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MURA  作者: 月兎


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31.アンモナイト・アーム・ジュース

31.アンモナイト・アーム・ジュース


 覚醒した瞬間、頭がおかしくなったのではないかと疑うほどの蝉時雨が、私の聴覚センサーを乱切りにした。

 とにかく視界が赤い。

 瞼の裏に紅いシロップでも塗られたのか、あるいは赤い金平糖を目やにとしてつけられたのか。視覚センサーは、かつて認識したことのない赤く滲んだ世界を映し出している。

「お兄ちゃん」

 どこからか声が届く。

 少女の声だ。

 私のデータバンクには存在しない声紋。

 その声を分析してメモリチップに格納するより先に、まずは自分自身のステータスを確認し、自己認識を確立させなければならない。

 私はひどく億劫な気分を押し殺し、脳内を直接かき回して診断するよりは手っ取り早いだろうと判断して、問いかけた。

「私の、名前は?」

 喉のどこかに埋め込まれたスピーカーから発せられた自分の声は、まるで他人のもののように響いた。初めて聞く声のようだが、決してそうではないという確信もある。少なくとも、たった今工場から出荷されたばかりの新品ではないという状況だけは、はっきりと理解できた。

「お兄ちゃん」と呼んだ少女からの返事を待つ間に、私は緩慢な動作で両手を持ち上げ、瞼を擦った。

 すると、赤色の滲みは案外あっさりと拭い去られた。

 代わって現れたのは、黄金色の色調だった。

 光源も、大気も、視界のすべてが黄金のパステル・トーンに彩られている。

 その輝きは、見る者の心を穏やかに鎮めるゴールドのバイブレーションに満ちていた。

 一体あの最初の赤色は何だったのかと怪訝に思いながら、私は環境データの収集を開始する。

 私は仰向けに、大の字になって倒れている。

 背中にはピクニック用の敷物のような、カーボン素材の布の感触がある。

 システム全体が微睡むような、余裕と安らぎに満ちたそよ風のような気配に撫でられながら、私は頭上を覆い尽くす空を見上げた。

 遮蔽物一つない、どこまでも広がる真昼の空。

 分析結果が出た。ここは金星だ。

 おかしい。私は火星のヒューマノイド・ロボットのはずなのに。

「寝ぼけてるの?」

 可愛らしく、はしゃぐような少女の声が眼前にポンと落とされた。

 その音はシャボン玉の形をしていて、私の鼻先に触れるとパチンと弾けた。

 少女はもう一つ、言葉のシャボン玉を吹きかけてくる。

「黽、でしょ?」

「……黽?」

 私は寝転がったまま首をかしげた。

「変な模様だな。どんな読み方をするんだ?」

「カイ、だよ」

「そうか……」

 私は首をかしげた角度のまま頷き、そのまま頭を回転させて、シャボン玉の飛んでくる方向へと顔を向けた。

 そこには、設定年齢九歳ほどの、ショートカットのヒューマノイド・ロボットがいた。

 その瞳があまりにも怒り狂ったような赤色を帯びていたため、一瞬視線を逸らしたくなるほどの恐怖を覚える。だが、その顔つきはあくまでも爽やかで、あどけない子供の笑顔そのものだった。

 私は気のせいだと思い直し、目を逸らさずにその小さなヒューマノイドに尋ねた。

「君の名前は?」

「霖だよ。読み方はリン」

「霖」

 その名を口にした途端、正体不明の凄まじい恐怖と、それを上回る罪悪感が胸に込み上げてきた。

 だが、霖の瞳がさらにギラギラと赤く輝くと、沸き上がった負の感情は焼き殺された虫のように縮こまり、焦げ付いて消滅した。

「妹の名前も忘れてしまうなんて……」

 霖は悲しげな表情を作って、私を深く見下ろした。

「私、傷ついた」

 それを聞いて、私はまず身体を起こそうと試みた。

 ボディのアクチュエーターへ本格的に始動シグナルを送る。今になってようやくブートローディングが完了したかのような感覚と共に、私は上半身を起こした。

 正面に座る霖の背後に、一軒の家屋が見える。

 ありふれた田舎の、平屋建ての和風建築だ。

 その家を凝視していたせいで霖の顔がぼやけていたが、私は再び焦点を手前に戻し、彼女の顔を鮮明に捉え直した。

 そして口を開く。

「ごめん」

 とりあえず謝罪しておいた方がいいという強い衝動に駆られたのだ。

 そして私は、状況を簡潔かつ明確に説明できる、ほぼ無敵の切り札を提示した。

「私、記憶喪失になってしまったみたいだ」

 すると霖は、わざとらしいほど大袈裟に驚愕してみせた。

 ショックを受けたような、パニックに陥ったような顔。

「じゃあ、霖のこと、全部忘れちゃったの?」

 私は素直に首を縦に振る。

「うん」

 霖はさらに深刻そうな表情を作ろうとしたが、突如として「今までの反応は全部演技でした」と茶化すように破顔した。緊張など微塵も感じさせない、この上なく優しく、安らぎに満ちた笑顔を向けてくる。

「大丈夫だよ。ヒューマノイド・ロボットが記憶喪失になるなんて、そんなに珍しいことじゃないし」

「……そう、なのか?」

 私が怪訝そうに尋ねると、霖はしげしげと頷いた。

「そうだよ。火星ではどうか知らないけど、金星のヒューマノイドはしょっちゅう色んなことを忘れちゃうんだ」

「でも私は、火星製のヒューマノイドだ」

「だから……」

 霖は人差し指を立てて、諭すように言った。

「つまりお兄ちゃんも、もうすっかり金星のヒューマノイドになっちゃったってわけ」

「……」

 全く嬉しくなかったので黙っていると、霖はふてくされたように頬を膨らませた。

 私はその頬に親指と小指をあてがい、口の中の空気を押し出すように絞ってみた。

 すると、彼女の唇が夜明けのつぼみのように小さく開き、そこから淡い紫色のシャボン玉が一つ、ふわりと溢れ出した。それが私の鼻先に触れた瞬間、あるはずのない大火災の記憶が地震のように全身を振動させたが、それは〇・〇〇〇〇〇七秒も経たぬうちに収まった。

 だが、私の背筋には絶対零度に近い悪寒が走った。

 うっかり忘れていた何かを不意に思い出したような閃き――それが訪れるや否や、まるでそれを妨害するかのように大きな音が響き渡った。

 私と霖――私の妹だと主張する少女型ロボット――は今、一軒家の前庭にいる。

 なぜか地面から直接咲き乱れる満開の桜の中、シルクのような敷物を広げてピクニックをしている最中だったらしい。

 私の横には光速充電式の弁当箱も置かれている。

 だが、音の発生源はその穏やかなピクニックの現場ではなく、家の中からだった。

 自然と音のした方へ視線を向けると、何かが姿を現した。それはどこにでもありそうな、しかし相当に年季の入った家庭用ヒューマノイド・ロボットだった。

 私や霖のように人間と見分けがつかない最新型ではない。

 かつて「ロボット」といえば誰もが思い浮かべたであろう、武骨な外見の機体だ。

 ある、と私は思う。

 何があるかといえば、既視感だ。

 あれは、どこかで見たことがあるロボットだった。名前は確か……。

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