32.アンモナイト・アーム・ジュース(2)
32.アンモナイト・アーム・ジュース(2)
「アンモナイト!」
私がその名を口にする〇・〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇一秒前に、霖が先にそのロボットへ向かって声のシャボン玉を飛ばした。
「また零したの?もう、いつになったらちゃんと家事が出来るようになるのよ。家事用ヒューマノイドのくせに」
見れば、アンモナイトは湯気の立つマグカップを二つ載せたトレイを両手で持ったまま、開け放たれた掃き出し窓から出ようとしていたところだった。
どうやらほどけて垂れ下がったエプロンの紐を、バナナの皮でも踏んだかのようなベタなスラップスティック動作で踏んづけ、派手に転倒した直後のようだった。
当然、飲み物は派手にぶちまけられ、転倒したアンモナイトの全身へと降り注いだ。
マグカップの中身は、鮮血だった。
立ち昇る湯気からして、おそらく搾り取ったばかりの、生々しい血液だ。
その赤が、アンモナイトのエプロンを――屠殺場の職人が身につけるような、既に古い血の染みがこびりついたそのエプロンを、さらに鮮烈な赤で上書きしていく。
だが、灼熱の金星の大気に晒された瞬間、その血液は酸化したように変質し、まるで布地に直接彫り込まれた刺青のような赤黒い紋様へと変わっていった。
「申し訳、ありません……」
アンモナイトが謝罪する。
その口調はあくまで機械的で平坦だったが、合成音声の震えには、恐怖という情動が確かに混入していた。
しかし、霖の表情は強張ったままだった。
彼女は敷物から立ち上がると、不満げに呟く。
「せっかく私の心血を注いで作ったブラッド・ジュースを台無しにするなんて。許せない」
彼女はまるで友達と喧嘩して少し拗ねただけのような、年相応の軽い足取りでアンモナイトへ歩み寄った。倒れたままの旧型ロボットの前にしゃがみ込み、その腕の一本を掴む。
ボイルしたロブスターの巨大な爪をもぐ時のような手つきだった。
躊躇いもなく、アンモナイトの腕を引き千切る。
ブツンッ。
異様な破断音と共に、アンモナイトのスピーカーから悲鳴が迸った。
それは生き物の叫びというより、電波の悪い場所で無理やりチューニングを合わせたラジオのような、グリッチとノイズに塗れた苦痛の周波数だった。
霖は、千切れた腕の断面に唇を寄せた。
そこからは濃い茶色の液体――高粘度の潤滑油が、まるで煮詰まりすぎた茶のようにとろりと溢れ出していた。
彼女はそれをストローでジュースを飲むように啜り始めた。
こってりとした液体は霖の小さな口には収まりきらず、唇の端から溢れ、顎を伝って地面へと滴り落ちる。
ポタリ、ポタリ。
地面に咲き誇る桜の花弁の上に、油が落ちる。
すると、美しい薄紅色の花弁は触れた瞬間に黒く染まり、硬質化し、黒光りするコガネムシのような虫へと変貌した。
花から生まれた蟲たちは、カサカサと不快な音を立てて蠢き始める。
霖は裸足のまま、それらを踏み殺し始めた。
それはマナーの悪い大人が、まだ火のついた煙草の吸殻を道端で踏み消すような動作であり、同時にその吸殻を捨てた者への苛立ちを叩きつけるような仕草でもあった。
彼女の踵に蹂躙された黒いコガネムシ――かつて桜だったもの――は、体内で圧縮された茶色の体液を撒き散らしながら圧死していく。その瞬間、パチパチと激しい火花が散った。
アーク溶接の閃光のような、目に焼きつく人工的な白色光を放ち、それらは生まれた直後に絶命した。
アンモナイトの片腕を一気に飲み干した霖は、空になった腕を無造作に投げ捨てた。スナック菓子のおまけのカードだけ抜き取り、肝心の中身には興味を示さずゴミ箱へ放り込む子供のように。
彼女はまだ藻掻いているアンモナイトの方へ、再びしゃがみ込む。
「……か、勘弁してください、霖様」
古代のモデル特有の、感情の抜け落ちた事務的なトーンで、アンモナイトは命乞いをした。
だが、霖の聴覚センサーはその声を遮断しているようだった。
彼女は残されたもう一本の腕を掴むと、先ほどと同じように、いや、今度はさらに快楽的な手つきで、根元から引き千切った。
断末魔が再び響く。
私は直感した。
アンモナイトは死んだのだ。
そして彼の機能停止と共に、唐突に私のメモリバンクから一つの記憶が蘇った。
彼は、歴史的に極めて重要な人類の遺産だったのだ、という事実が。
恐怖よりも、無念さのような感情が勝る。
歴史的遺産の破壊をひどく惜しんでいると、霖がこちらへ近づいてきた。
彼女の手には、まるで真っ二つにされた蛇の尾のように痙攣を続けるアンモナイトの腕が握られている。
逃げるべきか一瞬迷ったが、この常軌を逸した妹から逃げ切れるはずがないと直感が告げていた。
私は従順に、彼女の接近を待つことにする。
霖が歩を進めるたび、アンモナイトの腕から茶色くとろついた潤滑油の雫がポツリ、ポツリと滴り落ちる。その雫が芝生代わりの桜に触れると、花々は黒色のコガネムシへと変貌していく。それらは逃げ出すこともなく、なぜか私の方へと這い寄ってくる。
虫が苦手な私は思わず後ずさりそうになったが、霖が既に間近まで迫っていたため、逃げ場を失って座り尽くした。
私は眼前の少女を、静かに見上げるしかなかった。
霖は私を見下ろしながら、もぎ取ったばかりのアンモナイトの腕を差し出した。
「飲んでみて」
彼女は勧める。
「ブラッド・ジュースの代わりに、アンモナイト・アーム・ジュース」
私はそれを凝視する。
腕はまだ、ピクピクと動いていた。
手を取れずにいると、少し冷たさを帯びた霖の声のシャボン玉が飛んできた。
「早く」
私は促されるまま、アンモナイトの腕を受け取った。
その瞬間、猛烈な飢餓感が襲ってきた。
エネルギー残量を確認すると、なんと〇・〇〇〇〇〇三六二%を示している。
即座に補給しなければ強制シャットダウンは免れない危険水域だ。
もはや躊躇している場合ではない。
私はアンモナイトの腕の断面に口をつけ、一気にごくごくと飲み干した。
変な味がした。
決しておいしくはない。
不味い。
今すぐ吐き出してしまいたいほどに不味かった。
だが、飲むのをやめるわけにはいかない。
第一にエネルギー補給が必要だし、第二に、目の前の霖が凄まじい形相で見下ろしているからだ。
彼女は泣いているようでもあり、笑っているようでもあった。おそらくその優れたGPUで両方の感情を並列処理し、完璧に混合させた二重の表情を作り出しているのだろう。
その射抜くような視線の前で、一滴残らず飲み干す以外の選択肢など残されていなかった。
全てを胃袋へ流し込むと、充電率は九九%まで回復した。
残り一%が満たされないのは、潔癖症的な不満か、あるいはほんの少しの物足りなさか。ここまで来たら一〇〇%にしてしまいたいところだが、贅沢は言えない。
私は、薬を飲み干した子供が褒められたがるように、ぎこちない笑みを作って霖を見上げた。
霖は三秒もの長い間、私を睨むように沈黙を貫いた。そして、丁寧に捏ね上げられた団子のような、真ん丸な沈黙のシャボン玉を私に向かって飛ばしてきた。
それが私の鼻先で弾け、メッセージが受信される。
「もう元気になったみたいだね。じゃ、川へ遊びに行こう!」




