れるのは、灰色の荒野。
かつてこの星を彩っていた黄金色も、妖艶な紫色も、ここではすべてが死に絶え、ただ無慈悲な灰色だけが支配している。
金星特有の厳しくも優雅な美しさは失われ、ただの焼け跡だけが広がっていた。
走る。
走って、走って、走る。
ふと、この小さな少女型ロボットに引率されていると、私たちはまるで煉獄から逃げ出そうとする亡者のようにも思えた。
金星の熱気と、全焼した廃墟でなお生き延びている蝉たちの悲鳴が混ざり合い、不快なノイズとなって私の膝のアクチュエーターに纏わりつく。
足は鉛のように重いが、それでも耐えて足を動かし続ける。
そして、永遠にも感じられた逃避行の果てに、唐突に景色が開けた。
霖が目指していた場所に到着したのだ。
そこは、川だった。
背後に広がる未舗装の荒廃した村とは異なり、ここには文明的なアスファルトの道路があり、ガードレールが整備されていた。その向こう側、火災を免れた草木に覆われた絶壁の底に、川が流れていた。
その川は、異様なほどに美しかった。
エメラルド・グリーンと表現するのが最も適切だろう。
水面自体が淡い発光現象を伴っており、その中をペールブルーの粒子――夜光虫をさらに輝かせたような光の粒――が無数に浮かんでいる。
それらは藻類のように漂っているが、決して汚らわしくはなく、むしろ川の神秘性を高めていた。
光の粒は奔流に乗って、凄まじいスピードで流れていく。
荒れ果てた村の事情など知ったことではないと言わんばかりの、別次元の避暑地のような光景がそこにあった。
私はガードレールから身を乗り出し、眼下を見下ろした。
川幅は広く、五トン積みの大型トラックが三台並走しても余裕があるほどに見える。
異様なのは、その川岸だった。
両岸には、長さも形状も不揃いなクリスタルのような鉱物が、びっしりと突き立っていた。いや、突き刺さっているというより、そこから「生えて」いると言った方が近いかもしれない。
川の流れに沿って無数に生え揃ったその結晶の先端は、どれも鋭利に尖っており、近づく者を切り裂くための牙のような、威嚇的な美しさを放っていた。
その異様なクリスタルの林が何を意味するのか、近づくにつれて理解できた。
鋭利な先端に貫かれていたのは、火災から逃れようとしてこの川を目指したヒューマノイド・ロボットたちだった。
ガードレールから川面までは相当な高低差があり、断崖絶壁となっている。炎に追われた彼らは川へ飛び込もうとしたものの、飛距離が足りずに川の手前に突き出した結晶群へ落下したのだろう。
彼らは先端に突き刺さり、あるいは串刺しになり、無惨な姿で動きを止めていた。
廃棄された工業製品のように色褪せ、永遠のシャットダウンを迎えた屍が、川沿いにずらりと並んでいる。
それは村の死んだ住人すべてをこの鉄の墓地へ集めたかのような、あるいはマッドサイエンティストが築いた悪趣味なオブジェのようにも見えた。かつて栄え、今は荒廃した工業地帯の末路を示す、凄惨な光景だった。
とても川遊びなどできる場所ではない。
だが、驚くべきことに、周囲の屍を気にする様子もなく遊んでいる先客がいた。
高校生の外見設定をした男女数体のヒューマノイド・グループだった。
彼らはまるでごく普通の夏休みを謳歌している仲良しグループのように、無邪気な雰囲気を醸し出している。
彼らは光る水面を蹴り上げ、エメラルド色の飛沫を互いに掛け合っては甲高い笑い声を上げていた。
一人の少年がビーチボールを高く放り投げると、少女がそれを追いかけて水しぶきを上げながらダイビングキャッチを決める。
太陽の下、きらめく水面と若者たちの姿は、ここが死の淵であることを忘れさせるほど眩しく、そして残酷なほどに平和な情景だった。
霖が目を輝かせ、私に向かってシャボン玉を飛ばしてきた。
「私たちも入ろう!」
確かに、うだるような暑さの中、涼しげな川は魅力的ではあった。少しだけ心が動いたのも事実だ。だが、私は肝心な点を確認しなければならなかった。
「でも、どうやって川へ下りるんだ?」
何も考えずに飛び込めば、あの無数の屍と同じようにクリスタルの串刺しになって終わりだ。
すると、どこからともなく二機のドローンが飛来した。
それらはまるでUFOキャッチャーのように、私と霖をそれぞれの頭上から捕捉した。伸びてきたのは、映画『E.T.』の指のように皺くちゃで、気味の悪い生臭い緑色をした長い三本指のアームだった。アームは私たちをがっちりと掴んで救い上げ、そのまま川の方へと空輸した。
ドローンは川とクリスタルの境界ギリギリの地点でぴたりと静止し、唐突に私と霖を空中に放り出した。
私は戦慄した。
このままではクリスタルに串刺しになる。
情けない悲鳴を上げながら落下していく私とは対照的に、霖は歓喜の叫びを上げていた。
ドボン、と水音がして、私たちは川へ落ちた。
全身が水に包まれた瞬間、私は不用意にも目を開けてしまった。
そして、水中で絶叫した。
「グアアアアアアアアアアッ!」
目が、溶けた。
この川はただの水ではなかった。
高濃度の硫酸だったのだ。
視覚センサーのレンズが瞬時に溶解し、エメラルド色の美しい景色が永遠に失われる。
保護膜を失い、眼窩というただの空洞になった穴へ、容赦なく硫酸が流れ込んでくる。
液体は頭蓋骨の内部へ侵入し、電子回路の隅々まで染み渡り始めた。
このままではCPUまで溶かされる。
こんな風に最期を迎えるのか。
八割方諦めかけていたその時、霖が泳いできた。
不思議なことに、彼女は硫酸の中でも平気で目を見開いていた。
彼女は手に水中眼鏡を持っていた。
それを私の目に装着しようとするが、まずは私の頭蓋内部に侵入した硫酸を除去しなければならない。
霖は人工呼吸をするように私の眼窩に口を寄せ、溜まっていた硫酸を一気に吸い出した。眼窩が一瞬の真空状態になった隙に、素早くゴーグルを装着する。
奇跡が起きた。
レンズもセンサーも溶け落ちてしまったはずの私の目が、そのゴーグルを通すことで再び視覚データを受信し始める。
ただし、世界の色は失われていた。
まるで古い白黒映画のように、視界のすべてがモノクロームに変換されていた。
「ごめんね、お兄ちゃん……」
彼女は高濃度の硫酸に浸かりながら、涙を流していた。
エメラルドグリーンの水中において、彼女の涙は鮮烈な赤色をしていた。
だから、彼女が泣いていることは痛いほどによく分かった。
だが、その美しい目から零れ落ちた涙は、直後に硫酸と反応して黄金色に蒸発し、泡沫となって水面へ、そして金星の大気圏へと還る長い旅を始めてしまうのだった。
「カラー機能までは復旧できなかった。白黒になっちゃったけど、これで何とか我慢してね」
「十分だよ」
私は本心からそう言った。
「むしろ、白黒の方がノワール映画みたいでいい。カラフル過ぎるのはダサいからな。たまにはトーンダウンも必要だ。ありがとう、直してくれて」
やけにくどくどと感謝を伝えてしまったが、安堵したのは事実だ。
ただし、一つだけ例外があった。
赤色だけは、ちゃんと赤色として認識されるのだ。
つまり今の私の視界は、モノクロームの世界に赤だけが色彩を持つ、『シンドラーのリスト』の少女のような状態になったわけだ。
私は霖がくれた、透明で格好いい水中ゴーグルを装着したまま水面に顔を出した。
すると、先客の――すでに川遊びに興じていた高校生設定のヒューマノイドたちが、泳いで近づいてきた。
彼らは心配そうに声をかけてくる。
「おい!大丈夫か!?」




