第8章 『ガラムマサラ、シベリアへ』
青々とした空が羊雲に覆われている。陽の光が雲間から差し込み、心地良いぽかぽか陽気を生み出す土曜日の午後、幸春は中洲川端駅の地上出口付近に一人で佇み、人を待っていた。
「ユキ、やっほー」
と、そこに春の陽気もかくやな明るい表情の沙彩が現れた。今日の服装はオフホワイトのカットソーとストレッチパンツというカジュアルスタイル。フェミニンさは抑え気味だが、元来活発な彼女の性格を表現している服装だ。
「待った?」
「いや、さっき来たところ」
「よろしい」
「何がだよ?」
なぜかちょっと上から目線な沙彩がおかしく、小さく笑いながらツッコミを入れる。
「後から到着した女子に気まずい思いをさせない優しい気配り。特別に花丸を上げます」
「わーいわーい」
理由はよく分からないが沙彩はウィンクし、OKサインを作って及第点を押してくれた。花丸をもらった幸春は皮肉っぽい歓声を上げるが本心ではもちろん嬉しい。友達とはいえ女子から褒められるのは悪い気がしないのが男心である。
「それで、気晴らしさせてくれるって言ったけど今日は何を?」
早速本題に切り込む。
今日は沙彩から「気晴らしに連れて行ってやる」と啖呵を切られて連れ出された次第だ。
本当は気晴らしする気力も湧かないが、沙彩に誘われると不思議と心が弾み何かを期待してしている自分がいる。
その気晴らしの内容であるが、当日のお楽しみと伏せられていた。そして予想しようにも場所が場所だけに難しい。
ここは西日本最大の歓楽街中洲。大型商業施設のキャナルシティ博多(厳密には中洲ではないが)、博多座と福岡アジア美術館を擁する博多リバレイン、食べ歩きにもってこいの川端通商店街、場外馬券場、ホスト、キャバクラ、風俗店などなど、老若男女、やんごとき人からダメ人間までを楽しませる娯楽の宝庫だ。
沙彩のチョイスはいずれか……。
「ふっふっふ……。今日は映画を見に行きます」
案外普通の提案だな、と少しホッとした。だがまだ油断出来ない。
「じゃあキャナル?」
ダメ押しで尋ねる。この近辺で映画鑑賞といえばキャナルシティ博多のシネコンが真っ先に浮かぶ。
しかし沙彩はしたり顔でかぶりを振る。
「まさか……」
「そのまさか、よ。これから《《いつもの》》小劇場に行きます!」
「え〜〜」
やっぱりか、と苦笑混じりに不服を漏らす。
沙彩の趣味は映画鑑賞。日本映画やハリウッドなどメジャーも嗜むが、最近ではB級映画にまで手を出し始めた。そして中洲には昔ながらの小規模な映画館が細々と営業しており、彼女は時折まだ見ぬ名作を求めて通っているそうだ。
「今日のは絶対面白いから! 現地で大絶賛された作品よ!」
「なんてタイトル?」
「『ガラムマサラ、シベリアへ』」
もう意味が分からない。
「どこの映画? 南米? ロシア?」
「おバカね。ガラムマサラなんだからインド映画に決まってるでしょ?」
「分かんないよ!?」
ガラムマサラとはなんぞや? 人の名前? 神? それともお祭り?
インド文化に無知な幸春は首を傾げるしかない。
「本当に面白いのか? インド映画って踊ってばっかのオペラみたいなもんだろ?」
「それは偏見よ! 笑いあり、涙あり、人間ドラマありな名作もあるのよ。それに今日のはダンス少なめらしいから初心者のユキも楽しめるはず」
「やっぱダンス有るんだな……」
「食べず嫌いは人生の損よ! せっかくの気晴らしなんだから普段触れないものに触れてリフレッシュしなさいな」
背中を叩かれて思わず唸る。確かに気分転換に出向いたからには平時触れないものを手に取るのは道理だ。つまり未体験のインド映画はうってつけというもの。断る理由は無い。
「沙彩の言う通りだな。せっかく誘ってくれたし、見てみよう」
「その意気よ! それに、ゲテモノは食べると案外クセになるものよ!」
「今ゲテモノって言った? 本当に大丈夫なの!?」
インド映画を見て発狂したという話は聞かないが、不安を禁じ得ない二八歳であった。
*
「結構人が多いな」
劇場の混雑具合を目の当たりにし思わず一言。
訪れた映画館は四スクリーンの小規模なものだ。建物に年季が入っているのに加え、昭和っぽいインテリアや古い映画のポスターが時の流れを感じさせる。
この映画館に訪れる人々の目的は十人十色である。
自分達のようにシネコンで上映されないマイナー作品を求める者もいれば、往年のヒット作のリバイバル上映見たさに足を運ぶ人もいるらしい。目的は違えど両者に共通するのは劇場で見たいという熱意。旧作はレンタルやオンデマンドで済ませる幸春には少し理解し難い気持ちだが、今日はそれに染まってみるつもりだ。
チケットを購入してスクリーンに入る。そこは学校の教室程度の広さしかないスクリーンで座席は百席に達するかというくらいだ。観客はもっと少なく空席が目立つ。
着席し、上映を待つ間所在なさげな沙彩が話しかけてきた。
「私達って、何気によく映画来てるわね」
「……言われてみれば」
思い返すと沙彩とは過去に何度も映画館を訪れたことがあった。
「小学生の頃、友達と親同伴で毎年鑑賞してたよな。凛と付き合い出す前もここに連れてこられたし」
「あと高校生の頃、クラスの人達とも行ったわ」
「そうだった。お前が誘ってくれたっけ」
上映開始のブザーが鳴ったことで思い出話は打ち切られた。照明がゆっくり落とされ、劇場が暗闇に包まれるとスクリーンに光が灯る。
消灯から上映が始まるまでの短い時間、幸春は胸を躍らせた。未開拓ジャンルへの不安と期待から年甲斐もなく胸が高鳴る。この瞬間に失恋した悲しみはなりを潜めていた。
ふと隣に座る友人を横目に見た。沙彩の瞳は既にスクリーンに釘付けになっていた。闇の中でもスクリーンの反射光が彼女の面立ちをぼんやりと浮かび上がらせている。
丁寧に整えられた柳眉と綺麗な鼻筋が印象的な横顔は、率直に言って見惚れるほど美しかった。