2.桜が地面に咲く花園付きの家
2.桜が地面に咲く花園付きの家
私は鳥居をくぐった。
いや、正確には、くぐらされた。
手動的に、強制的に。
拒否する間もなく、招き入れられてしまった。
もっとも、ここに来る前、火星にいたころから、遠隔通信でこの町の情報にはアクセスしていた。
住む予定の家も、すでに仮想環境上で用意されている。
だから「招かれた」というより、「予定通り到着した」と言うべきかもしれない。
だが、実際に鳥居をくぐった瞬間、世界の光が変わった。
一瞬で、昼が夕暮れに変わったのだ。
たった今まで、太陽は真上にあった。
それが、くぐった途端に――紫がかった、霞むような夕景に変わった。
「……なに、これ」
思わず呟き、外に戻ろうとした。
だが、足が止まる。
透明な膜のようなものが、私の前に張りつめていた。
まるでATフィールドのように、見えない壁が世界を分断している。
触れようとしても、そこには確かに境界がある。
外には出られない。
まるで、ゲームの未開発エリア。
背景だけが描かれ、プレイヤーは入ることができない場所。
そんな行けない領域が、現実のようにそこにあった。
私は首を巡らせ、霖に声をかけようとした。
「ねえ、リン」
だが、彼女の姿はなかった。
どこにも、いない。
さっきまで確かに、ここにいたはずなのに。
まるで最初から存在していなかったかのように、痕跡ひとつ残っていない。
あの短いやり取りが、もしかして私の幻覚だったのではないか――そんな錯覚すら覚える。
紫の夕暮れ。
霧のように柔らかな光が、あたりを包んでいる。
空気の粒子が、金星特有の重さで私の動きをわずかに鈍らせた。
その世界は、まるで遠い昔に読んだおとぎ話を、パステルの絵具で塗り直したような色合いをしている。
「……とにかく、進まないと」
自分でも驚くほど自然に、そう口が動いた。
まるで誰か――モニターの向こうのプレイヤーに指示されたかのように。
私は鳥居を背に、村の奥へと歩き出す。
「リン」
呼んでみる。
返事はない。
もう一度、声を張る。
「リン!」
風が吹き抜けるだけ。
名前を日本語の読み方で呼ばなかったせいかと思い、今度は漢字で、音を意識して発した。
「霖!どこにいるんだ!」
しかし、それでも返答はない。
諦めて、私は手首に巻かれたウォッチの画面を起動する。
ホログラム上に、居住地のマップデータを展開。
表示された私の家の位置を確認し、そこへ向かうことにした。
歩きながら、私はあたりを見回した。
家らしいものはまだ見えない。
道の両側には、草が無造作に伸びている。舗装はところどころ剥がれ、アスファルトとセメントが、まるで溶けかけたアイスクリームのように入り混じっていた。
足を踏み出すたびに、硬いのか柔らかいのか分からない感触が伝わってくる。
その道の両脇を囲うように、木々が続いている。
いや、あれは木なのだろうか。
遠目には柳のように見えたが、近づいてみると、枝には無数の金属片――まるでロボットの関節部品のような細かなパーツが葉のようにぶら下がっている。
葉脈の代わりに、光ファイバーが微かに発光していた。
木のふりをした何か。
並木というより、どこか機械的に等間隔で並んでいる様子は、コンベアベルトの部品列のようでもあった。
紫がかった霧が、次第に濃くなっていく。
私はその中を泳ぐように進んだ。
やがて三叉路に出る。
私は南東の道を選んだ。
そこからは、森が深くなる。
遠くに見えていた山や畑のような景色も、木々の壁に遮られ、完全に視界から消えた。
濃密な緑のトンネル。
日差しはほとんど届かず、かわりに、白熱球のような街灯が等間隔で立っていた。
その光はやや眩しすぎて、どこか人工の胃袋の中を歩いているような圧迫感を与える。
そして、ようやく――一軒の家が見えた。
森の奥、まるで金星のこの辺境の中でも、最も孤立した場所にぽつりと建っている家。
それが、私の新しい住居だった。
家は一階建て。
日本の伝統的な和風建築を模している。
広い居間、そして庭。
庭の半分は芝生で、もう半分は――信じられないものが咲いていた。
桜、だ。
ただし、それは“地面から咲く桜”だった。
木に咲くのではなく、土から花だけが咲いている。
まるで桜の花が根を持たないまま、地面そのものを花弁で覆い尽くしているような光景。
薄桃色ではなく、ほとんど白。
月光を溶かしたような白い花びらが、一面に広がっていた。
まるで“花の絨毯”というより、“地表そのものが桜でできている”ような錯覚すら覚える。
家の外壁は、和風の見た目を保ちながらも、素材はコンクリート製だった。
金星の環境にも耐える、特殊なアイボリー色の複合素材。
仕上げはわざと荒く、まだ工事の途中のようなざらつきが残されている。
それが逆に、どこか人間的な温もりを与えていた。
屋根には深いバーガンディ色の瓦が丁寧に組まれ、外壁の白と庭の桜の淡色が、絶妙な調和を成している。
古い日本建築の美と、異星の冷たさが混ざり合った――そんな不思議な建築美だった。
私は外観を一通り眺めたあと、庭に足を踏み入れた。
地面に咲いた桜を、踏みしめる。
花びらが機械のように静かに崩れ、足元で淡く光る。
痛みのない悲鳴を上げるように、花は潰れても形を失わなかった。
縁側――居間と庭をつなぐ細い木の通路のような空間――へ向かう。
そこに上がろうとしたとき、家の中から音がした。
私は立ち止まった。
息を呑む。
内部から、金属の関節が軋むような音。
待つこと数秒――
ゆっくりと引き戸が開く。
そこから現れたのは、一体のヒューマノイドだった。
ただし、それは“人間そっくり”というタイプではない。
さっき出会った少女――霖のような、人間と見紛うほどの機体ではなかった。
もっと、古い。
かつて“ロボット”と聞いて人間たちが思い浮かべていた、あの典型的な形。
ぎこちない関節。無機質な視線。
まるで博物館から抜け出してきた遺物のように、それは私の前に立っていた。
あまりにも機械的で、武骨なその外観に、思わず苦笑いが漏れそうになる。
けれど、相手が気を悪くするかもしれないと思い、ぐっとこらえた。
私の前に姿を現したそのロボットは、ゆっくりと顔をこちらに向けた。
顔といっても、そこに人間らしい表情は一切なく、黒いスクリーン状のヘルメットがあるだけだ。まるでバイク乗りのフェイスガードのようなその面が、無言のままこちらを映していた。
そして、人工的に平坦な声が響く。
「よろしくお願いします」
その言葉とともに、私はある異様なものに気づく。
ロボットの胸元にかかったエプロンには、鮮やかな赤がこびりついていた。
それは、乾ききった血だった。
まるで返事を促すように、もう一度同じ声が繰り返す。
「宜しく、お願いします」




