ケンカばかりの幼馴染の騎士さまと、雪山で極寒サバイバルした結果
まただ、とエティエは思った。だから来たくなかったのだ、と。
この日、商家の娘エティエは母親に連れられてネイフラム伯爵家の屋敷へやって来ていた。
エティエの母とネイフラム夫人は互いを「魂の双子」と呼称するほどの大の仲良しで、学生時代からの付き合いだそうだ。それゆえ裕福とはいえ平民であるエティエの家は、ネイフラム伯爵家と身分差を超えた家族ぐるみの交流がある。
今日たまたま仕事が非番だったエティエは、無理やり引っ張ってこられるかたちで母親たちのお茶会に参加させられていた。
よく手入れされた庭園に、可愛らしい小花柄のクロスが掛かるテーブルセットが設えらえている。
三段のティースタンドから小さな砂糖菓子をつまむ母親たちの今日の話題は、もっぱらエティエの留学についてである。
「エティエちゃんが魔法局の若手研究員を代表して国費留学だなんて……。しかもうちのクロードがいるのと同じアカデミーに!」
「うふふ。可愛いひとり娘を隣国に行かせるのは心配だけど、クロードくんがいてくれるなら安心だわぁ」
優秀な研究員として王国の魔法局に勤めるエティエは、このたび年にひとりの国費留学生に選ばれる栄誉を得た。
魔法技術に優れた隣国のアカデミーで二年間国費で学ぶことができるという、まさに夢のような話だ。しかもこのアカデミーには現在、ネイフラム伯爵家の長男であり、エティエの幼馴染のクロードが在籍している。
父親はますます婚期が遠のくと嘆いていたけれど、留学自体に反対はしなかった。
家族はいつだってエティエの味方で、一番の理解者だ。そして親類同然のネイフラム伯爵家の人々も、エティエの活躍を喜んでくれている。
――ひとりを除いては。
エティエは先ほどから無言を貫いている、正面の席の人物を見た。
ラズロー・ネイフラム。
ネイフラム伯爵家の二男で、エティエと同い年のもうひとりの幼馴染である。
ラズローの艶やかな黒髪は、陽光の下では明るく茶味がかって見える。整った鼻筋に涼やかな濃紫の瞳。温和な雰囲気の兄のクロードとは異なり、凛々しく精悍な顔立ちだ。
エティエと同じく、たまたま屋敷に居合わせたのを母親に捕まってこの場に同席させられているらしいラズローは、先ほどから不機嫌丸出しで丸テーブルに片肘をついていた。
ちょうど騎士団の仕事終わりだったのだろうか、ティータイムに不似合いな白銀の鎧をがちゃりと鳴らし、ロングブーツの脚を椅子の横に放り出している。スタイルがいいせいで、その行儀の悪い脚がやたらと長いのがまた腹立たしい。
互いの子供の間に流れる微妙な空気を知ってか知らずか、ふたりの母親はキャッキャとエティエの留学話で盛り上がっている。
「二月後には発つというものだから準備があわただしくって」
「だったら壮行パーティーをしなきゃねえ! 旧公爵邸の迎賓館を借り切って舞踏会なんてどうかしら?」
あら名案! とばかりに母親が目を輝かせたので、エティエはあわてて割って入った。
「おばさま。お気持ちはうれしいんですけど、私、目立つのはちょっと……」
「んもう何言ってるの! これだけ美人で! 学生時代から優秀で! あなたを小さいころから知っているわたしまで鼻が高いったらないわ! ――あら、ところでお茶のお代わりはいかが?」
「あ、ありがとうございます……」
ネイフラム夫人は立ち上がり、自らの手でエティエのカップに紅茶を注いだ。
夫人の持つポットに嵌められた小さな赤い石は、中のお茶が冷めにくくなるよう炎の力が込められた魔石だ。エティエの所属する魔法局の研究は、こうやって人々の生活に深く結びついている。
「隣国でも才色兼備だって噂の的になるのは間違いなしよ。――ねっ、ラズローもそう思うでしょ?」
「……どうせすぐにホームシックになるのが関の山だ」
母親に話を振られてようやく、つまらなそうにひと言。
つんと横を向いたまま、ラズローは紅茶を口に運んだ。
どんなに態度が悪くとも、カップとソーサーに添えられた手つきは洗練されていて育ちの良さを隠しきれない。それがまたいちいち絵になるのが癪に障る。
「あらあらぁ、この子ったらエティエちゃんがいなくなるのが寂しいんだわ!」と夫人に冷やかされると、ラズローは秀眉をひそめておもむろにひとつ舌打ちをした。
(だから嫌だったのよ。近ごろいつ会っても不機嫌なんだもの)
ふたりきりだったら「なんなのよその態度は!」と問いただすところ、エティエはぐっとこらえて手元のカップに視線を落とした。
注がれたばかりの紅茶の水面に映るエティエは、少し気の強そうな緑の瞳が印象的だ。母親譲りの柔らかな栗毛はちょっとした自慢だが、いつも研究の邪魔にならないようきっちり編み込んでしまっているので宝の持ち腐れである。
両親やネイフラム家の人々(ラズロー除く)はエティエをかわいいだの美人だのと褒めそやすけれど――そのわりに学生時代から恋愛にはからきし縁がないので、身内の贔屓目だろうとあまりアテにしていない。
現に、二十三歳になって学生時代の同級生たちは皆ほとんど結婚してしまっているにもかかわらず、エティエはこれまで恋人すらできたことがなかった。
(――それに引き換えラズローは)
そっぽを向いているラズローをちらりと見やる。
ラズローは天に二物も三物も与えられた存在だ。勤勉だけが取り柄のエティエと違って、顔が良くて家柄もよくて、そのうえ何をやらせても人並み以上にこなしてしまう。
学生時代、エティエは一度も学内の総合成績で彼に勝てたことがなかった。魔法学などの学術科目の試験ではいつもエティエが一位だったのに、剣術などの実技を含めた成績ではラズローが上回っていたのだ。
そのせいでエティエは万年次席。五年前の卒業式でも、首席として表彰されたのはラズローだった。
これだけでもエティエのちっぽけなプライドをへし折るのに十分だったが、なんとラズローは卒業と同時に、あの精鋭揃いで知られる国王陛下直属の近衛騎士団に引き抜かれていた。
くらべたって仕方がないことだとわかっているけれど、エティエが打ち立てた「数年ぶりに卒業生が魔法局に入局!」という輝かしい実績は、ラズローの近衛騎士団入団というさらなるビッグニュースによって完全に上塗りされてしまった。
この男はいつもそうなのだ。
エティエがどれだけ肩を並べようと努力しても、涼しい顔をしてその数歩先へ行ってしまう。
それが悔しくて――少しだけ寂しい。
――トントン。
不意に小さな振動が伝わってきて、エティエは意識を引き戻した。
ラズローがこちらを窺いながら、人差し指でテーブルを叩いていた。
『母親たちの長話に付き合わされるのをどうにかしてくれ』
濃紫の瞳が半眼になってそう訴えていた。
幼馴染の腐れ縁ゆえか、口を開かずともラズローの言いたいことがありありと伝わってくる。だてに子供のころからの付き合いではない。
(まったくもう)
仕方ないわね、とエティエは嘆息する。ナプキンで口を拭うと静かに椅子から立ち上がった。
「おばさま。裏庭のマグノリアが満開だっておっしゃってたでしょう? 見せていただいてもいいかしら」
「もちろんよ。ラズロー、案内してあげて?」
「……ああ」
母親にホスト役を押し付けられ、ラズローがのろのろと面倒くさそうに腰を上げる。
その態度に、思わず「あんたが頼んできたんでしょ!」と言いかけたのをエティエは呑み込んだ。目の前へやってきて騎士らしく右腕を差し出すラズローの顔が、相変わらず国宝級によすぎるせいだ。
エティエは黙って彼の肘に手を添えて、ネイフラム夫人に会釈する。
「……あのふたり、どうなるのかしらねえ」
「わが息子ながら情けないわ。このままじゃ一体いつエティエちゃんがうちのお嫁さんになってくれるんだかわかりゃしない」
連れだって裏庭へ向かうわが子の背に、母親たちがそんな言葉をかけていたことをふたりは知らなかった。
屋敷をぐるりと周って裏庭に出ると、夫人の言葉通りマグノリアの樹が満開だった。大きなピンクの花弁が優雅に綻んで、辺り一面に甘い香りが満ちている。
エティエは幼いころから何度となく嗅いだ春の香りを胸いっぱいに吸い込んで、二歩、三歩とラズローの前へ出た。
「なつかしいわ。昔よく、この樹の下でごっこ遊びをしたわよね。クロードが王子さまで私はお姫さま。ラズローが騎士で……」
「お前はすぐお姫さま役に飽きて、『正義の魔法使いよー!』とかなんとか言って騎士の出番に乱入してきただろうが」
「ええそうよ。私、助けられる役より王子さまや騎士さまと一緒に肩を並べて戦う役になりたかったの」
あれから十年以上が経って、近衛騎士の制服である白銀の鎧をまとうラズローは今や全国民の憧れの的だ。
魔法局の女性職員の間でも「どの騎士さまが推し?」という話題は定番中の定番で、その中にラズローの名が上がることも多い。
学生時代からしょっちゅう女の子に追いかけ回されていたけれど、さらに遠い存在になってしまったなぁ、と思う。
裕福な家と優しい両親のおかげで何不自由なく暮らしてきたエティエだけど、この世には身分や階級という見えない壁がたしかに存在するのだ――大人になるにつれ、そう実感せざるを得なかった。
「私はお姫さまにはなれないから。だからせめて、『魔法使い』として少しでも王子や騎士に近づけたらいいなって――」
「それが留学の理由か?」
急にラズローの声が低くなった。
えっ、と思って振り返ったところで、ラズローが手首を掴む。
「……やめとけよ」
ざぁぁぁ、とマグノリアがそよいだ。ラズローの黒髪が陽の光を受け、きらきらと茶味がかって輝いていた。
「行くな。留学なんて、やめておけ」
「なぜ?」
「なんでって……」
手首を掴んだまま、ラズローはふい、と視線を斜め下に逸らす。
「お前はいつもぼやぼやしてて危なっかしいし、目の届かないところに行くと勝手にそこらのもの食って腹を壊して……」
「あのねえ、同い年よ? 子供扱いしないでちょうだい」
「ガキだろ。叶いもしない夢ばかりを見て」
「なっ……」
「いい加減あいつを追いかけるのはやめて、少しは――」
「バカにしないでちょうだい!」
エティエは反射的に声を荒らげた。気付けば思い切り、掴まれた手を振り払っていた。
「私の研究してる転移魔術は必ず人の役に立つ! それを叶わない夢だなんて、どうしてそんなひどいことが言えるの!?」
「は!? ちょ、ちょっと待て、俺がいつお前の研究をバカにしたっていうんだよ!?」
「今よ今! ラズローなんて……大嫌いよ!」
せっかく久しぶりに和やかに話ができたと思ったら、またすぐケンカになってしまった。
どうしていつも、上手くいかないんだろう。
エティエは悲しみでいっぱいになり、涙が込み上げてきた。
きっと今の自分は世界一不細工に違いない。ぐしゃぐしゃに崩れた顔を見られたくなくて、エティエはドレスのウエストベルトに留めてある短杖を引き抜いた。
「今はまだ、研究途中だけど……! こうやって対応する魔法陣を書いてある場所に戻るくらいならわけないんだから!」
短杖の先が青白く光り、空中に転移の魔法陣を描き始める。
エティエの専門は転移魔法だ。今は複雑な術式と準備を重ねてようやく発動できる高度な魔法を、もっと便利に使いやすくする研究に没頭してきた。
自分の研究を人々の生活に役立てるのがエティエの夢。
そして、いつかはこの生意気な幼馴染と肩を並べられる存在になりたいと密かに願っていた。でも今はただ、この場から一瞬でも早く消えてしまいたかった。
エティエは魔法局の研究室へ繋がる転移魔法を今まさに発動させようとして――
「おい、逃げるなよ! 話を聞けって」
「聞きたくないわ、どうせ――――あ」
心の動揺が短杖に伝わった。
複雑な術式を生み出していた杖の先端がぶれる。左右対称の魔法陣がぐにゃりと崩れ、転移魔法は不完全な状態で発動してしまう。
「きゃぁぁああああ!!」
そしてそのまま、エティエは発光する魔法陣の中に吸い込まれた。
びゅおおおおおおおおお……
気が付いたら、エティエは白銀の世界に放り出されていた。
あたりは一面の雪景色で、数歩先がわからないほど強く吹雪いている。
「転移魔法の座標が狂って……!?」
研究室へ帰るつもりが、手元が狂ってとんでもないところにきてしまったらしい。
エティエは真白の雪の上に尻もちをついていた。幸いスカートのパニエと新雪が衝撃を和らげてくれたが、その下に一体どれくらいの雪が積もっているのかは想像もつかない。
「寒っ……!」
極寒の地で、胸元の開いたアフタヌーンドレス一枚。しかも最悪なことに、魔法陣に吸い込まれる時に短杖を裏庭に落としてきてしまった。これでは複雑な魔法を使えないから、ふたたび転移魔法で戻ることもできない。
焦って周囲を見渡すと、真っ白な視界の端にもみの木らしき樹々の影が見えた。
あちらへ行けば少しは雪風をしのげるかもしれない――と、ふらふら立ち上がったその時。
「樹に近付くな!」
かかとの高い靴で雪の上を踏み出そうとしたエティエの腕を、何かが思い切り掴んで引き戻す。
エティエの身体を手繰り寄せ、凍える風から庇うように抱いたのはラズローだった。
「常緑樹の根元は雪にくぼみができて穴になっていることがある。落ちたら埋まって出られなくなるぞ」
「ラズロー! あ、あなたまで!?」
自分の失敗にラズローまで巻き込んでしまったことを知って、エティエは途端にパニックになる。
「こんな雪山の、どうしよう、わたしのせいで――!」
「落ち着け!」
――大丈夫だ。
抱きしめられた身体を伝い、言い聞かせるように染み込む声。
エティエは目を見開き、頭ひとつ分背の高いラズローを見上げた。そこにあるのは、こんな状況でも少しも揺るがない、いつもの勝気で大胆不敵な彼の顔だった。
「短杖なしでも風の魔法を使えるか?」
「つ、使えるけど、この吹雪を押し返すほどの大魔法は……」
「俺たちの周りを覆うくらい、小さなものでいい」
エティエはハッとして、すぐさま簡易の風魔法を描こうと右手を宙にかざす。
ところが、寒さと緊張で手が思うように動かない。
(ああもう、どうして)
エティエは優秀な魔法の使い手であるが、あくまで研究員であって実践には慣れていない。その間にも横殴りの吹雪がふたりを叩く。
震えるエティエの手を、ラズローの大きな手が下から包んだ。
「大丈夫だ」
腰に回されたもう片方の腕が、ぐっと力強くエティエを支えていた。
(だい、じょうぶ)
ラズローの言葉を心の中で繰り返す。するとほんの少しだけ、胸の奥に温かさが点った気がした。
エティエはどうにか、指先で風の結界を描き出した。厚い空気の壁がふたりを覆い、びゅうびゅうとうなる風が遮断される。これで一旦、吹きさらしだけは避けられた。
この魔法は本来、他人に聞かれたくない会話をする時に使用するものである。白銀の世界の中、防音の結界に護られたふたりきりの空間は異様に静かだった。
はぁ、ふぅ、と互いが白い息を吐く音が聞こえる。
どきどきどきどき。
異様に速く鳴り響く心音は、果たしてどちらのものだっただろう。
「……あ」
先ほどから向かい合って抱きしめ合っている状況にようやく気づいたのか、ラズローがパッとエティエの身体を離した。
「悪ぃ」
「ううん、ありがと……」
「…………」
「…………」
「……その。向こうにさ、大きな影が見える。多分建物か何かだと思うんだが」
ラズローはエティエの頭についた雪を払い、それからすっと遠くを指さした。エティエが目を凝らしてもただの真っ白な景色にしか見えないが、彼には何かが見えているらしい。
「行ってみるしかないか。お前は俺が負ぶうから」
言うなり「ほら」とかがんで見せたのでエティエはあわてた。
「前に進むだけでも大変なのに、そんなことさせられないわ!」
「ドレスとハイヒールで雪の中を歩けるわけないだろ」
「でも、それじゃあ!」
お荷物になりたくない、そう言いかけたエティエの額をラズローが指で小突いた。
「バーカ。適材適所だって言ってるんだよ。俺がお前を背負う。お前はこのまま風の結界を維持して、あと光をくれ。視界が悪くて方向感覚が狂うから、お前の光魔法で導いてほしい。二属性の魔法の同時行使は集中力がいるだろうけど――」
かたちのよい口元が、ニヤリと意地悪く笑う。
「――学年次席のお前ならできるだろ?」
こうして、エティエはラズローに背負われ、その背から風と光、二種類の簡易魔法を同時行使した。
ひとつは風の結界。もうひとつは指定した一点に向かってまっすぐ伸びる光の柱だ。
ラズローはずぶり、ずぶりと膝近くまで雪に埋まり、一歩ずつ踏みしめながらエティエの描いた光が導く方向へ進む。
どれくらい歩いただろうか。やがてふたりの前に現れたのは、城と呼んでも差し支えなくらいの大きな屋敷だった。
石造りの窓はすべて雨戸まで締め切られていて、中に人の気配はない。正面の堅牢な両扉は施錠されており、ちょっとやそっとでは開きそうもない。
やむを得ず、ラズローが脇にある使用人用出入口の錠前を剣柄で叩き壊す。
「だぁああっ!」
木扉を蹴破った勢いで、ふたりは転がるようして屋敷の中になだれ込んだ。
ようやく吹雪をしのげるところにたどり着いた。それでも無人の屋敷は真っ暗なうえ、とてつもなく寒い。既にエティエの手足は冷え切ってほとんど感覚がなかった。
それでもどうにか、ふたりは長い廊下の先にある談話室らしきところへたどり着く。
「……ちっ。薪はほとんど湿っているな……」
部屋には大きな暖炉と、それを囲むようにL字型に配されたソファがある。だが、暖炉の脇に積まれていた薪の束は、どうやら湿っていて使えないらしい。
「おい、火魔法は?」
「…………」
「おい!?」
寒さで思考がぼんやりしかけていたエティエは、ラズローに頬を掴まれて我を取り戻した。
「あ、その、だめ……。火の精霊の気配が薄くて……。何か、媒介となる魔石があれば小さな火を点すくらいはできると思うんだけど。ごめんなさい……私が短杖ワンドを失くしたせいで」
「………魔石ならある」
ラズローは胸元から鎧の下に手を突っ込んだ。首に下げた革紐のようなものを取り出すと、ぶちりとむしり取る。
「ほら、これ。この魔石なら、火種くらいにはなるんだろ?」
「これ……」
ラズローが差し出したのは小石ほどの大きさのラピスラズリだった。底部に魔力を蓄える術式が刻まれ、魔石として加工されている。エティエはその紫色の石に見覚えがあった。
「昔、私がラズローの誕生日にあげたやつ……?」
それは、ラズローの十歳の誕生祝いにエティエがはじめて自分の力で作った魔石だった。彼の瞳と同じ色であるラピスラズリに術式を刻み、己の魔力を込めたお守りだ。
「ずっと身に着けていてくれたの?」
「……悪いかよ」
まさか、十年以上も前に贈ったもの――しかも今のエティエから見ればかなり拙い出来である――を、今も彼が持ち歩いてくれていただなんて知らなかったのだ。
エティエが驚きの表情で見上げると、ラズローはふいと顔を逸らした。「いいから、早く火を」と、ソファ脇のサイドテーブルに敷かれていたクロスを剥ぎ取って暖炉に放り込む。
エティエはあわてて暖炉に近付いた。ラピスラズリの魔石を握りしめ、魔力を込める。すると紫色の石は赤く輝き始め――ぴしりと音を立てて割れると同時に、小さな炎を生み出した。魔石ごと炎を投げ込むと、クロスが燃えて暖炉全体に火が点る。
「……よか、たぁ……」
明々と燃える暖炉を前に、気が抜けてへたり込みそうになったエティエ。するとその腕を、ラズローが掴んで引っ張り上げる。
「今すぐ服を脱げ」
「えっ!?」
突然ぐいと顔を近付けられてそんなことを言われたものだから、エティエは狼狽してのけ反った。バランスを崩してひっくり返りそうになったのを、ラズローが見事に抱き留める。
「早く脱げ」
「えっ、な、なん、え??」
「俺は鎧のおかげでそれほど雪にやられなかった。でもお前はそのままじゃ凍死だ」
言われてはた、とエティエは自分の身体を見る。
エティエのドレスは雪にまみれてぐっしょり濡れた状態で肌に貼り付いていた。手足は白を通り越して青白く、氷のように冷たい。
冷静に自分の状況を把握した途端、急に寒さを思い出したみたいに身体が震えだした。
「えっと、でも」
奥歯がガチガチと鳴る。舌が上手く回らない。
でも、さすがにいきなり異性の前で裸になるのは――。
エティエが躊躇している間に、ラズローは窓にかかっていた厚手のカーテンを剣で切り裂いた。
「代わりにこれでも巻いとけ」
「あ、ありがとう……。でも、大丈、夫? 他人の家の……勝手に……」
「人命には代えられないだろ。じゃあ、俺は何か暖を取れそうなものを探してくるから――」
「待って!」
背を向けて立ち去りかけたラズローの腕を、今度はエティエが掴んだ。
なんだよ、とラズローが振り返ると、カーテンを頭まで被ったエティエはもじもじと視線を彷徨わせる。
「手が、かじかんで……その。上手く、ドレスのホックを外せない」
「……は……?」
ごくり、と喉仏が動いた。かなりの沈黙の後、ラズローは「……俺がやる」と呻くようにつぶやいた。
「どうやら、俺たちが飛ばされたのはレスタリッジ辺境伯領の山岳だったみたいだな」
エティエを後ろ向きに立たせて、背中のホックに手をかける。
気まずさをごまかすためか、ラズローは妙に饒舌にしゃべり始めた。
「暖炉に描かれている紋章はレスタリッジ伯のものだ。おそらく領内にいくつかある屋敷のうちのひとつだろうな。……さしづめ夏の避暑用ってとこか」
ぷちん、と音がして胸元がくつろぐ。
ぷちん、と二番目のホックが外れ、今度は肺のあたりが。
「レスタリッジ伯とは面識がある。寛大なかただから、ちゃんと謝れば大丈夫だろ。帰ったら手紙を書いて、それから――」
淀みない口調とは裏腹に、上から順にドレスのホックを外す手つきはじれったいくらい慎重だった。彼が口を開くたび、うつむくエティエのうなじに彼の吐息がかかる。
エティエは恥ずかしさで身悶えたが、それを指摘してしまうとラズローに申し訳ないので黙っておく。真っ赤になった顔をカーテンに埋め、ただぎゅっと口を引き結んでいた。
「あの……、できればコルセットも緩めてもらえない、かしら」
「…………」
ラズローは返事をしなかったが、やがて彼の手がコルセットの紐にかかったのがわかった。
エティエは羞恥心を押し殺すのにいっぱいいっぱいすぎるあまり、ラズローが「新手の拷問かよ……」とため息を零したことには気付かなかった。彼の顔が、エティエと同じくらい赤くなっていたことも。
すべてをくつろげ終えると、ラズローはさっさと部屋を出ていってしまった。
誰もいない間に、と足元にドレスを脱ぎ落とすと、べちゃり、と重たい音がする。だいぶ水を吸ってしまっていたようだ。
バスタオルの要領でカーテンの端切れを身体に巻きつけたころで、ラズローが毛布を二組持って戻ってきた。主寝室や書斎などは鍵がかけられていたので、使用人部屋から拝借してきたらしい。
かなりくたびれてごわごわしていたが、今は頬ずりしたくなるくらいありがたかった。
「とりあえず、身体をあたためるのが先だ。冷え切った脳みそじゃこの状況を打開するアイデアも浮かばない」
どさ、どさ、とラズローが鎧や手甲を脱いで床に転がしてゆくのを、エティエは恥ずかしさで直視できなかった。
ふたりでそれぞれ毛布にくるまり、暖炉前のソファに肩を寄せ合って座る。エティエは裸にカーテンを巻きつけた状態で、ラズローはトウラウザーズを穿いただけで上半身は裸だ。
肌を守るものを失くしてしまうと人はこれほど不安になるのかと、エティエは膝を抱えて小さく震えた。
外ではまだ雪風が恐ろしい唸り声をあげている。目の前で暖炉の炎が燃える景色だけが、エティエの知る日常と繋がっていた。
母親たちはそろそろ、ふたりが消えてしまったことに気付いただろうか。裏庭には短杖が落ちたままのはずだから、きっと大騒ぎになっているに違いない――。
あれこれと考えるうちに、エティエの目から涙が零れだしていた。
「なんだよ、泣くなよ……涙が凍るぞ」
「ごめんなさい。私が、私のせいで……」
「別に。お前にトラブルに巻き込まれるのは今に始まったことじゃない」
それ以上慰めるでもなく、ラズローはふいと顔を逸らす。だから一瞬、エティエは彼を不機嫌にさせてしまったのだと思った。
辛辣な言葉が飛んでくることを覚悟して、身を固くする。
「ほら、いつだったっけ? お前がさあ、野いちご狩りをしたいとか言い出してさ。ふたりで屋敷を抜け出して森に行ったら道に迷って――」
しかしラズローが口にしたのは糾弾でも非難でもなく。その声はあっけらかんとしていて、どこかこの状況をたのしんでいる節すらあった。
(ああそうだ。彼はこういう人だった)
エティエの胸に、不意に懐かしさが込み上げてきた。
ラズローは口が悪くて素直じゃない。それに最近はいつ会ってもどこか機嫌が悪そうで。
でも本来の彼はいつだって明るく前向きで、一番にエティエに手を差し伸べてくれる人なのだ。
今だってそうだ。さっきも。その前も。――ずっとずっと昔から。
(私は昔からずっと、そういう優しいラズローが好き……)
暖炉の炎に照らされる彼の横顔。大人になって男らしく成長した今も、彼の表情やしぐさのひとつひとつに少年のころの面影が覗く瞬間がある。濃紫の瞳はあのころと寸分違わず、本物のラピスラズリみたいに美しい。
隣から見つめているとぎゅうっと胸が締めつけられて、エティエは彼への想いの深さを突き付けられた気がした。
「あの時はどうなるかと思ったけど、お前が欲張っていちごを摘みすぎたおかげで通り道に点々といちごが落ちててさあ」
大人になっても、ラズローはちっとも変わってなんていなかった。エティエがふたりの間にできていると思い込んでいた深い溝は、本当はただ、彼へのあこがれと自分に対する自信のなさの裏返し。
ずっと胸の奥にしまわれていた臆病な恋心が、氷解してすとんと腹の奥に落ちる心地がした。
「ほんと、お前といるとトラブルが向こうからやってきて飽きないっていうか…………へっくし!」
突然、ラズローの語りは特大のくしゃみで中断する。
あの国中の女性のあこがれの近衛騎士さまがずるずると子供みたいに鼻をすすりだしたのがおかしくて、エティエは耐え切れずに笑ってしまった。
「ごめんなさい。ふふ。あの、よかったらハンカチをどうぞ?」
ずっと毛布の中で握っていたハンカチを差し出そうとすると、こちらを向いたラズローと目と目が合う。
「……ひさしぶりに見た。お前が笑うとこ」
息が止まるかと思った。とっさに言葉を返せなかった。
エティエだってひさしぶりに見たのだ。ラズローがこんなに優しく笑うところを。
どきどきどきどき。
途端に心臓が強く早く鼓動し始める。エティエが困惑して視線を忙しなくすると、ラズローは「……寒いな。もうちょっとこっち寄れ」とハンカチごとエティエの手を引っ張った。
「うわっ、お前の手つめたっ! そのままじゃ凍るぞ!?」
冗談めかして大げさに驚きはしたけれど、ラズローがエティエの手を離すことはなかった。
エティエの細い指先を包むように握り直して、己の毛布の中にそっとしまい込む。
そのままふたりはしばらく、無言で互いの手のぬくもりを感じ合っていた。
ぱちぱちと、暖炉の炎が弾ける。
一体どれくらいが経っただろうか。いつの間にか外の風は勢いが弱まり、静かに降り積もる雪に変わっていた。
沈黙が身に馴染んでどこか心地よさすら感じだしたころに、ラズローがふと、思い詰めたような調子で口を開く。
「……なあ。なんでお前は俺のこと、そんなに嫌ってんの?」
「な……!? そっ、それはこっちの台詞よ!」
「いつも俺といると機嫌悪そうにするじゃねーか」
「それを言うならラズローのほうこそ――」
「俺はさ、お前のこと……。けっこう可愛いと思ってるんだけど」
不意打ちまがいの告白に、エティエは思考が追いつかず口をパクパクさせた。
「そんなに驚かなくてもいいだろ……」
「だって、だって……いつも私を子供扱いするし、留学だって反対したじゃない!」
「――お前を兄貴に渡したくないんだ」
絞り出された声は低く、苦渋の色合いを帯びていた。
「お前がずっと兄貴のこと……クロードを好きなのは知ってるけど、俺はふたりの仲を応援してやれるほど人間ができてない」
「えっ……? 私、別にクロードのこと好きじゃないわ」
「は?」
急に刺々しい視線で見られたので、エティエは自分でも何がなんだかわからないまま当てずっぽうな弁護を始めてしまう。
「えっ、あ、あの、もちろん幼馴染としては好きよ! 分野は違えど同じ研究者として尊敬してるし、それに……」
「いやでもお前、兄貴の在学中はしょっちゅうふたりで図書室にこもってたし、あいつが向こうのアカデミーに行った後もずっと手紙のやり取りとかしてるじゃねーか」
「へ!? そんなの、勉強のことなら同級生より先輩であるクロードを頼るのは当たり前でしょ!? 手紙のことだって、お互いの研究に関する情報交換を――」
「留学だって兄貴を追いかけるために行くんだろ!?」
「なんでそうなるの!?」
互いにヒートアップしてソファから立ち上がる。すると身体に巻きつけていたカーテンが毛布の中でずり落ちてしまって、エティエは悲鳴を上げてしゃがみこんだ。
《ガキだろ。叶いもしない夢ばかりを見て》
《いい加減あいつを追いかけるのはやめて、少しは――》
もぞもぞと毛布の膨らみの下でカーテンを巻き直しながら、エティエはふと、転移事故の直前に裏庭でラズローにぶつけられた言葉を思い出していた。
(あの台詞ってもしかして……私がクロードに片思いしてるって誤解してた?)
ここ数年、どこかラズローと噛み合わない感じがしていた原因がわかった気がした。
ねじれた糸がほどけるみたいに、エティエの心は急速に落ち着きを取り戻していく。
「研究者なら、誰だって一度はあのアカデミーで学びたいって思うもの。わたしが国費留学に立候補したのは純粋に向学心からよ。そりゃ異国でひとりぼっちよりは、知り合いのクロードがいてくれる方が心強いなとは思うけど……異性として好きとかそういうのじゃないわ」
ゆっくり、丁寧に。誤解なく伝わるよう、エティエは言葉を選んで話した。
ラズローはしばしポカンとした表情でこちらを見下ろしていたが、やがて乱暴に黒髪をかいたかと思うと、ソファに背を投げ出すように座る。
「……バカらし……」
「言うに事欠いてバカって何!?」
「……俺のことを言ってるんだよ」
ハァ、と深いため息をつく。毛布が半分肩から落ち、彼の引き締まった上体がちらりと覗いていた。
「叶わない恋なんだって勝手に決めつけて、自分の気持ちを押し込めてさ。それが全部勘違いだったって? じゃあ始めから我慢する必要なんてなかったってことだろ?」
ラズローはしばらく目元を覆って何かを独り言ちて、それからやおら顔を上げる。
被っていた毛布をひるがえすと、絨毯の上に座り込んだままのエティエの前に片膝をついて跪いた。
「エティエ」
濃紫の瞳がまっすぐこちらを射抜く。そのまなざしに宿る意志の強さに、エティエは瞬きすら忘れた。
「好きだ。ずっと、子供のころから」
心臓が止まりそうになる。エティエはひゅ、と鋭く息を止めた。うれしさよりも、衝撃の方が強くて。
ラズローの表情は真剣そのもので、これが彼の本心なのはすぐにわかった。それでもエティエは思わず「う……うそ」と首を左右に振ってしまう。
「だって、私だってずっとあなたを追いかけてて、少しでも近付きたくてがんばって、でもあなたはいつも私のことなんて眼中にないみたいに易々と通り越して、だから――!」
「好きな女に負けたらかっこ悪いだろ。……それだけ」
「言っとくけど、お前が毎回学術試験で高得点取るから総合成績で上回るのすげー大変だったんだからな」と、ラズローは嘆息した。
知らなかった。
エティエがラズローに追いつきたいと願ってがんばってきたように、ラズローもまた、エティエを追いかけて必死に努力していたなんて。
エティエはずっと、ラズローは苦労知らずの天才なのだと思っていたのだ。
(私、ラズローのこと全然わかっていなかった。ずっと見ていたつもりだったのに……)
湧いてくるのは少しの後悔。でもそれ以上に、愛しいという気持ちが込み上げてくる。
「ほ、本当に私のことが好きなの?」
「ああ」
「私のことが好きだから、あのラピスラズリの魔石もずっと持っててくれたの?」
「そう」
「……私も、ラズローのことが好き……」
消え入りそうな声で、恐る恐るつぶやく。
すると途端に、ラズローが毛布ごとばさりと頭から覆い被さり、エティエの身体を抱きしめた。
「もっかい言って」
毛布の天幕に視界を覆われ、小さな闇に包まれた。狭い空間にふたりの呼吸のあたたかさが満ち、ラズローの気配がすぐ目の前にあるのがわかる。
「え、す、好き……ラズローのこと……」
「もっかい」
「……すき……」
乞われるまま言葉を重ねると、だんだんと想いはかたちを得て膨らんでいく。そのうち抱きしめられた身体からはみ出して破裂してしまうんじゃないかと、エティエは苦しくも満たされる感覚に戸惑った。
ラズローは大きな犬みたいに、鼻先をすりり、とエティエの頬にすり寄せる。
「ね、お願い。俺のことあたためてよ……。このままじゃ寒くて死んじゃうかも」
こんな鼻にかかった甘え声を出せるなんて聞いてない。
密着した肌と肌が、燃えるみたいに熱かった。
「そんなこと言われても、これ以上どうやって――――んむぅ!」
ほとんど触れ合いそうなくらい近くにあった唇同士が重なった。
ぷは、と小さく息を零して、すぐにふたたび柔らかな熱がエティエの口を塞ぐ。
親密で、あたたかで、やさしいキスだった。
はじめての口付けは泣きそうなほど幸せで、しかしエティエは内心でパニックに陥る。
(ちょっと待って、こういう時ってどう呼吸すればいいの!? い、息が苦し……空気、風の通り道、が…………。ん? 風の通り道?)
「――そうだわ!!」
エティエは突然立ち上がった。ラズローを押しのけて、被せられていた毛布を勢いよく剥ぐ。
「ラズロー、思いついたわ! 私たちの遭難を外部に伝える方法!」
「まじで!? ……っておい。普通この雰囲気とタイミングでそれを言うか……?」
せっかくの甘いムードをひっくり返され、ラズローはハァ……、と大きな大きなため息を吐く。しかしもうエティエの耳には届いていなかった。
エティエはくるまっていた毛布を放り出すや、カーテン一枚の姿で絨毯に何やら術式を描き始める。一旦こうなるともう、先ほどまでの乙女らしい恥じらいなど吹雪の彼方だ。
「転移術式が複雑なのは、私たちの身体を丸ごと転移させる必要があるから。光と闇と雷の精霊の媒介が必要で、でもそう、もっと扱いやすい風魔法を介した転移――つまり、声だけなら……!」
魔法局にあるエティエの研究室の床には、帰着用の転移魔法陣が刻まれている。
そこへ流れ込んできた、か細い「助けて」の声を同僚の研究員が聞きつけたのは、ふたりがネイフラム伯爵家の庭から消えて半日ほど経ってからのことだった。
◇
『――ふうん。そういう経緯があったんだ』
あわただしく春も終わり。
裏庭のマグノリアは花の盛りを終え、ネイフラム伯爵家では薔薇が見ごろを迎えていた。
本日、近衛騎士団が非番のラズローは、自室で壁に掛けられた“伝声板”と向かい合うかたちで座っていた。
星形の金属板に複雑な術式と魔石が埋め込まれたその魔道具は、遠方の相手と音声でのやり取りを可能にする優れものだ。まだ試作段階で一般には普及していないが、あの遭難劇でエティエが生みだした術式を元に作られていた。
先ほどからののんきな声の通話相手は、隣国のアカデミーで医療魔術の研究に従事している三歳年上の兄・クロードである。
『たしかに急にきみとエティエちゃんが婚約したって聞かされた時はびっくりしたけど』
「知らせるのが遅れて悪かったな」
『ほんとに悪かったと思ってる? まあ、驚きはしたけど、意外だとは思ってないよ』
あの遭難事件の後。
エティエに改めて長年の想いを打ち明けると、彼女は何度も頷き、受け入れてくれた。
その後は両家の母親の猛プッシュにより、とんとん拍子で婚約にまで至り。
方々から盛大に祝福される中――エティエは予定通り、クロードの所属する隣国のアカデミーに国費留学生として旅立っていった。
今日も忙しそうにしていたよ、と兄から婚約者の近況を聞かされて、ラズローは「相変わらず、あいつらしいな」と小さく笑う。
『それで? きみの二十年近い初恋が実った経緯を聞かされて、僕にどうしろって言うんだい』
「エティエに変な虫がつかないよう見張っててほしいんだよ」
『大丈夫じゃない? 左手の薬指にあれだけ立派な婚約指輪をしてるんだもの。本人も「婚約者がいる」って公言してるし』
「そりゃそうだろうけど……あいつは美人だし、頭もいいし、笑うと天使か? って感じだし、ちょっと抜けたところもまじで可愛いし……。万が一ってことがあるかもしれねーだろ」
『はいはい、ノロケをごちそうさま。わが弟は本当に昔からエティエちゃんしか眼中にないんだから。エティエちゃんもエティエちゃんで初心というか一途というか……本当にお似合いだよね、きみたち』
まるでこうなることが当然の帰結であったかのように、クロードはしみじみと嘆息した。
『きみたちが互いに好意を持っていることなんて、周りはみんな知ってたよ? 母さんなんてそれをわかったうえで「ラズローがこのままヘタレで終わるならあなたがエティエちゃんと結婚するのよ!」なんて焚きつけてくるから正直困ってたんだよね』
でも収まるべきところに収まってよかったよー、とクロードは屈託なく笑う。
あんまり朗らかに祝福されたものだから、これまでこの兄を恋敵だと思い込んでライバル心を燃やしていた自分はなんだったんだと、ラズローは全身の力が抜ける気がした。
『そんなに離れるのが心配なら、婚約者として泣いてすがって留学をやめさせればよかったじゃないか。でも、結局きみはエティエちゃんの希望を尊重して隣国へ送り出した。そうだろう?』
「……あいつの夢を、応援してやりたいから」
たしかに、これから二年もエティエの顔を見られない、触れることもできないかと思うとつらい。クロードの言うように、愛情でがんじがらめにして留学を諦めさせるやりかたもあったかもしれない。
それでも、ラズローはエティエの進む道を見守ることを選んだのだ。
いつでも夢に対して真摯で、まっすぐなエティエが好きだから。
帰ってきたら結婚しよう――そう約束して。
『へぇ~。学生時代はエティエちゃんに近付こうとする男を片っ端からコテンパンにして牽制してたあのラズローがねえ。……大人になったってことかな? いや、それとも勝者の余裕ってやつ?』
「うるせえ。その話、絶対エティエに言うなよ。あと、兄貴もあいつにちょっかい出したら殺す」
『ははは、僕だって命は惜しいからね。ま、エティエちゃんの留学期間が終わるまでの二年は遠距離恋愛ってことになるんだろうけど……あの調子だと、案外すぐにまた会えるようになるんじゃないかな』
「は?」
クロードの周囲の空気が静かな笑みで揺れるのが、伝声板越しに伝わってきた。
『彼女、これまで以上に転移魔法の研究に燃えてるから。こちらのアカデミーにいる間に、すごい発明をする気がするよ』
クロードの言う通り、エティエは留学して半年足らずで画期的な転移魔法の省略術式を編み出した。
これにより遠く離れた場所へ誰でも簡単に移動ができるようになり、エティエは優れた研究者として国内外に名を馳せることとなるのだった。
若くして偉大な功績を残した彼女の研究への原動力が、「遠距離の恋人にいつでも会えるように」という可愛らしいものだったのは、それほど知られていない。