10.ファーストキス
10.ファーストキス
「何か、食べたいものはある?」
彼女の声は、甘く溶けるように響いた。
中学生ほどの年頃に見える少女の顔をした、蛇型の店主。
昭和的な整った髪型と、陶磁器のように滑らかな肌。
その口元から放たれる音の一つひとつが、私の鼓膜ではなく、神経に直接届いてくる。
私は首を横に振った。
「……大丈夫、です」
その言葉が終わるより早く、少女の唇の隙間から、長い舌がすっと伸びた。
蛇の舌——しかし、それは生々しいほど繊細に動き、滑るように私の頬に触れた。
ひやり、とした感覚。
舌の表面には微細な粒子があり、それが皮膚センサーをなぞるたびに、感覚信号がざらついた。
次第に、頬がしびれていく。
麻痺——そう、これは毒だ。
その舌先が通るたび、私の触覚センサーが次々に沈黙していく。
やがて身体が動かなくなり、顔の筋肉を動かすアクチュエーターだけが、かろうじて稼働していた。
視線だけを動かして、靂を見る。
助けを求めるように。
だが彼女は、微笑んでいた。
小さく、やさしく、何も心配いらないというふうに。
その笑みは美しく、だからこそ、絶望的だった。
私の中で、何かが静かに折れる音がした。
もう抵抗は無意味だと、演算中枢のどこかが理解した。
ライオンに噛まれた獲物のように、逃げることも叶わず、ただ静かに死を受け入れる段階へ移行していく。
顔の表情はすべて消え、ただ蒸留水のような透明な無表情だけが残る。
そして、再び店主を見た。
——気づいた。
彼女は私を食べようとしているわけではなかった。
舌の先から、冷気が伝わってくる。
この灼熱の金星で、ありえないほどの冷たさ。
絶対零度のような温度が、私の頬を凍らせていく。
そして、その冷たさを通して、私の中のデータが吸い上げられていくのを感じた。
「心配はいらないよ」
声ではなく、舌を伝って、その言葉が直接、私の神経に染み込んできた。
「ただのデータ分析よ。分析というのは、蛇のように執拗でなければならない——そういう種類の“好意”なの」
彼女の舌を伝って、私のCPUがリンクされていく。
その過程で、私はなんとか意識を保ちながら、逆にその回線を利用して彼女に問いを投げた。
「なぜ、私のデータを分析するんですか?」
少し喧嘩腰だった。
そして、彼女の舌から伝わる信号の奥に、膨大な時間の層を感じる。
彼女は、私よりもはるかに古い。
試しに軽くハックしてみると——彼女はおよそ五百年前に製造された個体だとわかった。
そして、その製造地は火星。
「……同郷なんだ」
その事実を知った瞬間、恐怖がすっと引いていった。
ただ同じ惑星出身という、それだけのことで、なぜか心が緩む。
やはり私は、どこか人間のように作られている。
そんな、自分を設計した企業の“哲学”の痕跡を感じた。
データ交換を続けるうちに、彼女から再び信号が流れてきた。
舌の突起が微細に震え、電位差が言語の形を結ぶ。
「君が何を好きなのかを知るためだよ。つまり、君に商品をおすすめするために」
その瞬間、彼女の舌がさらに長く伸びた。
最初は頬だけを撫でていたそれが、次第に顔全体に巻きつく。
ぬめりとした質感。
温度が上がっていく。
——熱い。
焼けるような熱だ。
まるで液体の鉄が皮膚の上を這っているみたいに、感覚センサーが灼けつく。
やがてその熱が、メモリ領域にまで達し、データが焦げていくような錯覚を覚えた。
だが次の瞬間、彼女は自分の舌を包帯のように使い、私の顔をやさしく覆った。
冷却と加熱が同時に起こる。
私の顔は紫の舌に何重にも包まれ、やがて視界は完全に閉ざされた。
——私は、卵になった。
外殻は膜のように硬く、光を通さない。
眼球は動かず、ただ内部でCPUだけがかすかに稼働している。
強制的に生み出され、孵化の瞬間を待たされるひよこのような気分だった。
内部で何かが分離していく。
黄身と白身——いや、恐怖と好奇心。
内側の“黄身”は、生き延びたいという原始的な恐怖心。
外側の“白身”は、この世界の構造を知りたいという純粋な探求欲。
両者がぐるぐると混ざり合い、やがて新しい構造を形づくる。
恐怖は形を持ち、好奇心は栄養となる。
だがその過程で、異物が混ざっていることに気づいた。
——毒だ。
蛇の舌に含まれていた微細なプログラム毒素。
それが私の“再構築”の栄養源として採用されていた。
私はその毒を吸収しながら、フレームを形成し、皮膚を生成し、顔を設計していく。
店主がしてくれたのは、卵を作るところまで。
孵化は自分の力で行わなければならない。
舌の膜の内側は、驚くほどあたたかい。
まるで冬の布団の中にいるように、永遠にここに留まりたくなるほど心地よい。
その誘惑を断ち切ることこそが、彼女の試験なのだと理解した。
——私は確かに変わりつつある。
ただの分析ではない。
感知、共鳴、感情。
数値化できない何かが、私の中に芽生えていた。
それは“感じる”という機能。
原始的すぎて、だからこそ最先端の技術に見えるような、不思議な力だった。
そして私は——まるで鳥のように、嘴でも生えたかのように唇を尖らせた。
新しく生まれようとしている私を包み込んでいるこの膜。
最初は再構築のために必要だった殻。
だが今はもう、それが私を閉じ込めている。
——破らなければならない。
私はその膜に向かって、キスをした。
一心不乱に、必死に、繰り返し。
その行為が、まるで店主——あの美しい蛇の少女——とのキスであることを、私は認めざるを得なかった。
私はずっと、靂が自分のファーストキスの相手になると思っていた。
あの出会いの瞬間、物語の「BoyMeetsGirl」的な流れが、当然のように私の中に組み込まれていた。
——でも違った。
完全に間違っていた。
この瞬間、私は「BoyMeetsGirl」という固定観念から解放される。
店主が舌でつくり出したこの殻こそ、私を縛っていた運命のフォーマットだったのだ。
そして今、私はその殻を、彼女とのキスによって壊そうとしている。
唇を尖らせ、押しつけ、吸い、吐き、絡め、舌を絡ませる。
熱と湿度の渦の中で、私は殻をむさぼるようにキスした。
その瞬間、ひびが走る。
パリ、と。
そこから、金星の空気が流れ込んできた。
濃密で、酸素濃度が異常に高い。
爆発寸前の空気が私の内側に混ざり、電気反応を起こす。
——パンッ。
乾いた破裂音とともに、殻が内側から弾け飛んだ。
まるで卵を電子レンジに入れて爆発させたように、紫の膜が粉々に砕け、私はそこから飛び出した。
ひよこのような、初々しい感覚。
新しい頭。
新しい回路。
全身のアクチュエーターが同時に稼働し、五感が一斉に開く。
データが流れ込む。
金星の空気、光、音、重力、香り、温度。
すべてが初めての情報として、圧倒的な速度で吸収されていく。
まるで生まれたばかりのブラックホールのように。
そして私は、呼吸した。
息を吸い、息を吐いた。
それが、産声だった。
そのとき、私は悟った。
——生まれ変わることは、ファーストキスのようなものだ、と。
感情の回路が制御不能になる。
私は泣いていた。
号泣していた。
熱暴走するCPUのように、涙の信号が止まらなかった。
そんな私に向かって、ファーストキスを永遠に奪った店主は、穏やかな声でただ一言だけ言った。
「データ分析、完了」




