訣別
狭い部屋、カーテンの隙間から一条の朝日が差し込む。
蝉の鳴き声、パソコンのファンが回る音。
28インチの4kモニターに、株価の動きを表すロウソク足が並んでいる。
自身の定めたルールに従い、買って、利食いし、損切りする。
損切り、損切り、損切り、利食い、損切り……。
ほとんどが損切り。上昇するのは二、三割といったところ。
その二、三割の銘柄さえ大事に保持し、適切なタイミングで売れば、ほら、生活費ができた。
伸びをした。今日の売買は終了。
さて、ここからが大事だ。
ノートを開き、売買を記録。
まちがった取引を分析し、反省し、売買基準に反映する。
売買基準に最適解はない。近似値ならば出せるが、市場をとりまく環境は時々刻々と移り変わる。
一度導き出した近似値も、時間が立てば錆びついて、機能不全に陥り、損失が膨らむ。
だから、日々のメンテナンスが必要だ。
メンテを済ますと新聞を読む。一面と、気になる記事を読めばお仕事は終わり。
時刻は十一時前。平日、四時間足らず働くだけで生きていける。しかも家から一歩も出ずに。
せっせと労働していた日々が馬鹿みたいだ。まあ、その時に貯めた元手があればこそ運用もできるのだが。
労働に割くリソースは最小化できた。あまった時間で何をするのか。
小説だ。
小説を書く。書いて、読んで、学んで、また書く。
小説家になる。それが俺の、沙汰一の夢。
すべてのブラウザを閉じ、Wordを立ち上げた。出てきたのは書きかけの原稿。
ありきたりな物語に、拙い文章。
ネットにも投稿しているが、反応はない。
それでもキーを叩く。頭の中にある風景を写し取っていく。
作家になりたいと思い立って十年。二十の後半になっても未だに夢を追い続けている。
才能がないのだろう。
わかっていても、諦めきれない。
何度もやめようと決意した。それでも次の日には書きたいものでいっぱいになって、抑えられなくなる。書いてしまう。
だれに届くこともない、独りよがりな文章を。
たったひとり、吐き出し続ける。
玄関の開く音で我に返った。
「んがー、眠いぞー!」
「おかえり、ゴリラ」
雄叫びと共に現れたのは同居人の波野。あだ名はゴリラ。
筋骨隆々。眉毛が濃く、掘りの深い顔立ち。
出所したての犯罪者みたいな容貌だが、よく見ると目はくりっとしていて可愛らしい。まつ毛も長い。
かつてともに地獄を生き抜いた戦友であり、「退職するときは一緒だよ。ズッ友だよ。家賃割り勘しようね」と誓いあった仲。
約束通り、退職してからは同居。俺は作家志望トレーダーとなり、羽野はトラックの運転手になった。
執筆を中断し、夕食の準備にかかる。
昼作ったチャーハンと、作り置きしていた鶏の煮物をレンジにぶち込んだ。
適当に盛り付けてテーブルに乗せると、行儀良く座ったゴリラがパンと手を合わせた。
「いただきます」
波野は体重80キロ。ベンチは百キロ超え。よく食べる。
俺も箸をとったとき、羽野がゲジゲジ眉毛の下からつぶらな瞳を向けてきた。
「なんか動画見よ」
「いいけど」
立ち上がってパソコンのもとへ。モニターの位置を調整し、ワイヤレスマウスと超ミニのキーボードを持って食卓に戻る。
「怪談でも見るか」
「怖いの無理、夜れんくなるやん」
「お前3歩歩いたら忘れるから大丈夫。布団まで5歩以上ある」
言うと、波野は顎に手をやり首を捻った。
「その通りである」
「じゃ、お化けの話で」
適当にサムネを選んで再生。
怪談は好きだ。面白いし、参考になる。
原始的な感情に訴えろ、脚本術の本で見た言葉。恐怖ほど原始的な感情もない。
偉大なるストーリーテラー、スティーブン・キングもホラー作家だ。あれくらいの文章が書ければデビューできるんだろうな。
お化けという題材が活きるのはホラーに限らない。シェイクスピアや太宰治は、お化けを使って主人公の心理を鮮やかに描いた。
マクベスを狂気へと導く、殺された王の幽霊。
人間失格で描かれた”お化けの絵”。
“お化けの絵”。人に心を閉ざした主人公が、胸の奥に秘めた懊悩を、ありのままに描いた自画像。画家を目指した男の、生涯における傑作。
俺も、自分自身の醜さをありのままに描けば、なにか掴めるだろうか。
そう思って自画像的な作品を書いたこともある。そのすべてが失敗した。新人賞に送ったものは1次落ち。ネットにあげてもなしの礫。
スティーブン・キングは言った。「たくさん読み、たくさん書け」と。
その言葉に従って、書けば書くほど才能のなさを突きつけられる。
作家になりたいなんて思わなければ悩むこともないのだろう。書くことが目的なら、それはもう叶っている。
毎日毎日、書くことだけに専念できる。
なりたいとさえ思わなければ、書きたいとだけ思っていれば、苦悩は晴れるのに。
なりたいを捨てきれないのだ、俺は。
ワナビの朝は早い。
5時のアラームで起き、台所へ。炊飯器の早炊きボタンを押す。
冷蔵庫を開け、メニューを考える。ベーコンに卵、積み上がった作り置きのタッパー。
野菜室にはにんじんの残骸としいたけ。
整った。
野菜を切って鍋に入れ、出汁の素を投入。
沸騰するまでの間に他のおかずを準備する。タッパーに入れていたきんぴらを盛りつけた。
メインはベーコンエッグ。
熱々に熱したフライパンに刻んだベーコンをのせると、燻製の香りが部屋に満ちる。
カリカリになったベーコンの上に、卵をそっとのせた。
蓋をしてとろ火で5分。出来上がった目玉焼きを皿に移すと、半熟の卵黄が揺れる。
沸騰していた鍋に味噌をとき入れ、最後の一品が完成。
テーブルに盛りつけ、ひとり手を合わせた。
「いただきます」
食後はお茶をいっぷく。
至福。
ちなみに波野は寝ている。仕事のない日はだいたい昼前まで寝ている。ニートの俺のほうがよほど健康的だ。
今日は土曜日。市場は空いてないのでトレードもお休み。完全にニート。
というわけで、執筆だ。
パソコンを立ち上げ、キーボードに指を置く。
小説を書いている間は楽しい。現実を忘れ、原稿の中にある世界に没頭できる。
違う人生を生き、そこに住む人々と関わり、友好を結び、敵対し、死んでいく。
創作は薬だ。胸に巣食う病巣を、いっとき癒してくれる薬。
他のすべてを投げ売ってでも手に入れたい、甘美な薬。
麻薬。
ふと生じた不安は、物語を生み出す熱にかき消される。
不安も雑念も、創作欲の前には無力だ。
空腹で筆を置いた。
十二時前。5時間もぶっ続けで書いていたわけだ。
5時間も夢中になれることがある、それだけで幸せなのかもしれない。
テキストを保存し、昼食。
食べていると羽野が起きてきた。のっそのっそ動き、テーブルにつくと緩慢な動作で食べ始める。
俺は腹ペコだったので米を口いっぱいにかき込み、味噌汁で流し込む。唐揚げとサラダも口に詰め、お茶を飲んだ。
創作はエネルギーの消費が激しい。頭を使うからだろう。
ご飯を二杯食い、チョコレートと菓子パンも食べてようやく人心地ついた。
向かいでは波野がソシャゲをしている。
俺が食べ終わるのを見計らい、羽野が顔をあげた。
「なんかおかしい」
「頭が? いつもだろ」
「人生しんどい」
そう言う波野は本当にしんどそう。
波野は目をつぶり、しばし考える。
そして突如、「うがー!」と雄叫びをあげて飛びかかってきた。
押し倒される寸前、相手との間に膝を入れ込む。波野の頭を押し下げながら地面を蹴って体を上げ、左腕を波野の首の後ろに回した。
左手で自身の右腕をつかみ、両腕で波野の首を挟み込む。一瞬で入り、タップしてきた。
体重差は20キロ。本来なら勝ち目のない相手。
「……もしかして弱体化してる?」
熱だった。38.9度。
布団をしくと波野が倒れ込んだ。
「なんで風邪ひいたん? バカやのに」
「風邪じゃない」
「じゃあなに?」
「変身しそう」
「魔人ブウかお前」
やっぱりバカだったが、ひいてしまったものは仕方ない。
風邪薬と水とスポドリを枕元に置いてやる。
波野は野太い首に汗を浮かべ、布団の上でうんうん唸っている。
「死ぬまで筋トレしたあと寝たら治るぞ」
「やったことある。治らんかった」
「試す時点でバカ確定」
なんで体育会系ってみんな同じことやるんだろうか。バカなのかな。
フィジギフゴリラが弱っているさまを見るのは面白いのだが、晩飯の用意がある。
ていうかこいつに何食わせよう。バナナ?
「食欲あるか?」
「うーん……かわいいロリっ子なら」
「さっさと収監されろロリコン」
粛清されちまえ。
ロリコンはスマホを持って漫画を読もうとするも、ピンとこなかったのか放りだした。画面割れるぞ。
「お前が作ればいいやん」
名案とばかりにこっちを向く。
「別に俺、ロリ好きじゃないし」
「無理なん? だからデビューできんねんぞ?」
「あ?」
マジでブチ切れ5秒前。
波野はニヤニヤと笑っている。
無駄に長いまつ毛を一本一本抜いて泣かせてやりたいが、俺にもプライドがある。
十年以上書き続けて未だに二次選考までしか通ったことのないゴミカスクソワナビとしてのプライドが。
「むかーしむかしあるところに、女子小学生と女子中学生の姉妹がいました」
「ウホ。興奮する」
「キモ……。姉妹は土御門家という名門家系。姉は瑠流、妹は奈々といいました。2人は大層仲がよく、毎日毎日イチャイチャラブラブちゅちゅして幸せに暮らしていました。奈々の口癖は「将来はお姉ちゃんと結婚する!」です。
ところが2人の両親は水星人ばりに遅れた思想の持ち主。姉妹百合許すまじと、2人に対してブチギレ。
ブチキレられたところで2人の愛はとまりません。親に隠れてはチュッチュしておりましたところ、とうとう親は瑠流を追い出すことに決めました。
本人に知らせず海外留学の手続き済ませ、強制的にゴートゥーイギリス。瑠流は飛行機の中で涙します。
家に残された奈々もまた、悲しみに暮れました」
「おい、妹ちゃんかわいそうやぞ!」
「ロリには優しいな、お前」
「当たり前やん」
それもそうか。
「一方、イギリスに飛ばされた姉は決意します。妹との愛を阻む両親は敵、妹との結婚を認めない世界など私が認めない。
私は世界を壊し、世界を創る!」
「お姉ちゃん心臓刺されて死ぬん?」
「この物語はフィクションであり実在のコードギアスとはなんの関係もない。
姉が飛ばされたのは名門イートン寄宿校。姉はなんだかんだ優秀だったのでトップクラスの成績を収め、見事ケンブリッジ大学にエスカレーターします。
……バトル要素いる?」
「いる」
「えーっと、じゃあ……姉の目標は日本に帰り、政界を牛耳る土御門家を鏖殺し、法改正を行って姉妹間の結婚を合法化することです。そのためにイギリスで文武両道の最強フィクサーになることに決めました。
そのために、地元で最強と名高いシャーロック・ホームズさんに弟子入り。
こうして、大学で人脈を築きながらの武者修行がはじまりました」
「僕難しい話無理やで? 鶏よりアホやもん」
「はいはい。えーっと、土御門家は独自の情報網により、瑠流の陰謀を察知します。父は激怒。『あの妹キチガイ、反省せんばかりか土御門家に弓引くとは! もはや娘とは思わん。やられる前にやってくれるわ!』
パパ御門は刺客を雇い、瑠流の暗殺に向かわせます。
暗殺者四人はイギリスに現着。「小娘ひとり殺すなど造作もない」拳銃を隠し持ち、瑠流がひとりで出歩いているところを襲撃。
瑠流もまた、本家の動きは勘づいていました。師匠であるシャーロック・ホームズが瑠流の事情を聴くや今日この日に襲撃があるだろうと推理していたからです。
瑠流は隠し持っていたライフルでひとりを射殺。刺客は慌て、「いっぺんにかかれ!」と短剣を抜いて襲いかかります。
瑠流は懐に隠し持っていた三節棍で反撃。見事に3人を叩きのめします」
ふと、波野のリアクションがなくなったことに気づく。
見れば、音も立てずに眠っていた。
そっと電気を消して、部屋を出た。
翌日には平熱。ゴリラは仕事に行った。
波野は一度仕事に出ると1週間は帰らない。
静かな部屋、集中力を妨げるものは何もない。
カーテンを締め切り、ヘッドフォンを装着。通知を切り、モニターにWordだけを表示。
今、世界にあるのは原稿だけ。
騒がしいゴリラも、どうしようもないクズな自分も、めまぐるしく上下するチャートも、小説以外のすべてを意識から追い出す。
小説を書く。それだけの時間。
集中力が上がるにつれ、モニターの外が見えなくなる。BGMが消える。
創作は孤独な世界だ。
光ささぬ深海へ潜るように、心の奥深くへ沈んでいく。
真っ暗なのに鮮やかで、孤独なのににぎやかで、息苦しいのにどこまでも自由。
空腹が訪れる。腰が痛くなる。頭の中が燃え尽きる。
それでも書き続ける。
だって、これは俺だけの物語じゃないから。
この世界に生きている人間たちがいる。必死にあがいて、理不尽に抗って、どれだけ傷ついても諦めずに前へ進む人がいる。
目ざすものに手が届く保証などないのに。
すべてが無駄になるかもしれないのに。
結果は残酷かもしれないのに。
だから、筆を折ることはできない。
行き着く結果が悲劇でも喜劇でも、結末まで彼らを届けなければならない。道なかばの景色までしか見えないなんて、やりきれないじゃないか。
書き終えるまで現実を思い出す必要はない。
生活費のストックはある。冷房をつけっぱなしで、チョコレートも食べまくり、書くためだけにすべてを投入する。
資力と知力と財力の限りを尽くし、書き続ける。
波野が帰ってきて、出ていって、また帰ってきて。
セミが鳴き止み、紅葉が失せて、哀れ蚊が死に絶えても、書き続ける。
12月、嫌な月だ。
新人賞の結果が発表される月。結果が突きつけられる日。
一次選考通過作品の一覧を何度も見返す。
パソコンで、携帯で、タブレットで。
読み込み直し、メーラーを更新し、そうしてようやく、落ちていたという事実を受け入れる。
ネットにあげたのをリライトした14万文字も、好きなものを詰め込んだ9万文字も、市場を分析して書いた10万文字も、だめだった。
いつも通りだ。
何度も何度も味わった。
それでも慣れることはない。落ちるたびに、悔しくて悲しくてやりきれなくて、泣きそうになる。
書いている間の、充足していた時間が虚構となって砕けちる。
強大な敵に勝利した高揚も、親友を失った涙も、だれかと結んだ愛情も、すべてが虚しい嘘になる。
創作なんて嫌いだ、そう叫びたい。
けれど、叫んだところで書きたいという激情は押し止められない。
ゲーミングチェアにもたれかかった。脱力し、目を閉じる。
「あー……くそ、作家になりてえ」
十年失敗し続けてなお、諦めきれない。
限界なんてわかってるのに、才能なんてないのに、諦められない。
ほんと、学ばないな、俺は。
それでも気を紛らわす方法だけは覚えた。
映画だ。
アマプラでスパイダーマンを再生する。サム・ライミ版の1。
冒頭シーンから引き込まれる。小説を書いているときみたいに、モニターの外が見えなくなる。
アリストテレスは言った。
優れた主人公には悲劇を、劣った主人公には喜劇をと。
だからピーター・パーカーはベンおじさんを失うし、親友と対立する。
優れた人間が苦悩も葛藤もなくただ勝利するだけの物語なんてつまらない。
そして劣った人間の悲劇もまた、成り立たない。
努力しても手に入らず、足掻いても徒労に終わるだけの話なんて、悲劇ですらない。ただ悲惨なだけだ。
映画がエンディングを迎えるころには、書きたいものが溢れている。
試したい書き方が頭の中でとっ散らかっている。キャラクターたちが動きまわり、シーンの断片がシャボン玉みたいにふわふわと飛び回る。
アマプラを閉じ、Wordを開いた。
『まだ書くつもりなのか』頭の奥から声が響く。
書くに決まってんだろ。
『なれると思ってるのか』
思ってねえよ、クソ野郎。
『じゃあなぜ?』
……知らん。
ふと思う。これが最後の作品だとすれば、俺は何を書くのだろう。
これを書いたら死ぬとすれば、最後に何を残すのだろう。
目を閉じた。自分の中を、記憶の底の底までえぐり返す。
ゆっくりと、キーボードに指を置いた。
これは悲劇だ。劣った人間の悲劇。
嫉妬し、嘆き、悔み、あがいて、何もつかめない、惨めな人生。
ただただ悲惨で、救いようのない劣った人間の独り言。
「世界巡ってくるわ。空港まで送って」
「えー、しんどい」
「モンスター5本」
「えー……」
それだけの短い会話だった。
海岸から突き出た場所にある空港。車を降りると、波野が窓を開けた。
「じゃ、風邪ひくなよゴリラ」
「もう書かんの?」
「バカ言うな。旅なんてしたら書きたいことで頭パンクするわ」
「でもどうせ作家なれんねやろ?」
「なれんやろなー。お前に妹ができへんのと同じやな」
「人生しんど」
「ほんまにな」
波野がボタンを押すと、窓が閉まっていく。
半分まで閉じたところで、スマホを取り出した。
「そうや。最後に妹の写真見せたるわ」
「ん? ………………死ね、クソが!!!」
最後にいい悲鳴を聞けた。
妹欲しいと叫ぶゴリラに背を向ける。
税関を通り、搭乗口近くのソファーに腰掛けた。
行き先はロンドンのヒースロー空港。
かつてバイトで金をためて、親に黙って行った場所。
人生でもっとも幸せだった時間。
初めて好きになった小説の舞台。
搭乗までまだ時間がある。
ノートパソコンを開き、Wordを立ち上げた。