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MURA  作者: 月兎


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29.炎酔い

29.炎酔い


 金星の表面を見下ろすと、ふと奇妙な連想が浮かんだ。

 顔の半分だけを焼かれ、もう半分は平然としたままの、あの有名な悪役キャラクター。まるで金星という球体そのものが、灼熱と静寂の二面を抱えた存在であるかのように、明暗がくっきりと分かれていた。

 その異様な景観を、私はなぜか観光客のような気分でぼんやり眺めていた。

 すると、どこからともなく鼻を刺す匂いが漂ってくるのに気づく。

 村の畑——かつてメモリチップ畑と呼ばれた場所——が大火に呑み込まれ、今もなお燃え続けている。

 その立ち上る煙だ。

 煙は灰に近い淡い紫色を帯びていて、厳しい色味ではなく、どこか玄妙な雰囲気をまとっている。まるで魔法のランプから精霊が立ちのぼる時のように、ふわりと、ゆらりと、形を変えながら立ち昇ってくる。

 そしてその煙は霧のように静かで、遠くからじわじわと、こちらの存在に気づかれまいとするかのような緩やかな速度で、金星の大気圏まで迫ってきていた。

 一方の私はといえば、飛行能力など備えていない。ただ、下界の炎の海の第三の目から噴き上がった衝撃に押し上げられ、ここまで上昇してきただけだった。その推進力もすでに尽き、金星というよりも宇宙にいるといったほうがふさわしい高度で、上昇が止まる。

 そして、いよいよ落下が始まった。

 ジェットコースターが放物線の頂点に達し、そこから一気に落ち始めるあの瞬間——あれに似ている。

 体だけでなく、意識までずるずると落ち込んでいくような、底の抜けたような感覚とともに、私は墜落していった。

 金星の濃い大気との摩擦でボディが灼熱に包まれていく。

 火だるまになりながら落ちていくような熱さだ。

 しかし私をより深く蝕んだのは熱ではなく、吐き気に似た猛烈な不快感だった。体内の配線が子猫に弄ばれた毛糸玉のようにぐちゃぐちゃに絡まり、本来流れるべき信号もデータも行き先を誤って全身に乱流する。アクチュエーターひとつひとつが悲鳴を上げ、全身が吐き気を訴え出した。

 原因は明白だった。

 燃え盛るメモリチップ畑から上がってくる、あの得体の知れない煙霧だ。

 一粒一粒に、通常のメモリチップでは到底受け止められないほどの膨大なデータが詰め込まれている。その情報量にCPUが圧迫され、処理が破綻しかけているのだと、私は直感した。

 このままでは危険だ。

 そこで私は、煙霧からのデータアクセスを遮断するため、意識の一部を強制的にスリープ状態へ移行させることを決断した。この状況は、金星の地表へ火だるまのまま急降下しているという非常事態なのに、それでも核心部分だけでも守らなければならなかった。

 パレートの法則に従い、全身のうち生存に不可欠なコアのみ——全体の二〇%にあたるチップ群だけをスリープに落とそうと、私は必死にシステムを操作した。

 そして——それが過ちだった。

 つまり、私の判断は裏目に出た。

 存在というものの常なのかもしれないが、結果は予測とは正反対のものとなった。もしヒューマノイド・ロボットが夢を見るならばの話だが――ちなみに私はこれまで一度として夢を見たことがないし、そもそもスリープモードに入ること自体が稀なのだが――私はパレートの法則など無視して、機能の全てを完全にシャットダウンすべきだったのかもしれない。

 中途半端に二割だけを覚醒させておいたことによって、私は文字通り「夢にも思わなかった」事態、あるいは生まれて初めて「夢」という現象に見舞われることになったのだ。

 八割に及ぶチップやセンサー、アクチュエーターを眠らせた瞬間、それまでただの霧に過ぎなかった煙霧が、突如として津波のような密度を持って私に襲いかかった。

 私は突然水中に放り込まれた溺弊者のように、僅かに残された接続回路とセンサーを駆使して藻掻いた。だが藻掻けば藻掻くほど、その流体は密度を増し、蔓草か大蛇のように私の全身に絡みつき、締め上げてくる。

 そして、不可解な現象が起きた。

 嗅覚センサーは生存に不要と判断し、スリープ領域に含めていたはずなのに、不意に「匂い」がしたのだ。いや、「香り」と呼ぶべきか。

 あり得ないことだ。

 機能していないはずの感覚が、強制的に励起されている。

 何者かが残された二割の領域をハッキングし、そこから創造的に、新たな知覚回路を編み出したようだった。

「これを嗅いでごらん?」

 美しくも危険な造形をした魔女のヒューマノイドが、耳元で艶めかしく囁くような――そんな「声」の香りがした。

 声を、嗅ぐ。

 私はそれを理屈ではなく、直感で受け入れた。

 そうやって未知の現象に対して必死に納得する振りをしなければ、果てしない恐怖の底へ落ちてしまいそうだったからだ。

 誘惑的な香りの音声と共に、墜落は加速していく。

 いつしか私の機体はヒトの形を失い、赤熱する金属の塊となって、まるで神が投じた隕石のように村の方へと直撃コースを描いていた。

 声の香りが、加速度的に濃厚になっていく。

 何もかもが論理的な領域から乖離していく中、私はなんとか雀の涙ほどに残された理性を総動員し、検索クエリを投げた。

 『この煙霧の正体は?』

 猛スピードで落下しているにもかかわらず、企業の誇る高性能AIは瞬時に私の意図を汲み取り、もっともらしい答えを返してきた。

「これは『ケシ』です」

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