学習教材は同人誌
パスの通過は恐ろしく呆気なかった。
眩いパスに足を踏み入れた次の瞬間には、二人は秋葉原駅の電気街口駅前広場に降り立っていた。
パスは二人の頭上、地上から二メートルほどのところにある。
「すぐ着きましたわね。幻獣の世界を経由するんじゃなかったんですの?」
「あの本によれば、幻獣の世界には時間も空間も存在せず、直接観測できない薄い膜のようなものらしいです。そこを漂う概念が私達の世界に実体化したものが幻獣です」
説明すると、フィーコは周囲を興味津々に見回す。
「見てください、あの乗り物! オーロックス戦車を二十台つなげてもあんな長さにはなりませんよ!」
フィーコが高架上を走る電車を見て興奮する。
一方ワレーシャは通行人たちを珍獣でも見るように眺めた。
「揃いも揃って奇妙な格好ですわね……。赤服の怪人だけが特別というわけではないのですね」
通行人たちも、二人の方をチラチラと見る者が多い。
「あれ何のコスだ?」
「さあ、新作のソシャゲかマイナーなラノベかな……」
「二人とも髪色綺麗だな……クオリティ高ぇ」
通行人たちは二人をコスプレ集団と思い込んでいるが、フィーコ達からは会話の内容は聞き取れない。
「言語が全く通じなそうですわよ。フィーコ、どうしますの?」
「本屋か図書館があれば、ハクタクの能力で大量の文字情報から言語パターンを習得して、あなたにもその知識をコピーすることができます」
「随分回りくどいですわね。通行人から知識をコピーすればよいのではなくて?」
「短期記憶ならともかく、言語の知識に丸ごとアクセスされたら、負荷が高すぎて猛烈な頭痛になりますよ。異世界の方に迷惑はかけたくありません。まずは本屋の場所を何とか聞き出しましょう」
フィーコは周囲の雑踏を見回す。
「あの、もし。お時間ございますか」
フィーコは、通りがかった金髪ツインテールの少女に話しかけた
「Where are you from?」
と返す。
しかしフィーコはキョトンとしている。
「あれ、英語通じないんだ。見た感じ西洋出身だよね。D'où venez-vous? Woher kommen Sie? ¿De dWaar komt u vandaan? Var kommer du ifrån? Откуда вы?」
少女は様々な言語で出身を尋ねるが、フィーコには伝わらない。
「えー、流石にバルト三国とかはわかんないぞ。参ったな〜」
少女が何を言っているのかは分からないが、友好的な態度は感じ取れたフィーコは、本を開くジェスチャーを繰り返した。
少女はピンときたように両手を合わせる。
「ああ、海外から同人誌買いに来たクチね! スイカブックスならあっちにあるよ! スマホで検索してあげる」
少女は自身のスマホを指差した後、フィーコを指差す。
フィーコは首を横に振る。
「え、スマホ持ってないこととかある? 仕方ないな……」
彼女はリュックからノートとペンを取り出すと、簡易的なマップをサッと描き、ページを破って渡す。
「現在地がここ! で、ここに行けば同人誌いくらでもあるから!」
フィーコは地図を眺めると、にっこり笑って胸に手を当てる。
「親切にしてくださってありがとうございます。私はフィーコと言います。あなたのお名前は何と?」
「えっと……ごめん、何て言ってるかわかんない」
「フィーコ」
フィーコは一言だけ言って、胸を何度か叩く。
「ああ、フィーコっていうんだ。国際学会でも聞いたことない珍しい名前だね。私は瀬ノ川未唯だよ! ミユ!」
「ミユ……ありがとう、ミユ」
「じゃあね、日本を楽しんでね!」
未唯はバイバイと手を振ると、秋葉原の人混みに紛れていった。
「世界は違っても、人の優しさは変わらないのですね」
フィーコは、ノートの切れ端を大事に胸に抱えた。
地図に従ってスイカブックスに入店したフィーコは目を輝かせた。
「私の書斎なんて比べ物にならない蔵書量ですよ! 本の海で泳ぐという私の夢がかないそうです!」
「カナヅチのくせに何を言ってますの? あとこの世界の本、随分薄くありませんこと?」
「確かに。そういう意味ではどなたも読みやすそうですね」
フィーコは同人誌の一冊を手に取ると、パラパラと眺める。
ワレーシャもそれを隣から覗き込む。
「この世界の本は、絵がついているのですわね」
「むしろ絵がメインに見えますね」
「これで言語学習になりますの?」
「かえって都合が良いです。絵と文字列の出現パターンを同時に学習すれば、その言葉がどういう意味なのか視覚から理解できます。書き言葉が分かれば、店内の会話から類推して発音も分かりますよ。では早速……」
フィーコは本棚の端から同人誌を片っ端から捲り始める。
一冊十秒もかからない。
ワレーシャは、本棚から本を十冊ほどまとめて取り出し、フィーコの膝下に平積みする。
フィーコが読み終えると、次の十冊と取り替える。
フィーコは一心不乱に同人誌を速読する。
右手の指輪が青く発光し続けている。
ワレーシャはその横顔を覗き込みながら言った。
「フィーコ、一つ聞いてもよろしいですの」
「ええ、続けてください」
「あなた、本当に皇帝の座を継ぐ気はないんですの」
フィーコは、ページをめくる手をピタリと止める。
返答はない。
ワレーシャが続ける。
「幼少からずっと言っていますが、わたくしはありますわよ。両親が亡くなる前、分家の役目は本家の血筋が絶えた時のスペアだと何度も教わりましたわ。逆に言えば、その時にしか存在価値がないのです。変な野心を持たぬよう、帝国の要職にもつけません。一生飼い殺しなんて、わたくしには耐えられませんわ」
「ワレーシャは責任感が強いですね……。私だったら、一生自由に研究できて幸せだと思ってしまいます。お互い逆の立場で生まれていれば……」
「言っても詮無きことです。我が帝国では陛下が法律。陛下を説得さえできれば、道は閉ざされてはいませんわ。帰ったらとびきりの論文を書いて、魔法庁長官への道を開いてくださいまし」
「お父様が余計意固地になってしまわないとよいのですが……」
フィーコは嘆息すると、再度同人誌をめくり始めた。
ワレーシャも軽くため息をつくと、無言で本の用意に勤しんだ。
それからしばらく後、フィーコは店員と押し問答していた。
「ですから、未成年の方は成人向けコーナーからはご退出ください」
「そこを何とかお願いできませんか? この書店で、唯一確認できていないのがそこだけなのです」
フィーコが喋っているのは日本語だ。
ワレーシャも、フィーコから日本語の知識をコピーされたので会話が聞き取れる。
「わたくし達の国では成人年齢なんて概念はありませんわよ。独り立ちしたと認識すればその時が成人ですわ」
ワレーシャは、店員の横をすり抜けて棚から一冊を取り出し開く。
みるみるワレーシャの顔が真っ赤に染まる。
「な、なんですの、こ、この……酷すぎませんの!? フィーコ、こんなもの読む必要はありませんわ!」
「え? 何でですか? 余計気になります」
「あなたは知らなくて結構です! 店員の方、たいへん失礼しましたわ。さ、行きますわよ!」
ワレーシャはフィーコの手を取ると、スイカブックスを後にした。
「ワレーシャ、そんなに腕を引っ張らないでください! なんか変ですよ」
「変なのはこの世界の文化ですわ……それで、次に行く当てはありますの?」
「言語は学習できましたが、娯楽作品しかなかったので、やはりもっと科学知識を仕入れたいですね。あと、機械の実物も確認したいです」
フィーコとワレーシャは、通行人に道を尋ねつつ、秋葉原最大の書店である書泉ビブリオタワーを訪れた。
「見てくださいワレーシャ! リニアモーターカーですって! さっき見かけた列車よりも遥かに高速な移動手段があるのですね!」
「戦時でもないのに、ケンタウロス馬車より速い移動手段なんて必要ありますの?」
思う存分科学に関する本を渉猟したフィーコは、今度は大量の家電が展示されているウドバシカメラ秋葉原店に向かう。
「ワレーシャ、これ背中がくすぐったいです! アハハ、可笑しい!」
フィーコはマッサージチェアに揺さぶられてブルブルと震えている。
ワレーシャも隣の椅子に座ってスイッチを入れると、こちらはドンドンとワレーシャの肩を叩いてくる。
ワレーシャは鬱陶しそうに顔を歪める。
「御老体でしたら気持ち良いのですかね……。椅子が按摩師を兼ねるというのは、何とも突飛な発想ですわね」
マッサージチェアを体験している二人のもとに、販売員が寄ってきた。
「何かお探しの品はございますか? ハウキャナイヘルプユー?」
販売員の名札には「田辺」と書かれている。
フィーコとワレーシャは、その見覚えのある顔にドキッとした。
「赤服の怪人!」
二人は同時に叫ぶと、逃げるようにその場を去っていく。
田辺は二人の不可思議な行動に、首を傾げる。
「フィーコ、記憶消去はちゃんとしたんですの?」
「私達を覚えていたわけではないと思いますが……。まさか、あの時この店内とパスがつながっていたなんて」
「そういえば、パスを放置してますが問題ありませんの? 広場の群衆が帝国に押しかけたら食事抜きどころではすみませんわよ」
「それは大丈夫です。パスは地上から高いところにありますし、誰かがくぐることはないですよ」
二人が足早に店外に出ると、混乱している群衆の波に出会った。
「駅前広場に変な化け物が!」
「突然凄い霧だ! 何だありゃ!」
ワレーシャはフィーコをジトッと見る。
「向こうからくぐってきてるじゃありませんの」
「この世界の方々が危険です! 急ぎましょう!」
駅前広場は深い霧の中だった。
上を見上げれば晴天だが、フィーコたちの前方のビルに囲まれた空間だけが灰色に包まれている。
「幻獣がパスに横入りしてきたようですね……。私達の世界に幻獣が偶発的にスポーンする原理とおそらく同じ……」
フィーコが言うと、霧の中から血相を変えて女性が現れた。
ワレーシャは彼女を引き止める。
「一体何が起きましたの? どんな化け物でしたの?」
「あ……えと……」
女性は混乱していて答えられない。
ワレーシャはフィーコに目配せする。
「人の記憶を読むのは本意ではありませんが……有事につきご容赦ください」
フィーコは女性の頭に手を乗せると、彼女の直近の記憶を探る。
フィーコの脳裏に、駅前広場のパスから幻獣が降り立つ映像が浮かぶ。
二本足で立つその獣は、体長二メートルはあるやせ細った体躯をしていた。
全身は白い体毛に覆われ、大きく背筋を曲げている。
その酷薄な目と鋭い牙は飢えた獣を思わせ、爪は十センチはあろうかという長さに尖っている。
獣はその口から大量の霧を吐き出すと、その姿をくらました。
「これはきっと……霧の幻獣オンボノヤス。霧に包まれた者の遠近感や方向感覚を失わせ、遭難者を死角から攻撃する困り者です」
フィーコは女性から手を離すと、顔を明るくする。
「これは凄いことですよワレーシャ! オンボノヤスは姿を秘匿するその性質から姿形も図鑑には描かれていません! まさか科学の世界でこのようなレアな幻獣に会えるなんて! この目に焼き付けなければ!」
フィーコは霧の中へと走り始めてしまった。
「ちょっと、お待ちなさい!」
ワレーシャもまた、フィーコを追いかけて霧の中に消えた。
フィーコは濃い霧の中で周囲をキョロキョロと見回す。
視界は数十センチもなく、自分の手の平すら見ることができない。
「あれだけの群衆が全く見えない……。駅からは乗客が絶えず出てきているはずなのに。やはり縮尺や方向感覚を錯覚させる効果がこの霧にはありそうです」
フィーコはワレーシャに語りかける。
「次はやはり本体を見たいですね! ワレーシャ、ジャックフロストの能力で冷気を振りまいてください。科学の知識によれば、霧とは所詮は空中の水分。あなたの能力で凍らせればダイヤモンドダストになって地に落ちて……」
だがワレーシャはいない。
フィーコは周囲に大きな声で呼びかける。
「ワレーシャ! 冷気で周囲の水分を凍らせてください!」
しかし霧からは何の応答もない。
「私、また悪い癖で……。周りも見ずに駆け出してしまいました」
なおも周囲を見回し続けると、霧の向こう側にぼんやりとワレーシャの姿が見える。
「ワレーシャ!」
フィーコは呼びかけつつ駆け寄るが、霧の中の姿は徐々に揺らぎ、たどり着いたときには文字通り霧消していた。
「方向感覚を狂わされているから、目的地にたどり着けない……」
その時、床をひっかくような金属的な音が響いた。
振り向くと、そこには何もない。
ただ霧が深まるばかりだった。
心臓が鼓動を速め、手が汗ばむ。
その直後、背後から冷たく湿った吐息が首筋に触れた。
長い爪が視界の端に映り込む。
「クリュリュ……」
「いや!」
フィーコは恐怖に駆られ全力で走り出した。
しかし、長いドレスが足に絡みつき、バランスを崩して地面に倒れ込んでしまう。
彼女が振り向くと、霧の中から浮かび上がったのは、白く尖った爪と細長い足の一部だった。
全貌は見えないが、それはゆっくりとフィーコの方へとにじり寄ってくる。
「クリュリュ……」
やがて、オンボノヤスの全身が見える。
その裂けた口角は不気味につり上がり、細い目はフィーコをギョロリと捕らえている。
「ハッ……ハッ……」
フィーコの呼吸が激しくなる。
その時、オンボノヤスの周囲がキラキラと輝き始めた。
それはあたかも小さな宝石が空中に散りばめられたようだった。
霧が徐々に晴れ始めたかと思うと、冬の雪山のような寒々とした空気が周囲に充満する。
オンボノヤスも異変に気づき、周囲を見渡した。
直後。
彼の脇腹を、細い氷柱が鋭く貫く。
獣は苦しげに身をよじらせた。
「クリュゥ!」
ダイヤモンドダストとしてこぼれ落ちた霧の向こう側から、ワレーシャが現れた。
オンボノヤスに向けられた彼女の右手に、指輪が青い輝きを放っている。
「シャイな御仁ですのね。お顔を拝見できて光栄ですわ」
「ワレーシャ! 私の助言を聞いてくれていたのですか!」
「助言? 手当たり次第に冷気を振りまいていたら勝手に霧が晴れただけですわ」
オンボノヤスは苦痛に呻きながらも、その鋭い爪をワレーシャに向けて一気に振り下ろした。
ワレーシャは動じることなく左手を前に突き出し、瞬時に氷の盾を生成する。
爪が盾に触れると、鋭い音とともに砕けた氷の破片が飛び散る。
彼女は盾を押しのけ、右手の中に氷の剣を作り出すと、一気にオンボノヤスの腹部を貫く。
しかし手応えがない。
オンボノヤスの体の一部は霧となり、氷の剣は空を突いていた。
「なんと掴みどころのない……」
ワレーシャは氷の剣の先から急速に氷を発達させる。
オンボノヤスの全身の至る所をあっという間に氷が包み込む。
ワレーシャは、氷を剥がそうと身を捩るオンボノヤスを蹴飛ばして仰向けに倒す。
「さすがです、ワレーシャ! 帝都武芸大会少女部門第二位の実力!」
「順位は黙っててくださいます? 優勝してから自慢しますわ」
ワレーシャは氷漬けになって倒れ伏したオンボノヤスの胸に氷の剣を突き刺そうとする。
しかし、それをフィーコが止める。
「ワレーシャ! 待ってください!」
「あと一歩ですのよ! 何ですの!」
「オンボノヤスの個体は極めて貴重です! 氷漬けにしたまま帝国に持ち帰りましょう!」
「はあ!? 命がかかっている時に何を言っているのですあなたは!」
フィーコに気を取られたワレーシャに向けて、オンボノヤスが勢いよく霧を吹き付けた。
視界を奪われたワレーシャは、思わず目を瞑る。
次の瞬間、ワレーシャの体躯が横に吹き飛ばされる。
霧になって本体から離れていたオンボノヤスの右足が、ワレーシャを蹴飛ばしたのだった。
「ぐ……」
ワレーシャは起き上がろうとするが、続けざまに右足に顎を蹴り上げられる。
ワレーシャは地面に倒れ、意識を失う。
彼女の指輪の輝きが失せ、オンボノヤスの本体を包んでいた氷も消失する。
「ワレーシャ!」
自由の身になったオンボノヤスは、右足を再度引き寄せるて立ち上がると、再度フィーコにその視線を送る。
フィーコが凍りつく。
周囲を、再び深い霧が覆い始める。
「キュルルルル……」
甲高い鳴き声だけが、あたりに響いた。