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(神様、おねがい…、彼を助けて)
リーザは今日も祈る。だか、その効果はないも同然だった。彼女は毎日古びたスミイレの教会に来ているが、願いを叶えるために祈りに来ているのだった。彼女には刻一刻と流れる時間の流れがチクチクと自分を苦しめる刃に思えた。
彼女のできることは、意識のない婚約者の延命治療代と彼が生前にした借金を払うことしかなかった。意識を失った婚約者のシュルコフは、多額の借金を作って自殺をはかった。彼女は彼を愛していた。自分の体を売ることで彼が自分と一緒にいてくれるならそれだけでいいと思えた。
彼を見捨てることは簡単だった。しかし、彼女にはそれができなかった。
毎日毎日、目の覚めないシュルコフをみて彼女はこの先何を頼りに生きていけばいいのかわからない。借金地獄の彼を助けられるのは自分しかいないが、そんな事をしたところで身を滅ぼすだけなのではないかとも思う。それはただの自己満足だと分かるが、彼と過ごした日々を捨てたくないと思ったのだ。
重い足どりで、教会の入り口から出ると、一人の男性とすれ違った。その男性がすれ違いざまに止まって言った。
「彼を助けたいのですね。
私には伝わりましたよ、あなたの願い。」
はっきりとした明瞭な声だった。軽やかな爽やかさを含んだ男の声にリーザは教会の入り口に向かって振り返った。そこには漆黒の紫の光沢の入った上着を着た中背より少し高い若い男が立っていた。
茶髪だが白っぽい髪色に、肩にかかる程の長い髪をしていて、顔が尖っている特徴的な男だった。その眼は羊のように温和なものにその時は見えた。
「神様はあなたの願いを聞き入れない。
でも僕ならば、あなたの願いを聞き入れます。
あなたを救えるのはきっと私しかいないでしょう」
リーザの瞳から大粒の涙が流れ出した。
「たすけて」
リーザの口から崩れるように言葉が溢れ、男に駆け寄って足元にすがっていた。
「私ならあなたの望みをかなえれますよ。
あなたの望みを叶えて、その顔から涙をぬぐって差し上げましょう。安心してください。あなたの血を一滴もらうだけでいいんです」
「血を?」
男は、折りたたみナイフをポケットから出すとその刃を組み立て、足元にいるリーザにかざした。その手から血を貰うだけでいい。契約完了だ。
「その手から血を一滴貰います。
それが血の契り、私とあなたの契約になる。
僕はあなたの今の状況を知っています。
婚約者に自殺未遂をされ、多額の借金を背負う彼の代わりに昼は花屋の店員として働き、夜は娼婦として働いて返している。
何とも涙ぐましい努力ですよ。あなたのような善人は稀ですね。僕だったらとっととその婚約者から離れるのに。」
「どうして知っているの?」
シュルコフが自殺未遂をして、リーザが変わったことを知っている人間はリーザ本人しかいなかった。客にも個人的なことは話していないのに、どうして目の前の男は知っているのかが分からない。
「風の噂で聞いたのではありません。
ご安心くださいな。私は人間ではないものなのです。狭間と狭間のものというか、この世のものではないもの、地獄からやってきました」
男はひょうひょうと大胆不敵にそう言うと、にこりと笑ってリーザを安心させようとした。
「地獄からやってきたの?」
これは幻なのか?リーザ自身の精神状態が悪いせいで見える現象なのか分からなかった。そんなにも傷ついていたのか。
「あなたの恋人を目覚めさせる代わりに、今日から1年後の先の未来すべて、私が頂く。それが契約です。どうです?やりますか、やりませんか?」
「ほんとうなの?それは。
嘘ではないのね」
「嘘ではありませんよ。その証拠に私の本当の姿を見せましょう」
男性はそう言うと、右手の中指をくいっと動かした。その瞬間、教会の入り口にある木製のドアがぎぃと重い音を出しながら開き、するすると1人の老人が何かに引っ張られるように足を滑らせながらやってきた。
「なんなんじゃ、これは?わしは止まりたいのに、滑るように動かされておるわ」
老人はそう言うと、男の隣で止まった。男性は老人と目を合わせた瞬間、恐ろしいほどのギラギラとした獰猛な目つきになり、腕を勢いよく自分の体に引き込むと老人の体がみるみるうちに輪切り状になり、大きな肉のスライサーで20センチごとに裁断したかのような異様な姿のまま浮かび上がった。
「どどどいううこどじゃああ!」
体中、老人は輪切り状態にもかかわらず、口から声を出していた。切った肉体の端からあふれ出るぷっくりとした深紅色の血液の塊が宙に浮く。この世のものではない異世界をみた気分になったリーザは、目の前の惨状を見て、気を失いかけた。
「寝るのはあとにしてくださいな。
これで証明しましたよ。私が地獄の使いだということをね」
〜
リーザは花屋である『スカーレット』で昼は働いていた。夜は娼婦として身売りをしてシュルコフの借金を返すために1日中働いていた。
彼女は働いていないと、焦りを感じる一方だった。ぼーっと部屋の中にいるたびに、婚約者のシュルコフがなぜ自殺をしたのか、自分は彼に対してなにかしてやることができたのではないかと罪悪感を感じてしまう。そのことを紛らわすために、罪滅ぼしのために身売りを始めた。彼女はそうすることによって、気づかなかった自分を罰しているようにも見えた。
『スカーレット』はスミイレ地区の中央街のはずれにある色とりどりの花を取り扱う店だ。リーザはそこで店長であるアリサと一緒に働いていた。
「さっきね、お客さんにこれを買ってもらったの」
アリサは出勤したてのリーザに1輪のオレンジ色のマリーゴールドを見せてきた。
「マリーゴールド…」
「そうそう!面白い人でね、想い人がいたらしいんだけど、失恋したみたいなの。私がいい人見つかりますよって励ましたら、この花を買ってくれてね」
その時だった。その花を見たときに吸い込まれるような七色の光が一瞬だけ発光した気がした。その時の天気の具合なのか、光の反射のせいなのかはわからないが、キラキラとそのマリーゴールドは輝いて見えた。
「これリーザにあげるわ。その人いわく、お守りになるそうよ!よくわからないけど」
「ありがとうございます」
リーザはアリサから輝くマリーゴールドを貰うと、胸のポケットにしまった。
地獄のものと契約をしたといい、今日は特別色々なことが起きるなとリーザは思った。
あの後、リーザは男に一滴の血を契約書と言われた紙にたらすと、魔法陣が地面から浮かび上がると同時に黒い光が二人を包んだかと思うと、一気に解放されるように途切れた。
(契約は完了したと言われたけど、彼が目を覚ましたという連絡は来ないわ)
つまり、あの男の言ったことは嘘だったということになる。あの大がかりな演出もまやかしだったということになるだろう。リーザは拳を強く握った。
(馬鹿にされたのよ。神にも見放されて、あげくの果てに幻まで見るなんて)
リーザは自分を情けなく感じた。現実は残酷だ。どう縋っても、どんなに抵抗しても何の反応も見せないどころか、どんどん悪くなるばかりだ。
と、その時だった。ジーンズに入った携帯電話が小刻みに震えた。ディスプレイを見ると、それは病院からだった。
「もしもし」
「もしもし、〇〇病院ですがさっきシュルコフさんの意識が回復しました!」
「え?」
〜
(さぁて、今度の契約者との契約破棄は完了するかな?)
龍顔の男であり、羊のような従順な目をした地獄の悪魔であるヴェルホーヴェンスキーは、昼の契約者の女性を思い出した。
「最高の瞬間は、蜘蛛糸のような細く頼りない命綱をたどる人間があと一歩で助かるところを蹴飛ばす瞬間だ、あれが極上なんだよなあ」
そう。助かりそうなところを潰す。
契約上は1年後まで生き続けることになるが、契約しても願いがかなわない、その上自分の未来がつぶされていくのを感じるのは恐ろしいものだろう。
「それが僕にとっての至極の快感だ…。
たまらないねぇ、僕はこのためだけに悪魔をしてるようなもんだ」
自分の貞操を失ってまで守ろうとするものなど、殺したほうが楽しいだろう。あの女の心をズタズタに引き裂き、毎晩のように生きた心地もさせない心境にさせるのを見てるのが楽しいのだ。
そろそろだな。
その時が近づく。ヴェルホーヴェンスキーが女と契約した紙に魔術で細工するだけで、契約は破棄され、彼女の寿命と彼女の希望が潰え、絶望が彼女にのしかかる。ヴェルホーヴェンスキーは、右手に先ほどリーザとの間に出来上がった血の契約書を持ち、左手の人差し指を伸ばしてその指先に術を仕込んだ。黒色の禍々しい色をした光が指先に広がる。
今だ!
一点に力を凝縮し、術を放つと紙に一撃が加わった。
〜
「よかった…」
リーザは、ハラハラと涙をながしていた。その姿を見たアリサが驚いて話しかけた。
「なにしたの?そんなに泣いて」
「彼の意識が戻ったらしいんです」
その時、ビリリとリーザの胸を電撃のようなものが走った。胸ポケットに入っていたマリーゴールドの花だけがちぎれ落ちる。
地面に落ちた瞬間、マリーゴールドに纏った輝きがなくなっていった。
〜
「なぜだ?
なぜ、死んでない?」
異常事態発生だ。あの女の許嫁が死んでないだと。
そんなわけない。契約書はただの紙切れになるはずだったのに。
ヴェルホーヴェンスキーは、思いもよらないことが起こり珍しく動転していた。
彼が力を凝縮して作り上げた、契約をなかったことにする効果の術がかからなかったということではないはずだ。たしかに術がかかる感触はあった。何が起きたのだ。
彼は、息を前方に吹きかけるとおぼろげにリーザの姿が見えてきた。リーザは現在、花屋でアリサと話をしていた。
「どういうことだ」
契約破棄の瞬間、契約者は術の衝撃を受け、体が一時気絶状態になるのが常だった。だが、今彼女はニコニコと笑顔で話しているではないか。
(契約破棄ができなかったということか…)
様々な可能性が浮かぶ。彼女自身が何らかの加護を受けていたということか。それともヴェルホーヴェンスキー自身の力不足か?そんなはずはない。
と、その時、地面に落ちていたものを発見した。
(花?)
オレンジ色のマリーゴールドだった。その花が不自然にも花びらだけ真っ二つにちぎれて落ちている。
可能な限りの予想立てをして一つの仮説が生まれた。
(お人好しがいたみたいだな)
考えたくないが、同族があの女に特殊な加護をあの花に仕組んでいたみたいだ。まるで、こうなることを予想していたようではあるが、あまりにもタイミングが合いすぎやしないか。
(自分の存在を知っているやつがいるということか?しかし、知っていたからといって、自分の邪魔をすることでなんのメリットがある?契約を破綻させて、永遠の命だけ奪う僕のやり方を危険視した同族がいるということか?)
「むしゃくしゃするな」
ヴェルホーヴェンスキーは、スミイレの街から外れにある古びた教会の前方部にある堀の近くにあるベンチに座っていた。彼は近くを通った若い女を見かけると、薄い笑みを浮かべてその女に標的を定めた。
「これ落としましたよ」
落としてもいないコインをわざと落としたことにして、その女に声をかける。
振り返って反応した女と目を合わせた瞬間に、術を発動させた。
くわっと眼が吊り上がり、ジリジリと体が切断され引き剥がされる感覚が起きる。体にぎっちりと力が入り、少しでも痛みを抑えようとするが、全く効果がなかった。等価交換の法則によって自分にもダメージが入ることは承知だった。目の前の女が突然真っ二つに切断され、バキバキと中央から臓物を剥き出すように後ろに折られた。
女は目を見開いたまま、突然のことに何が起きているのか分からない顔をしながら、絶叫している。
「ぎゃあぁぁあぁあああ」
(たまらないなぁ、この痛みといい、人間をところかまらずやれるなんて)
めきめきと自身の体にも臓物が盛り上がった感覚とぶちぶちと管から無理やり引き剥がされる感覚がヴェルホーヴェンスキーにも感じられた。耐えられない痛みに思わずうめき声が出るが、自身の持ち前の特殊体質の高速回復によりみるみる縫い目が繋がるように切断された断面と折れ曲がっていた肉片とせり出した臓物がもとに戻った。
目の前には先ほど目の前を歩いていた女の血まみれの死体が出来上がっていた。地面に飛び散った血液の滴りに満足したヴェルホーヴェンスキーは、決意した。
「探すしかないな、あの花に仕掛けをした張本人を」