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四都物語異聞:墨染めの惑い、筆先の情

見えぬ思いはなにかを求め、香る想いは真実(まこと)を映すか

 『四都物語異聞:墨染めの惑い、筆先の情』


 見えぬ思いはなにかを求め、香る想いは真実(まこと)を映すか。


     1 


 学問の都である西都白虎京は、常に知の探求と(みやび)やかな風情に満ちていた。

 庭の木々が錦を織りなし、虫の声がもの悲しく響く秋の宵。月の光が仄かに差し込む一室に、右京(うきょう)大夫(だいぶ)の姫、紫月(しづき)はいた。

 齢二十を少し過ぎたばかりの紫月は、その聡明さと類い稀なる書の才で知られ、特に和歌を書き写す筆跡は、西都の識者たちから高く評価されていた。

 四都すべてに共通することだが、右京は左京に比べて地代が低い。よって、低所得者が自然と集まっていた。だからと言って、右京を統括する右京大夫の家柄が低いわけではない。むしろ西都の中でも相応の地位を占める。ゆえに紫月は、その出自に偏見を持たれることもなく、その才のみで、貴賤を問わず広く尊敬を集めていた。そして、彼女の書く文字はただ美しいだけでなく、歌に込められた感情を、墨の濃淡や筆の運びで鮮やかに描き出すという、不思議な力を持っていたのである。

 その紫月の心には、誰にも知り得ぬ秘めたる想いが深く根を下ろしていた。その想い人は、彼女の父の友にして、既に妻帯している陰陽寮(おんみょうりょう)の若き陰陽師、千早(ちはや)だった。千早は、優れた才覚を持ち、数々の妖異を鎮めてきた都の誉れ。その冷静沈着な佇まいと、時折見せる、物事の深奥を見通すような眼差しは、紫月の心を強く捉えて離さなかった。

 二人の出会いは、ある書物の写本を巡るものだった。

 千早は、古き陰陽道の秘術が記された書を求めており、その解読を紫月に依頼したのだ。

 深まる秋の夜長、二人は時に夜を徹して写本に向かい、墨の香りが満ちる中で、言葉を交わした。千早の言葉は理知的で、紫月の才を深く理解し、尊重した。その度に、紫月は、彼の知的な香りに、知らぬ間に心を奪われていったのである。

 ある夜、千早が解読し終えた写本を紫月に返そうとした時、彼の指先が、ほんのわずかに紫月の指に触れた。その瞬間、二人の間に、目には見えぬ火花が散った。空気がぴんと張り詰める。秋の夜風が、そっと御簾を揺らし、その熱を運び去るかのように思われた。

 千早は、すぐに手を引き、何事もなかったように視線を外した。けれども、その指先から伝わった微かな熱が紫月の肌に残った。禁じられた想いと知りながらも、その熱は、紫月の心に甘い蜜、いや毒のように広がったのである。

 その夜、紫月は、密かに和歌を()んだ。それは、叶わぬ恋の切なさを(つづ)った歌だった。


 墨の色 深まるほどに 惑うかな  筆先になお 君が残り香

(墨の色が濃くなるほどに、私の心は惑い、乱れていく。筆の先には、まだあなたの残り香が感じられる。あなたへの想いが、私を迷わせる切ない恋よ。)


 この歌は、誰にも見せることなく、彼女の文箱(ふばこ)の奥深くに仕舞い込まれた。しかし、彼女の恋心は、この夜から、さらに深く、禁忌の想いに囚われていくのだった。


     2 


 秋はさらに深まった。

 千早はその後もたびたび紫月の屋敷を訪れていた。新たな写本の解読、あるいは(あやかし)の異変にまつわる古文書の調査と称して。

 庭の木々が色を深め、葉擦れの音がもの悲しく響く季節は、人の心をより深く、内へ内へと誘うかのようであった。その度に紫月は、彼が好むと伝え聞く香を焚きしめ、普段よりも一層、身なりを整えた。同時に彼の妻の顔を思い浮かべながらも、彼を(した)う心が止めどなく溢れ出す。彼の心をわずかでも自分に引き留めたい。叶わぬ恋と知りながらも、禁断の果実を食する原初の人のように、彼女はその想いを募らせていった。

 一方、千早もまた、紫月の変化に、何かを感じ取っていた。

 彼の屋敷から運ばれる文には、以前にも増して雅やかな香が焚き込められていた。それは、都で流行している香とは異なる、どこか知的な、深い森の奥を思わせるような、独特の香りだった。それは、紫月の心をさらに深く探ろうとしているかのようであった。

 彼が選ぶ香は、いつも理知的で、時に冷徹な陰陽師としての顔を持つ彼の、奥底に秘められた感情を仄めかすかのようだった。

 ある秋の夕暮れ、千早は、書物の解読を終えた後、帰り際に紫月に声をかけた。

「紫月殿。あなたが最近、部屋に焚きしめている香は、心を落ち着かせる力があるようだ。そして、先日お送りいただいた写本の返書に添えられていた香も……。もしやこれは、玄武京の周辺にのみ自生するという、『森の囁き』の香木では?」

 千早の声は、穏やかでありながらも、どこか探るような響きがあった。

 紫月の胸は高鳴った。彼は、気づいていたのだ。彼女が、自分のために香を選び、焚きしめていることに。そして、彼女が送った返書に、特別な意図が込められていることに。

「……さようでございます、千早様。北の大地にはこちらにはないものが手に入ると、ある商人が、玄武京との交易路を行き来する際に、献上してくれたものでございます。その香が、私にはどこか心惹かれるものに思えまして……」

 紫月は、動揺を悟られぬよう、努めて平静を保った。その言葉には嘘も混じっていたが、彼女の心は、香に気づいてもらえたことの喜びと、その意図が彼に伝わったことへの期待で、複雑に揺れ動いた。

 千早はじっと紫月の瞳を見つめた。その視線の奥には、彼女の心を揺さぶるような、深い感情が宿っていた。

「そうですか。……その香は、確かに人を惑わす力があるようだ。私も近頃は、夜な夜なその香が夢にまで現れます。あなたの文……その筆跡には、単なる歌の意味を超えた、何か深いものが込められているように思えるのです」

 千早の言葉に紫月の全身が粟立った。

 夢にまで現れる。それは彼が彼女の香に、心を奪われている証ではないか。そして、「筆跡には単なる歌の意味を超えた、何か深いものが込められている」という言葉は、彼女が歌に込めた秘めたる想いを、彼が読み取った証ではないか。

 その刹那、千早の脳裏に彼の妻の顔が(よぎ)った。しかし、その面影は「森の囁き」の香によって、すぐに霞んでしまった。それと同時に、彼が「惑わす力」と表現したことに、かすかな背徳感も覚えた。既婚の身である彼と、未婚の貴族の姫という禁忌。秋の深まりが二人の関係をさらに密やかなものへと誘うかのようであった。そして、千早の言葉は、彼女の心をさらに深く引き寄せていったのである。

 その夜、千早が屋敷を後にした後に紫月は再び筆を執った。

 今度はあの「墨染めの惑い」の歌とは異なる、より直接的な、彼の心を誘うような歌を(したた)めた。そして、それを記した紙には北京玄武府の商人から得た、さらに強く「森の囁き」の香が漂う、特別な香墨(こうぼく)を用いた。その香墨は夜になると微かに光を放つという言い伝えがあった。


 夢にまで 通いし香の 誘いかな  筆の跡なほ 君が心ぞ

(夢にまで、あなたの香りが私を誘い、私の心へと通い詰める。筆の跡に、あなたの心が宿っていると、私は信じたい。)


 この歌を彼女は敢えて文箱に仕舞わなかった。更に、この香墨で書かれた歌を、千早の次の来訪時にさりげなく机の上に置いたのである。その光は深まる秋の闇の中で、二人の秘められた想いを映し出すかのようだった。


     3


 数日後。肌寒いほどの秋の朝。千早が再び紫月の屋敷を訪れた。

 千早は机の上に置かれた、微かに光を放つ香墨で書かれた歌を見つけると、その筆跡と、そこから漂う「森の囁き」の香に目を細めた。彼は文を手に取り、その文字を指でなぞる。彼の指先が墨の跡を辿るたびに、紫月の胸は締め付けられるような想いだった。

「この香墨は……。夜に光を放つという、(まれ)なるもの。そして、この歌は……」

 千早はそう言うと、静かに紫月の瞳を見つめた。彼の視線は、もはや単なる書物の解読者としてのものではない。そこに宿るのは、彼の内面を揺るがすような、熱い感情の輝きであった。

「紫月殿。あなたの書には確かに魂が宿っている。そして、この歌は……あなたの心そのものです。私には全てが伝わってくる」

 千早の言葉に紫月は息を呑んだ。彼は紫月の秘めたる想いを、全て見通しているのだ

「私は……私は、千早様に……」

 紫月は震える声で言葉を(つむ)ごうとした。しかし、千早はその言葉を遮るように、静かに、そしてゆっくりと口を開いた。

「紫月殿。私もまた、あなたの才に、あなたの心に強く惹かれている。都の陰陽師として、妖と対峙(たいじ)する日々の中で、あなたの書と、あなたの香が、私の心の安寧(あんねい)となっている。しかし……」

 千早は一度言葉を切り、苦しげに瞳を閉じた。

「私は妻を持つ身。夜ごとに妻の隣で目覚めるたびに、その現実が私を縛りつける。あなたへの情が深まるほど、その罪の意識が私の心を(さいな)むのです。そして、あなたは西都の右京大夫の姫。我らには越えられぬ壁がある。」

 千早の言葉は、彼の理性と抑えきれぬ感情の間で揺れ動いているかのようだった。彼の声には、深い苦悩と紫月への痛ましいほどの情が込められていた。

「ですが、千早様……!」

 紫月は一歩前に踏み出した。しかし、千早はその手を軽く制した。

「どうかこれ以上は……。この想いは表に出してはならぬもの。世に知られれば、あなたも私も、そして私の妻も、深く傷つくことでありましょう。あなたがその才を世に知らしめる道を、私が閉ざすわけにはいきませぬ。しかし、私があなたの書に、あなたの香に心惹かれているのは隠しようもない真実です」

 千早はそう言うと、あの光る香墨で書かれた歌をそっと懐に仕舞い込んだ。彼の眼差しは哀しみに満ちていたが、そこには確かに紫月への深い情が宿っていた。

 千早は立ち上がり、静かに部屋を後にしようとした。 その時、紫月は衝動的に彼の背に呼びかけた。

「千早様! この想いは決して消えることはございません! たとえ、この身が滅びようとも。私の書と文字と共に、この想いは生き続けるでしょう」

 千早は振り返らなかった。だが、彼の背中はわずかに震えているように見えた。

 秋の冷たい空気が、二人の間に溢れていた熱を冷ますかのようであった。

 彼はそのまま静かに部屋を出て行った。

 残された紫月の手元には、千早が置いていった普段彼が使う墨の匂いが、かすかに漂っていた。それは、彼の理性と感情の狭間で揺れる心の香りであった。


     4


 千早が去った後、紫月の部屋には再び静寂が戻った。しかし、その静寂は、以前のような平穏なものではなかった。彼女の心には千早の言葉と、彼の纏っていた香りが深く刻み込まれていた。

 千早の言葉は、彼が同じように自分に惹かれていることを示していた。叶わぬ恋と知りながらも、紫月の心を深く満たした。彼女の心は二度と以前の無垢な輝きを取り戻すことはないだろう。代わりにその情はより深く、淑やかなものへと昇華されていった。

 その後も千早は時折、書物の写本や古文書の調査と称して、紫月の屋敷を訪れた。

 秋が深まり、冬が訪れ、そしてまた春が巡る。季節が移ろえど、二人の間にあの夜のような直接的な言葉が交わされることはなかった。

 彼らは書を通して、あるいは香を通して、互いの秘めたる想いを伝え合ったのである。

 紫月は彼の返書に、より一層感情を込めて書をしたためた。

 千早はその書に彼自身の深い感情を込めた香を焚きしめて返した。

 その文のやり取りは、まるで秘めたる文通のようであり、筆の運びや香の選び方ひとつにも、互いへの繊細な「艶」が宿っていた。文箱の奥には、彼らの間にしか通じぬ、仄かな熱を帯びた詩歌(しいか)が幾枚も重ねられていった。彼らは互いの心に宿る禁忌の情を、その才覚によって昇華させていったのだ。

 二人の間には都の誰も知らない、秘められた「艶」があった。それは、決して公になることのない、禁じられた情の交わり。その「艶」は、彼らの才覚を磨き、書や陰陽道の探求を、より一層深める原動力となったのである。

 紫月はやがて、西都の貴公子と婚儀を挙げ、子をもうけた。彼女は穏やかな日々を送ったが、その心の奥底には、常にあの光る香墨で書かれた歌と、千早の(まと)っていた香が、深く残っていた。そして、彼女の書は以前にも増して見る者の心を惹きつけるような、深い情感を帯びるようになったという。それは彼女の秘めたる情が、筆先に宿る魂となった証でもあった。

 千早もまた、陰陽師としての才覚をさらに磨き、西都の重鎮となっていった。彼は変わらず冷静沈着で、誰にもその内面を悟らせることはなかった。彼の書斎には、常に北都玄武京の「森の囁き」の香が焚かれた。そして、その机の奥には光る香墨で書かれた一枚の歌が、大切に仕舞われていたという。その光は夜ごと彼の胸を締め付けながらも、その秘めたる情の証として輝き続けた。彼が妻の隣で眠る夜も、妖異と対峙する緊迫の時も、その歌と香は、千早の心の奥深くに根差し、揺るぎない安らぎとなっていた。

 二人の「禁じられた才と想い」は、都の闇に秘められ、誰にも知られることなく、互いの心の中で、永久(とわ)(ざん)(こう)となったのである。

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このお話、なんだかすごく引き込まれちゃいました! なんていうか、言葉遣いがすごく丁寧で上品なのに、描かれてる気持ちはすっごくリアルで。現代じゃありえない「香」とか「書」でのやり取りが、逆にすごくロマ…
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