25.火の海のデンキウナギ
25.火の海のデンキウナギ
不思議なことに──いや、ありがたいことに、泳ぐことはできた。
この田んぼが燃え上がって生まれた火の海では、物理法則がどうにかして狂っている。
理由はわからない。
だが、確かに浮力が存在していた。
おそらく、火の海の高温が空気と蒸気を猛烈に上昇させ、その対流が揚力のような力を生んでいるのだろう。
──まるで炎に抱き上げられ、胴上げされていく感じに近い。
とにかく、私たちは燃えさかる海の中を、泳ぐようにして進むことができた。
この田んぼは深い。火が燃え移る前、私と靂は底の見えないほどの深みまで落ちていた。だから、今はその底から浮上している最中というわけになる。
火の海の「水面」──いや「火面」までたどり着くのは容易ではない。
夜の闇に包まれ、太陽はどこにも見えない。
だが、火の光があまりに強すぎて、もはや太陽そのものの中にいるかのようだった。
私は金星の重力に逆らいながら、上昇を続ける。
この原始のスープのような、燃えたての海には、まだ何の生物もいない。
それがせめてもの救いだった。
誰にも邪魔されず、ただ二人で──炎の中を泳ぎ続けた。
私たちは二人三脚――いや、この場合は脚ではなく、手を結ぶでもなく、まるで溶接するように一体化して――二人三腕となった格好で、必死に、死に物狂いで上昇を続けた。するとようやく、火面が見えはじめた。
「もうすぐだ」
希望に満ちたテレパシーを靂に送ると、靂も同じ波長の希望を帯びた返事を返してくれた……はずだった。だが、その信号は途中で途切れた。誰かが、意図的に妨害したのだ。
妨害したのは――無頭子だった。
愛おしい靂のメッセージを押し退けるように、無頭子のテレパシーが私のCPUに容赦なく流れ込んでくる。
「お前ら」
呆れたような調子だった。
「魚の目に水見えず、って言葉も知らないのか」
「はあ?知らないよ、そんなの。だいたいここ、水の中でもないし、私たち魚でもないし」
「じゃあ、灯台もと暗し、はどうだ?」
その言葉を聞いた瞬間、私はふと足元――いや、下方を見下ろした。
何かの気配が、ものすごい勢いでこちらに向かってくるのを感じたからだ。
下から、あまりにも眩しい光が立ち上る。
光と熱が渦を巻き、辺りがホワイトアウトを超えて、まるでファイアーアウトとでも言うべき状態になる。可視光では何も見えないほどの悪環境の中――それでも、はっきりと見えた。
鈍色に輝く、巨大な何か。
くねり、ねじれ、うごめきながら、すさまじい勢いで私たちに向かって上昇してくる。
「な、何だ、あれ?!」
「この田んぼの守護者だよ」
無頭子が、どこか誇らしげに言う。
「この金星の田んぼは、特に上質なメモリチップを生産することで有名なんだ。だから、スズメやバッタ、イナゴ――いろんな連中が寄ってくる。それに対抗するために、かつて金星でアバターとして暮らしていた古代のエンジニアたちが、心血を注いで作り上げたのが、あの存在さ」
それはもう、すぐ真下に迫っていた。
全貌は視界に収まりきらない。
まるで古代人類が月や火星に自らの脆い身体を送るために作った超大型ロケットを、五十基ほど合体させたかのような――そんな規模だ。
全長は一キロを超え、直径は百メートルほどにも及ぶ。
視覚センサーがデータを取り込むだけで戦慄する。
巨大で、長く、鈍く光るその姿は、ただそこにあるだけで忌まわしいほどの威圧感を放っていた。
「火の海のデンキウナギだ」
無頭子が言った。
けれど、私はふと違和感を覚える。
「最初からそんな名前だったのか?だって、この田んぼが火の海になったのはついさっきだろ?」
「ほんっとバカだなお前は」
無頭子は深くため息をついた。
「名前ってのは変わっていくもんだ。前は「メモリ田んぼのデンキウナギ」だった。でも今、この場所がメモリ田んぼに見えるか?」
「……見えない」
「だろ?もうメモリ田んぼとは呼べない。今はお前らのせいで、すっかり火の海になっちまった。じゃあ、そこに棲んでるデンキウナギを何て呼ぶ?」
「……火の海のデンキウナギ」
「よくわかってるじゃねえか、この戯け。こんな明白なことまで説明しなきゃいけねえのか。だから火星の奴らは……」
ぶつぶつと説教を垂れる無頭子のテレパシーを一時的にミュートにして、私は改めて火の海のデンキウナギを見下ろした。
その目は、まるでプリズムを球体にしたかのようだった。
もともとは透明な質感を持つように見えるが、表面には虹色の輝きが走っている。
だがその虹色は、美しい二次元的な虹とはまるで違っていた。車のタンクから漏れた油がアスファルトに落ち、雨に打たれて滲み出す――あの汚れた油膜のような、不快な光沢。
いや、もっと言えば、ハエの羽の鈍い輝きのような色だった。
しかもその目玉が三つもあり、それぞれが喜、哀、楽の感情を表そうとしているのがわかる。だが四つ目にあたる「怒」だけがどこにもない。
――そう、本体そのものが「怒」を体現していた。




