愛と恋の境界線
春風の暖かな休日、僕は花屋奥の居住スペース窓辺で本を読む。
開けた窓から見えるのは芽吹いた緑の葉。深呼吸すると新緑ならではの香りが鼻腔をくすぐる。
──リーンが僕に抱く感情は、ただの憧れなのだろうか。
風でめくれるページを見るとなしに見つめ、ふとそんなことを思う。
風の音に混じり、店の扉に下げたベルが鳴るのが聞こえた。軽快な足音がここに向かってくる。
この足音はリーンだ。
居住スペースに入るのは僕の家族か友人、リーンに限られる。
「おっはよーう!アスターさん、アスターさん、聞いて聞いて!!」
「やぁ。おはよう、リーン。聞くってなにをだい?」
リーンが僕の名を呼びながら部屋に駆け込んできた。
これ以上嬉しいことはないっていうくらい、空色の瞳を輝かせている。
リーンというのは愛称。本当はアイリーン・マーズという。
リーンは僕の親友アーノルドとエレナの娘だ。
父親似の癖がある栗毛を腰まで伸ばしていて、笑顔はあどけなさが残る。
今年で一七才になるリーンは、年のわりに背は低い。けれどとても女の子らしい体つきになっている。
なのに本人は無自覚に、小さい頃そうしていたように、僕の膝に飛び乗ってくる。
「あのね、あのね、今度の定休日はピクニックに行きましょ。スイレン先生がアスターは仕事しすぎだから休みなさいって言ってたわ」
「その先生から聞いたのだけど、リーンの学年は来週テストだろう。勉強しなくていいのかい?」
「うっ……でも、でも」
僕の両親は学校の教師。しかもリーンの担任は僕の父親。そのくらいの情報は入ってくる。
リーンの動きが不自然に止まり、笑顔から一変、泣きそうな顔になった。
「ほら。わからないところは教えてあげるから頑張りな。ちゃんと卒業したいだろう?」
「……うん」
リーンの瞳に僕が映る。さらっとした黒髪に切れ長な黒い瞳、小さい頃は女顔とからかわれていた。これでも今年で四〇になる。
二〇年前の戦争で、僕は右腕の肩から先を失った。
かつてはアーノルドと共に戦場を駆けたけれど、この怪我を期に退役した。
今は祖父の店を継いで、町の片隅で花屋を営んでいる。
リーンは物心つくようになってから、毎日花屋にやって来た。
「アスターさん、おはなをちょうだい」
「やあリーン。いらっしゃい」
僕はリーンを迎え入れる。
リーンは花を買って、たわいもないおしゃべりをして、お茶を飲んで帰る。
この関係につける名前を、僕は知らない。
✶✶✶
まずは僕の人となりを話しておこうか。
僕はアスター・ヘリオス。
神暦一八二〇年。海に囲まれた国の、貴族の長男として生まれた。
生まれもった魔法は花と会話する力。貴族の間ではハズレと言われる魔法だ。ちなみに当たりは炎、雷、風、氷といった自然界の元素を操る系統のもの。
魔法は貴族が希に生まれ持つものであり、そうでない者は努力しようとも習得することはない。
三才で今暮らしている母の祖国、雪国ノーゼンハイムに引っ越してきた。
その後生まれた兄妹は双子で、男の子にウル、女の子はビオラと名付けられた。
母は弟と妹を産んだ日に亡くなった、と父から言われていた。
そんな母が敵国に囚われの身となっていたと知ったのは、騎士となり戦場に立った時のこと。
母を救い出すことができたが、戦の最中で僕の右腕は失われ、騎士を退役することになった。
二〇才のとき戦争が終わり、祖父の花屋を継いで、毎日花を育てている。
弟妹はそれぞれ想い人と結婚して、幸せに暮らしている。
同年、僕の友人であるアーノルドとエレナが、庶民と貴族という身分差を乗り越えて結ばれた。
ごく親しいものだけで結婚式が行われ、僕も新たな門出を祝った。
結婚から三年、二人の間には娘が生まれた。
それがアイリーン。アーノルドとエレナがちょくちょくリーンを連れて遊びに来るから、僕もリーンの成長を見守るのが楽しかった。
僕は結婚も婚約もしていない。
腕を失ったこと、退役したことを後悔していないかとよく聞かれるけれど、家族が生きている今以上に幸せな事はない。
戦場で命を奪う日々より花を育てる今が楽しい。
だから後悔はない。みんなが幸せならそれ以上は望まない。
神暦一八四七年。リーンが生まれて四年目のこと。
前日から雪が降り続いて、昼になっても道が凍るほど寒い日だったと覚えている。
僕はエレナに花の苗の注文を受け、マーズの屋敷に配達に行った。
雪が止んだタイミングを見計らい、昼過ぎに屋敷の門をくぐった。あいにくアーノルドとエレナは仕事で留守にしていた。
雪深い日は右腕があったところの傷跡が痛む。朝のうちに痛み止めを飲んでおいたけれど、常用しているせいか最近効きにくくなってきていた。
いつもなら嬉々として駆け回っているリーンの姿はない。
「リーンは風邪でもひいているんですか?」
珍しいと思って応対に出たメイドに聞くと、メイドは目を泳がせ、口ごもった。
「お嬢様は、ええと、その……あの、アスター様。すみませんがこの花、納屋にしまってもらえませんか。エレナ様には私から伝えておきますので」
納屋はマーズの庭園の片隅にある。普段はすんなり配達の品を受けとるのになぜ納屋に。
不思議に思いながら庭園に出る。
いったんやんでいた雪が、また降りだした。
《この分だとかなり積もりそうだね、アスター》
「そうだね」
憂うつそうにぼやく雪割草に返事して、ふと気づく。
新しく積もった雪でほとんどうもれかかっているけれど、ふたり分の足跡が納屋に続いていた。
大人のものと、リーンであろうこどものもの。リーンの足跡はだいぶ乱れている。戻りの足跡は大人一人分だけ。
メイドがあえて納屋に、と言った理由がそこでわかった。
「だして、おじいさま。お願い、いいこにするから、おじいさま、怒らないで」
鍵のかけられた納屋、わずかにきしむ扉。その向こうから、消えそうなほど弱々しいリーンの声が聞こえた。
「リーン! どうして納屋に」
扉に呼び掛けると、リーンの掠れた声が返る。
「その声、アスターさん? アスターさん、助けて、おじいさま、が。おじいさまが、私をここに。かぎをかけちゃったの」
たどたどしい説明から、マーズのご当主がリーンを閉じ込めたことがわかった。
使用人たちは主人の逆鱗に触れることを恐れてリーンを助け出せずにいたんだ。
ご当主は魔法のない人間が嫌いなお方。アーノルドとエレナが結婚したいと言い出した時だって、だいぶ渋った。魔法のない人間を嫌う……孫も例外ではなかったのか。
「なんてひどいことを」
呟いた言葉と共に吐き出した息が瞬時に白くなる。どれだけの間ここに閉じ込められていたんだ。一刻も早く助けないとリーンが凍死してしまう。
「待っていて、リーン。すぐ助ける」
偶然とはいえ、今日エレナが花の配達を依頼していたことを感謝する他ない。
鍵を持っているのはご当主だとすると、僕が頼んだところで鍵を開けてくれるとは思えない。
小さい頃はエレナとこの庭園を遊び場にしていたから、大体の構造はわかる。
裏手に回ると子どもの背丈ほどの高さに換気用の小窓がある。四〇センチ四方くらいで、本当に換気分しか開かないつくり。
リーンは年のわりに小柄だから、これを壊せばきっと出られる。
「リーン、窓から離れて」
「は、はい!」
腰に下げていたウエストバッグに差している選定ハサミを掴み、刃先を窓に叩きつける。
小気味いい音を立てて、ガラスに小さくヒビが入る。腕を大きく振った反動で体がかしいだ。右腕も健在なら、こんなものたやすく壊せるのに。
体勢を立て直し、ハサミをたたきつけることを繰り返すと、何度目かで粉々になった。
ハサミをしまい、欠片を取り除いて、屈んでリーンに呼び掛ける。
「リーン、欠片を踏まないようにここから出るんだ」
リーンは恐る恐る窓から身をのりだし、僕は左腕でリーンを受け止める。
「アスター、さん!」
「無事で良かった。怖かっただろう」
着ていたのは長袖のワンピースだけ。顔色は青白くて、抱きしめた体は冷えきっていた。僕のコートをリーンに羽織らせる。
「すぐお医者様のところに行くよ」
「うん」
氷みたいに冷たくなった小さな手が、僕の肩にしがみついた。
急ぎ庭園を抜けて、貴族街にある病院を目指す。途中で巡回の騎士とすれ違い、城内を警備しているはずのアーノルドに病院に来るよう伝えてほしいと言付けた。
医者に診せ、命に別状はないが体温が低下しているから体を温めるよう言われる。看護師がはちみつを入れたホットミルクを用意してくれた。それを少しずつ飲ませて、白いベッドに寝かせる。何枚も毛布をかけて、これ以上体温が下がらないようにする。
「すぐアーノルドとエレナが来るから。がんばって、リーン」
「うん。……アスターさん、ありがとう」
リーンはふわりと笑って、僕の手を握ったまま目を閉じる。穏やかな寝息が聞こえてきて、医者がリーンを起こさないよう小さな声で言う。
「よく見つけましたね。あと一〇分発見が遅かったら危なかった」
「……いいえ。偶然、用があって屋敷に行ったから」
安らかに眠るリーンの頭を撫でる。氷のようだった手はしだいに熱を取り戻し、赤みがさしている。
リーンは魔法を生まれ持つことができなかった。自分ではどうすることもできないことで、祖父からこんな目に遭わされる。幼い心はどれほど傷ついただろうと考え、切なくなった。
それからすぐ、仕事着のままのアーノルドとエレナが息を切らせて病室に駆けつけた。
リーンが無事だったことを泣いて喜び、同時にご当主への怒りを見せた。リーンは大事を取って一晩入院することになった。アーノルドとエレナは医者に頼んで、病室に泊まり込む。
繋がれた手をほどくのは気が引けて、僕も朝までリーンのそばにいることにした。
二人がご当主を殴り大喧嘩をしたと聞いたのは翌日の夜のこと。
リーンはこの日を境に、ご当主をおじいさまと呼ぶのをやめた。
✶✶✶
雪解けの季節がおとずれた。
日差しが暖かくよく晴れた朝。店頭に花のバケツを並べる。ただの桶だと片手で持てないため、僕が花屋になる際、おじいさまが左腕だけで持てる取っ手つきのものを特注してくれたのだ。
鉢植えの花の水やりをしていると、アーノルドがリーンを連れて遊びに来た。
「おはようアーノルド、リーン。もうすっかり良くなったみたいだね」
「おはようアスター。ああ。おかげさまでこの通りピンピンして走り回っているぞ。な、リーン」
「うん。私、元気!」
アーノルドの足元では、リーンがうさぎみたいにぴょんぴょん跳ねる。昨夜の雨でできた水溜まりがリーンの動きにあわせて波立つ。
一時は本当に危ない状態だったが、こんなふうに走り回れるほどに快復して本当に良かった。
マーズのご当主は孫を閉じ込め半殺しにしたことで、あのあと騎士団からかなりきつくしぼられたようだ。だが、悪かったと思っている様子は見て取れない。
お陰でしばらくの間エレナが凍てつく空気をまとっていて、話しかけるのも恐ろしかった。
「アスターさん、私も水あげるの手伝っていい?」
「ありがとう、リーン。花も喜ぶよ」
リーンはいそいそと、花壇のわきに用意されている自分専用じょうろを持ってくる。
最近はリーンが手伝いたがるから、子供サイズの小さいじょうろを置いている。ブリキ製でピンク色の染料が塗られたそれは、リーンのお気に入りだ。
鼻歌を歌いながらじょうろを左右に振っている。
あまりにも楽しそうで、アーノルドと僕は笑い出してしまう。
「ずいぶんさまになってるな、リーン。そんなに花屋の仕事が好きか」
「うん! 私、アスターさんのお嫁さんになるの。それでね、お花の仕事手伝うの!」
「あはは。僕にそんなこと言うのはリーンくらいだよ」
子どもゆえの憧れだろうけれど、貴族の暮らしを手離して西地区の花屋に嫁入りなんて、これまで言い出した人はいない。
どこぞの貴族令嬢から婚約話が持ち上がっても、花屋を辞めて城の書記官や高官に就くよう条件をつける者ばかり。
もちろん、僕は花屋であることを幸せに思っているから、好いてもいない女と結婚するために転職なんて考えたくもないし、丁重にお断りしてきた。
「まぁアスターなら安心だし、それもいいかもな」
アーノルドはけらけら笑ってリーンの頭を撫でる。
僕も深く考えないで、カウンターの花瓶から白薔薇を一輪抜き、ひざまずいてリーンに渡す。
「そうだね。リーンが大人になって、他に婚約したい人が見つからなかったらおいで」
「ほんと? わーい!約束よ、アスターさん。私が大人になったら、お嫁さんにしてね!」
リーンは薔薇を持ったまま、両手を広げてくるくる踊りだす。
「アスターさん、アスターさん、このお花すごくいいかおりね。なんていうの?」
「これは白薔薇。僕の故郷では大切な人に薔薇を贈るならわしがあるんだよ」
「えへへ。そっか。私、アスターさんの大切な人なのね」
無邪気な笑顔を向けられ、僕も自然と笑い返す。
このときの口約束がリーンの中にずっと残ることになるなんて、考えもしなかった。
✶✶✶
朝起きて温室の花の世話をして、店を開ける。昼前になるとリーンが遊びに来る。
そんなことが日常になり、五年が経った。
ノーゼンハイムの子どもは皆、身分に関係なく一〇才~一八才まで就学することになっている。リーンも例外ではない。
春風があたたかな入学式の朝、リーンは店に入って来るなり宣言した。
「みてみてアスターさん、私、今日から学生なの! 卒業したら私、アスターさんのお嫁さんになって、ここで一緒に働くの!」
他のお客さんもいたのに堂々のプロポーズ。
しばらくの間これをネタにご近所の方々にからかわれることになった。
それから毎日、リーンは学校が終わると鞄を持ったまま、脇目もふらず花屋に走って来る。
「リーン、友だちと遊ばなくていいの?」
「だってアスターさんといる方がいいもの。みーんな魔法のない貴族ってばかにするんだもの。嫌になっちゃう」
心配して声をかけると、リーンは小さな口を尖らせ、カウンターの脇に鞄を置いて愛用のじょうろを取る。
幼い子ども用だから、今のリーンが使うには小さいけれどこれがいいからと言って手離さない。
「そんなことより、今日は花言葉を教えてくれるんでしょ?」
「全くもう。君って子は……」
学校の友だちと過ごすより僕といることを選ぶ。はたしてこれはリーンのためになるだろうか。まわりの人間は、級友たちと遊ぶより足しげく花屋に通うことを優先するリーンをどんな目で見るだろう。
花言葉を教えながら、頭のどこかで考える。
「ねぇリーン。級友と毎日机を並べて話せるのって、学生のうちだけだよ。だから、みんなといられる時間を大事にしなきゃだめだよ」
「えー……。でも父様と母様は、卒業してもずっとアスターさんと友だちでいるじゃない。ウルさんとビオラさんも父様とご飯食べたりお仕事の話したり」
「ああ。なるほど。僕たちを見て育ったからこそ、そんなことを考えちゃうわけだ」
僕ではなく、その両親に説得してもらうしかなさそうだ。
その夜、アーノルドたちとウル、ビオラ五人で飲む約束があったからこの事を相談した。
話を聞くなり、アーノルドとエレナが声をあげて笑いだした。真剣な顔をして聞いていたはずのウルとビオラも、笑いをこらえるのに必死になっている。
「ちょっと……アーノルド、エレナも。自分の娘のことなのに何笑っているのさ!」
「いやぁー、悪い悪い。お前すんげぇ真剣な顔で『折り入って相談したいことがある』なーんて言うから、何事かと思ったぜ。でも心配ねぇよ。リーンは人懐っこいから、夏休みに入る頃には友達がたくさんできてるさ」
学生時代そうだったように、隣に座るアーノルドは痛いくらいバンバン僕の肩を叩いて笑い転げる。エレナも持っていたシャンパングラスをそっとテーブルに置いて、聞き分けのない子どもを諭すように言う。
「リーンが自分の口から『友だちができなくて困る』って私たちに相談してきたら一緒に考えるべきだと思うけど。それに、友だちは自然と仲良くなるもので、無理やりなるものではないでしょ?」
「それは……そうなんだけど」
両親でなく、僕の方がリーンの将来について悩むっておかしいんじゃないか。
一杯しか飲んでないのに酔いが回ったのか、テーブルをはさんで向かいに座るビオラが頬杖をついてしまりない顔をしている。
「うふふふ。兄様ってばアイリーンちゃんの事、とーっても大事なのね~。ねぇ。ウル」
「本当にね。兄さんが取り乱すなんて珍しいよね、ビオラ」
ウルもビオラとよく似た笑いを浮かべて、金色の瞳を細めて僕の肩をつつく。
「そんなに心配なら、もういっそ兄さんがアイリーンちゃんを嫁にもらいなよ。薔薇を渡してプロポーズしたんでしょ?」
「……からかわないでくれ」
リーンが四才のときの話じゃないか。子どもの夢を壊したくないからああ言っただけなのに、数年語り継がれる酒の肴にされるとは夢にも思わなかった。
グラスに注がれた赤ワインを飲み干し、僕は席を立った。
「もう帰るのか?」
「ああ。明日も早くに配達があるし、早めに横になることにする。またね、みんな」
アーノルドの声に片手をあげ、自分が飲んだ分テーブルに置いて店を出る。
本当はこのままいると早く好い人を見つけて結婚しろとせっつかれそうで面倒だからだが、あえて口にはしない。
店に帰り、戸締まりをして、着替えるのも億劫ですぐベッドに横になる。
僕のところに来るより友だちと過ごした方がいい。
その言葉に偽りはない。なのに、なぜみんなは僕をからかって遊ぶのか。
そんなことを考え、いつの間にか深い眠りに落ちていた。
✶✶✶
あれから数年。リーンは僕の言うことを少しだけ理解してくれたのか、前より級友と過ごす時間を作るようになったようだ。
日が傾いてきた頃、花の配達に出た。
最近は日中日差しが強くて気温が上がるから、花たちがバテてしまう。それに、依頼主も日中仕事の人が多いから夕方の方が都合がいい。
校門の前を通ったとき、リーンが玄関で同世代の女の子たちと話をしているのが見えた。そうか、学校も放課の時間だ。
嫌いな人と話すような作り笑いでなく、心から楽しそうな表情だ。
「よかった。友だちとうまくやっているようだね」
《フフフ~。アスターってば。本当はリーンちゃんに構ってほしいの? そんなに会いたいならデートに誘いなさいよ》
「なっ……」
腕に抱えていた赤薔薇の花束がいじわるく笑う。
声は花の魔法使いである僕にしか聞こえない。反論しようとして、慌てて口を閉ざす。はたから見れば独り言でしかないから、迂闊に声に出せない。
(そんなことは断じてないから。からかわないでくれ)
まだ聞こえる、からかうような笑い声に心の中で反論して配達先に向かう。
学校近くにある民家で独り暮らししている女性だ。
僕が花屋になって以来、毎月花を買ってくれる。それも決まって赤薔薇を。
茶色いレンガ造り赤い屋根の家、依頼主の女性は玄関先に立って手を振っている。
「お待たせいたしました。ご注文いただいていた赤薔薇四本です」
「いつもありがとう、アスターさん」
「いいえ。こちらこそ。あなたは薔薇が好きなんですね」
女性は花を抱き締めてうつむき、寂しそうに自分の左手を見つめる。
「ええ。元々は……彼が好きだったから、わたしも花が好きになったの。戦争から帰ったら結婚式をって、約束していたの」
僕と年の変わらない女性の左手薬指には指輪が光る。
『だった』『約束していた』過去系で語られる短い言葉で、彼はもう亡き人なのだとわかる。
亡き婚約者への想いが、今もこの女性の中にある。
僕も戦場に立ち、多くの仲間が失われるのを見てきたから、上っ面の慰めの言葉なんて出てこない。
みんな必死に、大切な人のために戦った。ひとつ違えば、故人となるのは僕だったかもしれないんだ。
「あれ、アスターさん?」
後ろから聞きなれた声が聞こえ、振り返ると学生鞄をさげたリーンがいた。
僕と女性を……正確には女性が抱えた花束を見比べて顔をこわばらせた。
「やぁリーン。もう帰りかい?」
声をかけたけれど、リーンは目に涙をため、口をぐっと引き結んで何も言わず駆け出した。
「どうしたんだろう。リーンらしくない」
《……あなたが恋人に薔薇を贈ったと勘違いしちゃったんじゃない? リーンはアスターのこと大好きだって公言してるじゃない。追いかけて誤解だって言ってあげた方がいいんじゃない?》
赤薔薇が心配そうに呟く。小さい頃はお嫁さんになりたいなんて言っていたけれど、今もそうなんて。
だってあれから一〇年は経っている。年近い誰かに憧れたり、恋をしていたっておかしくはない。
僕とリーンは婚約者でも恋人でもない。友人の娘、それだけのはずだ。誤解だって言って、なんになる。
そう思うのに、僕はいつの間にか走り出していた。
小さい頃からずっと、『アスターさんのお嫁さんになる!』と言ってきたリーンには、誤解とはいえ辛いことだ。
「すみません、ちょっと失礼します!」
女性に会釈してリーンを追う。
「リーン!」
呼んでもリーンは振り返らない。脇目もふらず走り、レンガ道のくぼみに足をとられて転んだ。
「大丈夫、怪我はない!?」
すぐにかけよってリーンのそばに屈む。
スカートが擦りきれ、そこから血がにじんだ膝がのぞいている。
ハンカチをリーンに差し出すと、リーンの手の甲に雫が落ちた。
「なんで言ってくれなかったの。店に来ない方がいいって、ほんとは、恋人がいたからなの? ……私、アスターさんの邪魔をしていたのね。ばかみたい」
それが勘違いからくる言葉とはいえ、リーンの泣き顔は胸に刺さった。
リーンは袖で涙を拭い、唇をかんで立ち上がると、一度も僕を見ることなく走り去った。
✶✶✶
誤解を解くことのできないまま一週間経った。
これまでほぼ毎日来ていたのに、リーンは一度も店に顔を出さない。
さすがにアーノルドとエレナも、リーンの変化を疑問に思ったようで、僕にもあれこれ聞いてきた。
常連の女性に花の配達していたところを見られて、恋仲だと勘違いされたと話したら、いかにもリーンらしいと苦笑していた。
「ふぅ。これで一通り終わったかな」
今日も日の出前に温室の水やりを終えて一息つく。
店頭に並べる花は夏の花が増えてきた。
もうすぐアガパンサスとヒマワリを店頭に並べられるだろう。数日中につぼみが開きそうだ。
あとは注文を受けていた分の薔薇も花束にしないと。
《元気ないね、アスター。寝てないんじゃない? 顔色もよくないし、ここ最近ずっと無理して笑っているね》
「そんなことないよ」
じょうろの雨を浴びた白薔薇がふわりと揺れる。
温室に来るのは僕だけ。だから気兼ねなく花の声に応える。
《みんなは騙せてもわたしたちは騙されないわよ。わたしたちはあなたを毎日見ているんだから。リーンに逢えないのがそんなに寂しいの?》
「そうじゃない。ただの憧れをずっと引きずっていたら、リーンは本当に好きな人を探せなくなってしまう。これでよかったんじゃないかと思うよ」
僕への憧れをたちきれば、リーンは年相応に、見合う人を見つけられる。
薔薇は聞き分けのない子を叱るように、葉をそよがせて僕を叱責する。
《アスター。そんなもっともらしいことを言って自分を納得させても、リーンの想いはリーンのものよ。もしリーンが、憧れでなく本当に貴方のことを愛していると言ったら、どうする?》
「そんな、こと……」
わからない。
花たちの言うように、リーンの気持ちはリーンにしかわからない。
でも、僕は……僕の気持ちがわからない。
リーンを遠ざけようとしたくせに、いざこうして離れると胸が苦しい。
視界がぐらりと大きく揺れた。
《アスター!!》
リン、と店の扉を開けるベルの音がする。
お客さんだ。早く、行かないと。
じょうろが転がって水が散る。
ガラス張りの天井が遠くなる。
「アスターさん!」
意識を失う直前、よく馴染んだ、聞きたかった声が聞こえた気がした。
見慣れた部屋が目に入った。
整然と並ぶ本、年期の入った机と椅子。
僕は自室のベッドで横になっていた。
窓が開いていて、風がカーテンを踊らせる。日はとうに沈んで夜になっていた。
おかしいな。花の手入れをしていたはずなのに。ぼんやりと、サイドテーブルに置かれたランタンの光を眺めて記憶をたどる。
体を起こそうとして、額から湿り気のあるタオルが落ちた。拾おうとして、誰かに手を握られていると気づいた。
「……リーン?」
リーンが僕の左手を握ったまま、ベッドに上半身を預けるようにして眠っていた。
華奢な肩には毛布がかけてある。
ゆっくり階段をのぼる足音が聞こえ、湯気の立つ深皿をトレーにのせた母が扉を開けた。
「起きたわね、アスター。覚えてないでしょうけど、あなた過労で倒れたのよ。お医者様を呼んでくれたリーンちゃんに感謝しなさいね」
「医者? リーンが」
「そう。今朝リーンちゃんが、扉を蹴破る勢いで職員室に駆け込んで来てね、『お店に行ったら隣の温室でアスターさんが倒れてた』って。私とスイレンも驚いたわよ~。詳しく聞こうとしたら『お医者さんを待たせてるから』ってすぐにいなくなっちゃって、それからずっとここに」
言いながら手のひらでリーンを示す。
まさか授業に出ないでずっとここにいたのか。
このタオルもリーンが用意してくれたんだろう。リーンの薄手のブラウスの袖がしっとりと湿っていた。
「リゾットを作ったから。食べれそうなら、一口でもいいから食べなさい」
「ありがとう。助かるよ」
さすが夫婦揃って教師なだけあり、面倒見がいい。
母は机にトレーを置き、リーンに握られたままの僕の手を見てクスクス笑う。
「お邪魔しちゃ悪いから、私はもう帰るわね。配達はウルとアーノルドくんがかわりにやっておいてくれたから、後でお礼を言うのよ」
「ちょ、お邪魔って!」
静かな音をたて扉が閉じられる。
お邪魔でもなんでもない。言いたくても、繋がれたこの手をほどく気になれないのも事実。
「う……あれ。アスターさん!よかった。目が覚めたのね」
リーンは何回か瞬きして、花が咲くような柔らかい笑顔を見せた。
「ありがとう。リーンがお医者様を呼んでくれたおかげで、だいぶ良くなったみたいだ。ずっとここにいてくれたんだね」
「うん。目が覚めたとき、隣に誰かいてくれるとすごく安心するの。……覚えているかな。アスターさん、私が小さい頃、納屋に閉じ込められたとき助けてくれたでしょ」
もちろん覚えている。アーノルドとエレナが本気でキレたのはあとにも先にもあれくらいだ。
僕も他人でないなら顔面に一発拳を入れたかった。
リーンは両手で僕の手を包み、まっすぐ僕を見つめる。
「あのとき、一晩そばにいてくれて、すごく嬉しかったの。ご当主さまは魔法がない子だから死んでもかまわないって言ったけど、アスターさんは大切にしてくれる。私、生きていていいんだって思えたの」
あのときはただ必死だったから、リーンがそんな風にとらえていたなんて知らなかった。
青空を映したような透き通った瞳にとらわれる。
「私のためにかわいいじょうろを用意してくれたり、花の名前を教えてくれたり、本を読んでくれたり。アスターさんにとって恋じゃなかったとしても、あなたのそばにいられることが嬉しいの」
嘘偽りのない、純粋な愛情がそこにある。
僕を慕うのは子ども故の憧れにすぎないだろうなんて、思っていたのに。
そうじゃなかった。リーンはあの頃から変わらず、僕を選んでいる。傷つけてしまったのにこうしてそばにいてくれる。
目が熱くなり、ほほが濡れる。
無邪気に笑うリーンを引き寄せ、強く抱きしめた。
✶✶✶
それから三年……現在に至る。
リーンの宿題を手伝い、マーズの屋敷まで送る。
ちょうどアーノルドの仕事が終わったばかりのタイミングで、騎士制服姿のまま僕を出迎えた。
「アスター、ちょうどよかった。頼みたいことがあるんだ。こっち来てくれないか」
言われるまま、マーズ家の書斎に向かう。
埃こそ被っていないけれど並べられただけの本が本棚を埋め尽くしている。
もともとここはご当主の書斎だったが、彼は二年前に病で他界した。
現在はアーノルドがマーズ家現当主であり、この部屋の主だ。
応接テーブルに促され、アーノルドの隣に座って横顔を窺う。
「アスター、お前だけが頼りなんだ。頼む」
アーノルドが珍しく真面目な顔で、上着のうちポケットから取り出したのは来週末にノーゼンハイム城で行われる舞踏会の招待状だ。
封筒の宛名はアーノルド・マーズ様。せっかく上質な封書なのに、封蝋が手で乱雑に破かれている。
いい加減ハサミかペーパーナイフを使うことを覚えた方がいいんじゃないか、と何度注意したってアーノルドは『ハサミを探すのが面倒だ』と手で破く。めんどうくさがりもここまで来ると立派に思える。
付き合いが長いから、アーノルドが何を頼みたいのか、この時点で察してしまった。
「招待されたのはアーノルドだよね」
「あいにく俺とエレナは仕事なんだ。ほとんどの貴族の騎士が抜けるから、俺の隊も警備に回らなきゃで。お前の家はスイレン先生とローズ先生が出るだろ。だから……」
「だから、僕にリーンのパートナーとして出席して欲しい。そういうこと?」
家の誰かが出席しなければならない。先代当主亡き今、アーノルドとエレナが出席できないなら必然的に一人娘のリーンが出席することになる。
「舞踏会に出たことがないリーンを一人で放り込むわけにもいかないだろ。な。頼むよ。アスターなら場馴れしてるし、リーンも心強い。お前、リーンに一人で舞踏会に行けなんて言えるか? パートナーがいないんじゃ恥をかくことになるし」
両手をあわせて拝み倒される。
本当に仕事だろうかという疑問がわく。だいぶ冷めてきた紅茶を一口、喉を潤してからそれとなく確かめてみる。
「アーノルド、気づいているかい。君は昔から後ろめたいことがあると口数が多くなる。僕をリーンのパートナーにするのは、何か他に目的があるんじゃない?」
「うっ……なぜばれ……。ゴホン。いや、で、でも、仕事なのは本当だぞ。うん」
アーノルドはわざとらしく咳払いして、不自然な角度で僕から視線をそらす。
さすが父娘。どうでもいい癖まで似ている。
まあ、リーンを一人で悪意の飛び交うあの場所に放り込むわけにはいかない、というのは同意できるから、ここは素直に協力しよう。
いずれは夫となる人と来なければならないのだから、リーンも社交界や他家の面々を知っておく必要はある。
「わかったよ。じゃあ開場三〇分前に迎えに来る。リーンにもそう伝えておいて」
「ありがとな。恩に着る」
「いいよ。君たちとは長い付き合いだから今さらさ」
軽く手を振って書斎を出る。
「あー、アスターさん。もう帰っちゃうの?」
部屋着に着替えたリーンが走ってきた。乾ききっていない髪がほほにはりついて、いつもと違う雰囲気がある。リーンが動くたびにほのかな石鹸の香りがする。
「ああ。明日も仕事だからね」
「そっかぁ……」
残念そうに肩を落とす姿が可愛らしい。僕にパートナーを頼むということはリーンにまだ婚約者が決まっていないという証拠。魔法を使えないとはいえ、その身に流れるのは間違いなく貴族の血。家柄は悪くないし、あと五年もすれば幼さもぬけて美女の部類に入るだろう。
「来週、舞踏会に出るんでしょ」
「あ、えと。……うん」
リーンは自信なさげにうつむいて、肩にかかる栗毛を指先でいじる。捨てられた子犬のような目をしてチラチラ僕を見上げてくる。
ついてきてほしいと、言葉にしなくても伝わってくる。この子は普段は言いたいことをすぐ口にするのに、本当に困っているときは変に遠慮するんだ。ほうっておくなんてできるはずもない。
「僕がパートナーになるから。安心して」
「ほんと? よかった。アスターさんがいてくれるなら、私がんばる!」
さっきまで落ち込んでいたのに、急に顔をあげて目を輝かせる。ここまで信頼されているなんて、なんだかこそばゆい気持ちになる。
このままリーンの婚約者が決まらなければ、ずっと僕を頼ってくれるのに、なんて酷いことを考えてしまった。
約束の日、夕方の六時にリーンを迎えに行った。
日頃礼服なんて着ないから、袖を通しているだけで肩がこる。
客間で待つこと十分。
リーンはメイドに背中を押されて客間に入ってきた。
「アスターさん、迎えに来てくれてありがとう」
薔薇のレースを重ねたプリンセスラインのドレスだ。夜明けの空のような紫で、腰に花を模した飾りがついている。花の刺繍が施された薄手の手袋もリーンの白さを引き立てる。
いつの間にか、こんなドレスが似合うほど大人になっていたんだ。胸が熱くなる。
「……綺麗だね。リーンに似合っている」
「ほ、ほんと? よかった。アスターさんがそう言ってくれただけで、着た甲斐があるわ」
もっと気のきいたことを言えればよかったのに、月並みな言葉しか出てこなかった。
今日のリーンはドレスのせいだけでなく、普段より大人っぽい。
そっと左腕を出すとリーンは戸惑い、顔を紅潮させた。
ためらいながらも、そっと僕の腕に手を絡めた。
思えばこんな形で触れあったことはない。
リーンの緊張がうつったのか、なぜか僕も落ち着かなくなる。
いつもは学校であったことなんかを聞かなくてもとりとめなく話してくれるのに、黙って城への道のりを歩き、時折僕を見上げる。
「今日は口数が少ないね」
「だ、だって、その。アスターさん、普段と違うから」
「礼装は花壇の手入れをするのに向いてないからね」
「ふふふ、それもそうよね。花屋からドレスやタキシードの店員さんが出てきたら驚いちゃうもの」
想像してみたのか、リーンが口許に手を当てて笑いだす。
よかった。いつものリーンに戻った。
城門の警備をしていた騎士はやはりというかなんというか、アーノルドだった。もっともらしい顔で招待状を確認して、敬礼してくる。
「ようこそおいでくださいました。招待状はしかと確認いたしました。マーズのお嬢様とお連れ様。ようこそ舞踏会へ~」
僕がパートナーとして来るように謀った張本人のくせにニヤニヤ笑っている。
「アーノルドがここにいるってことは、エレナは楽士として参加しているのかな」
「舞踏会に音楽はつきものだろ。お前は働きすぎだからたまには休めよ」
「休めと言った口で舞踏会に出ろって、言っていることとやっていることが違うじゃないか」
「じゃあ帰るか? リーン一人だけ舞踏会に残して?」
「そんなこと言ってないだろ」
悪びれず笑ってくれちゃう幼なじみに手刀をいれ、リーンをエスコートする。
リーンは赤い絨毯が敷かれたノーゼンハイム城の廊下を物珍しそうに見回す。ワルツの流れる開場に入って目を大きく見開いた。
光魔法で輝くシャンデリア、色とりどりのドレスを着た貴婦人たちがパートナーと踊っている。どこぞの家のご当主たちが、談笑とは名ばかりの腹の探りあいをしている。
「すごい。……あ、母様! いつもこんな風にお仕事しているのね。なんだか新鮮」
楽士の中にエレナがいて、リーンが小さく手を振るとバイオリンを弾きながらウィンクを返した。
壁際には僕の両親の姿もある。母が僕とリーンを見て意味ありげな笑顔を向けてくる。
リーンは踊る人たちを見て目を輝かせている。
「すまない、リーン。本当は最低一曲踊ることになっているんだけど、僕は右腕がこうだからね。いつもテラスで町の景色を眺めて過ごしているんだ」
「じゃあ私も踊らなくていいわ。あ! あそこのテラスね」
リーンがいつもの調子で鼻歌を歌いながらスキップしようとしてドレスの裾を踏んでこけた。
「リーン!」
とっさに手を伸ばして抱き止める。
「走っちゃダメだよ、今はハイヒールな上にドレスなんだから。気をつけて」
「……は、はい……」
やけに素直というか、大人しい。やっぱり今日のリーンはいつもと違う。
「あの、わ、私、飲み物もらってくる!」
慌てて僕から離れ、リーンは足早に立食スペースに向かった。
リーンが僕から離れたのを見計らって、父が話しかけてきた。
「アスター。どうだ、アイリーンのパートナーとして出席した感想は」
「別に、いつも通りですよ」
生徒たちから鬼教師と恐れられている硝子片のような作りの鋭い目元。やや長めの金髪で右目を隠している。表情の変化が乏しいため、何を考えているのか読み取りにくい。
「いつも通り、ね。自分のことには鈍感なんだから」
母までも遠回しに何か言わんとしている。僕の何が鈍感というのか。
言い返そうとしたそのとき、急に流れていたワルツが止まり、リーンの悲鳴が聞こえた。
僕よりやや背の高い楽士の青年が、リーンの肩に手を回していた。
肩につく長さの金髪、海を思わせる青い瞳。鼻筋が通っていて、男でも目を見張るほどに美麗な作りだ。
青年の動作のひとつひとつから、自分の容姿が人目を引くとわかっているのがうかがえた。
なめるような視線でリーンの頭から爪先まで眺め、ドレスの開いた胸元を見て、好色そうな笑みを浮かべる。
「お嬢ちゃんなかなかいいね。よかったらこのあとボクの部屋に来ない?歌をたくさん聞かせてあげる。なんなら、君が歌ってくれてもいいけど」
「離してください。困ります!」
リーンは青年の手を振りほどこうとするが、楽士とはいえ相手は成人の男。武術の心得もない少女がかなうはずもない。
気づけば僕は二人の間に割って入り、男を振り払ってリーンを抱き寄せていた。
「この子に手を出さないでもらえないか。僕のパートナーなんだ」
「アスターさん!」
リーンの顔に安堵の色が浮かぶ。
「あーらら。あんたこの子のお父さん? それは済まないことをしたねぇ」
男はからかうように言って、すぐに持ち場に戻っていった。
確かに僕は年齢から言えばリーンの父親と……アーノルドと同じ。二十三も年が違えば端から見れば親子だろう。当たり前の事なのに、胸が痛みでうずいた。
「アスターさん、アスターさん」
リーンが僕の腰に抱きつく。声が不安にゆれ、腰に回された手も震えていた。
僕がいるから大丈夫。安心させたくて、幼い頃そうしていたように、くるくる癖のある栗毛を指ですく。
何度も頭を撫でると、服を通して伝わるリーンの鼓動がだんだん落ち着いてきた。
「リーン、大丈夫かい?」
「うん。……ありがとう、アスターさん」
笑顔を作ろうとがんばって顔色はまだあまりよくない。
ククッ、と嘲りを含んだ笑いが、ワインを嗜んでいた老婦人たちの間から聞こえてくる。
「マーズ家も堕ちたものね。魔法も使えないあんな弱い子が跡取りなんて」
「お似合いじゃない。片腕のない元騎士なんて役立たずでしょ。四〇にもなっていまだに浮いた話ひとつ無いそうじゃない」
僕のことはどう言おうと構わないが、なぜリーンが嗤われなければならない。人目がななければこんな奴らぶん殴ってやるのに。
リーンがいる前で暴力なんてふるえない。怒りを必死に堪える。
「しかも汚らわしい庶民に混じって花売りをしているんでしょ。おかわい……」
婦人たちの笑い声が不自然に途切れた。
「ふざけんじゃないわよ!」
リーンが、老婦人たちが持っていた赤ワインのグラスをひったくり、陰口を叩いていた老婦人にかけたのだ。
空になったグラスを投げ捨てて、リーンは声を荒らげる。
「アスターさんを悪く言ったら私が許さないんだから!」
魔法が使えないか弱い女の子。
なのに、自分よりはるかに優位にたつ魔法使いの女に立ち向かった。
他の誰でもない、僕のために。
「まぁ! 魔法も使えない雑草の分際で生意気な!」
婦人はワイン色に染まったドレスを掴み、わなわなと震えながら黒い目をつり上げた。
このままだと怒りに任せて魔法を暴発させる。この婦人はいつもそう。他の貴族に喧嘩を売っては魔法合戦になる。
「まずい。逃げるよ、リーン」
「え、なんで逃げるのよアスターさん!!」
老婦人が次の言葉を発する前に、僕はリーンの手を取って急ぎパーティー会場をあとにした。
城を出て街灯がポツポツと灯る道を抜け、貴族の屋敷が建ち並ぶ区画までかける。
「はぁ、はぁ、はぁ、アスター、さん! まっ、まって」
リーンが荒い呼吸を繰り返し、僕の腕にすがり付く。
着ているジャケットは夏だからそんなに生地が厚くない。リーンのドレスも貴族にしては華美ではない。布越しでも体のラインと柔らかさがわかる。
リーンはもう一七才。あと二年で学校を卒業して、大人と同じように働くようになる。
婚約者が決まれば卒業と同時に嫁ぐ。人によっては在学中に結婚することもある。
貴族の娘である以上、リーンがそういう目で見られることだってあると、わかっていたのに。
リーンに言い寄った楽士の青年、彼がもし貴族なら、年齢差もさほどないしリーンの相手として喜ばれた事だろう。
この子に触れさせたくないと、婚約者でもないのに勝手な独占欲で行動してしまった。
「全く、あのおばさんなんなの。アスターのことなにも知らないくせにあんなこと言うなんて。もう!」
リーンと口論になったあの婦人は炎魔法士。一歩間違えばリーンは黒こげにされていた。その事をわかっているのかいないのか、リーンは膨れっ面になる。放っておいたら何回でも同じことをしそうで怖い。
「ありがとう、リーン。僕のために怒ってくれて。でも、お願いだから、次に僕のことをどうこう言われても、知らないふりをしていて。リーンに危ないことをしてほしくない」
「なんで? アスターさん、あんなこと言われても平気なの?」
「……僕は戦争で右腕を無くしたときから、もう二〇年も言われているから。慣れたよ」
そう。慣れたということにしておかないとやりきれない。いくら耳を塞いだってああいう雑音は入ってくる。
「慣れちゃダメよ。苦しいなら苦しいって、辛いって言わなきゃ。私は、アスターさんのこと悪く言われたら悲しいわ」
自分だって暴言を吐かれたのに、僕が悪く言われたことに怒り泣き出してしまう。リーンの華奢な背を撫でる。
君が好きだ。伴侶として共に生きてほしい。そう言えたならどんなに良かっただろう。
さっきの青年の言葉が耳に残る。僕たちは二十三も年が離れている。
年近ければお父さんなんて言われないし、並んだときに伴侶だと、思ってもらえたかもしれないのに。
この世界は魔法が使える人間こそが貴いという風潮がある。
でも、この時リーンが流した涙は、どんな魔法よりも貴く思えた。
それから一月経った夏の終わりのこと。
店が休みの日、久々にエレナとウルが休みが重なったということで、馴染みの喫茶店でお茶を飲んでいる時だった。
「リーンの婚約が決まったの。だからアスター、ブーケをお願いできるかしら。リーンにぴったりの、最高にかわいいのを作ってね」
エレナがアイスティーのグラスを片手に、天気の話でもするように、さらりと言った。
それはまさに晴天の霹靂。
「ケホッ」
あまりに突然のことに、飲んでいた紅茶が気管に入った。
「兄さん、大丈夫?」
「だ、大丈夫」
ハンカチで口を拭って息を落ちつける。聞き間違いでなければ、エレナは今、リーンが婚約したって言ったか。
「おめでとう。よかったね、エレナさん。なかなかアイリーンちゃんの婚約者が決まらないって嘆いていたものね。相手はどんな人? 式はいつ?」
「先月、あちらのご両親から、ぜひうちの息子をってお話があってね。舞踏会でリーンを見て気に入ってくださったんですって。リーンもその息子さんが望んでくれるならって、受けることにしたの」
「そ、そう」
ウルのように心から祝福の言葉が出ない。
ぜひリーンをと言ってくれる人がいて、リーンもその申し出を受け入れた。
なら、何も問題ないじゃないか。和やかな二人の会話も、あまり頭に入ってこない。
リーンは今朝店に顔を見せたときには何も言っていなかった。それなりに長い付き合いなんだから、リーンの性格を考えたら僕に一言くらい言ってくれるんじゃないか、なんて。
勝手すぎる自分の考えに嫌気がさした。
リーンに好意を向けられても応えようとしなかったのは僕なのに。
リーンが夫にしたいと想える人と巡り会えたなら良かったじゃないか。
「あ、そうだ。父さんたちから兄さんに伝言。このあと屋敷に顔を出して欲しいって。話したいことがあるんだって。同じ城下町に住んでいるのにあまり顔を見せてくれないって、母さん寂しがっていたよ」
ウルが話をふってきて、慌てて合わせる。
「……ああ、そうだね。たまには帰ろうか。おじいさまたちにも会いたいし」
「そう思うならもう少しこまめに帰ろうよ」
「はいはい」
実家を出て一人暮らしをはじめて二〇年。
四〇になる今も独り身を貫いているのだから、自然と話の内容も想いを寄せる娘はいないのか、結婚を考えている相手は、というお節介なものになってくる。
今日帰ってきなさいというのも、そういう探りをいれる話だろう。
心配してくれるのはありがたいけど……正直気が進まない。
どうしたものか。断り文句を考え、ため息と共に紅茶を飲み込む。
その夜。屋敷に帰った僕に両親が切りだした。
お前の婚約者を決めた、と。
婚約話を聞かされたあと、僕は何年ぶりか自分の部屋で休んでいた。
部屋の主がほとんど帰らないというのに、掃除が行き届いている。手を伸ばした本棚には、幼い頃何度も父に読んでとせがんだ絵本が入っていた。
「懐かしい。そういえばリーンも、小さい頃はよくこの絵本を読んでって言っていたな」
『勇者さまと神子さまの冒険』は、魔法を打ち消す剣を持った勇者さまと、魔法使いの頂点である神子さまが力を合わせ、世界を襲う悪魔に立ち向かうという童話だ。
僕の膝に乗り、目をキラキラさせて話に聞き入るリーンを思い出す。
控えめなノックが聞こえ、返事をするとビオラが入ってきた。
「父様から聞いたわ。婚約の話がきたんでしょ。どうするの?」
「……花屋を続けても構わないなんて、えらく奇特な求婚者もいたんだね」
花屋を続けたいという僕の希望を聞き入れてくれる以上、これまで使ってきた「転職したくないからお断り」という断り文句が使えなくなってしまった。
「名前は聞いてないけど、もうその人でもいいんじゃないかな。リーンも婚約者が決まったことだし、僕も身を固めようか。約束は、“リーンが大人になっても他に結婚したい人ができなかったら”だからね」
そんな気はなかったのに、思った以上になげやりな声音となって発せられた。
花屋を続けるという目的が達成できるなら、相手が僕を家柄で選んでいようとどうでもいい。
うちは例外だが、貴族にとって利害が一致するから結婚するというのはよくある話。
僕も例にもれず、数多の貴族と同じというだけのことだ。
パシンと乾いた音が部屋に響いた。
ほほに痛みを感じ、ビオラに叩かれたのだとわかった。ビオラは唇を噛み、目に涙を浮かべる。
「らしくないこと言わないでよ。兄様はいつだって、誰かの幸せを願っている。でも、自分の幸せを願ったことはある? 好きな人の隣にいたいって思わないの? どうして自分を大切にしないのよ!」
「……そんなこと」
「そんなことあるの。昔から自分のことないがしろにしすぎよ。お願いだから、自分の気持ちに素直に生きてよ」
ビオラが僕のシャツを掴んで声を荒らげる。
返す言葉もなく黙っていると、小さな声で「叩いてごめんなさい」と言って部屋を出ていった。
やがて足音も聞こえなくなる。
窓を開けるとぬるい風が吹き込んできた。花壇のなかからは花の声だけでなく、虫の合奏が聞こえてくる。
自然の声に耳を傾け、窓枠に腰かける。
リーンのために離れよう。そう思っていた。けれど、本当は全部全部、リーンのためじゃない。
言い訳は全部──僕のため。
自分が傷つきたくないから、拒絶されたくないから、リーンがいつか離れてしまうのが怖いから。
いつか年近い男に惹かれるようになるだろう。そうしたら僕に勝ち目なんてないじゃないか。
なんて浅ましい男なんだろう。
自分が愚かで滑稽で、どうしようもない馬鹿に思えて泣きたくなった。
翌日から、リーンが店に来なくなった。
花の手入れをしている間もぼんやりしてしまい、何度も花たちに指摘されてしまう。
これまで満足していた日常が色あせて、味気なく感じる。
簡単な朝食のあと、気づけばいつもの調子で二人分のティーセットを用意していた。
リーンの好きな、熱めのはちみつレモンティー。
この時間はいつも、リーンが学校に行く前お茶を飲みにきていた。
そして今日どんな授業があるとか、花のこととか、ささやかなことを話した。
向かいに座る人はいない。空っぽの席を見て、赤茶の液体に口をつけてため息がもれる。
「……もう一週間、か……」
三年前にも一度、リーンがあらぬ誤解して来なくなった事があるけれど、今回は事情が違う。
婚約者ができたなら、僕に会う理由もないだろう。そしてもう来ることはない。
いつだって、リーンが僕に会いに来るのであって、僕から会いに行ったことはなかったんだ。
会いに行こうと思えばいつだって行けたのに。
甘いお茶を飲んでいるはずなのに、ひどく苦い煎じ薬を飲まされたような気分になる。
カラン、と来客を告げるドアベルが鳴った。
急いで店に出ると、扉を開けたのはアーノルドだった。騎士制服に身を包んでいるところから、出勤前なのがわかる。
「はは。リーンじゃなくて残念だったな。悪いけど、ブーケの試作をお願いできるか? 当日までにはリーンが気に入るものを用意したいんだ」
「わかった」
アーノルド曰く、ウェディングドレスを作るために仕立て屋を呼んだり花嫁修行させたり、色々と忙しくなるから。しばらくはこないと思う、なんてすました顔で言う。
一ヶ月後の夏休み最終日にリーンの結婚式が行われることになったとも。
「リーンは大きな結婚式場でなくていい、式はうちの屋敷の庭園で、お互いの親族と親しい人だけでしたいって言うから。……もちろんお前も出席するんだからな」
「……そう、だね」
「それと、ブーケはお前が婚約者なら何を贈りたいか、で選んでくれ。俺じゃリーンの好みはわからんし、アスターなら普段一緒にいるから俺よりリーンの好きな花がわかるだろ」
「アーノルド。……正気?」
僕なら婚約者に横恋慕している男が作ったブーケなんて、絶対に持たせたくない。
おそらくは僕の気持ちにもとっくに気がついているのに。
アーノルドの顔色を窺うと、アーノルドはニヤニヤした笑みを崩さず続ける。
「それじゃ、俺はこれから仕事だから。夕方までに届けてくれ」
「ちょっと待ってよ、アーノルド!」
追求する前に、アーノルドはさっさと出ていってしまった。まったく、人の話を聞かないんだから。
まあいい。今日は他に配達もないから最優先でブーケを作ろう。
温室に入り、白薔薇に話しかける。
「リーンのためのブーケを作りたいんだ。君たちなら、リーンにふさわしいから」
《もちろんさ。アスターが望むなら、わたしたちはいつだって力になるよ。ちゃんと、アスターの気持ちを伝えるんだよ》
「……うん。ありがとう」
お礼を言って、丁寧に剪定していく。
リーンに最初に贈ったのは白薔薇だった。まだ幼いリーンが僕のお嫁さんになりたいと言って、僕はリーンに白薔薇を贈った。
本当に、純粋な子だ。
あの他愛ない約束をずっと覚えていたんだから。
毎日毎日、足しげく僕のもとにやって来て、僕もリーンに会えるのが楽しみになった。
舞踏会で僕を守ろうと必死になる姿が愛しいと思った。
その優しさに、強さに、どうしようもなく惹かれている。
どうか、幸せになってほしい。幸せにしたい。
この一七年の日々を、リーンの笑顔が彩ってくれた。
九本の白薔薇を薄紫の紙で包み、リーンが好む紫のリボンを結ぶ。
白薔薇の花言葉は、私はあなたにふさわしい。心からの尊敬。
九本の薔薇で作った花束の意味は、永遠の愛。ずっと、一緒にいよう。
僕にふさわしいのは、リーンしかいない。
かなうなら、まだ間に合うなら、どうか、僕を選んでほしい。
リーンを愛している。ずっと、一緒にいよう。
ブーケを作ってすぐ、マーズ家の屋敷に向かった。
今日は休日。リーンは屋敷にいるはずだ。
門をくぐると、庭園の手入れをしていたメイドが恭しく頭を下げた。
「アスター様、いらっしゃいませ。せっかくいらしてくださったところ申し訳ありませんがアーノルド様もエレナ様も不在でして……」
「いや、今日はリーンに用があって」
いつもアーノルドかエレナに会うために来ていたから、リーンに会うためにとは思わなかったようだ。
リーンのもとを訪ねた理由が『結婚式用のブーケを確認してもらう』なんて、なんとも言い難い気分だ。
本当はとっくに自分の気持ちに気づいていたのに。
「あら! そうだったのですか。お嬢様はただいまドレスの試着で……。少々お待ちくださいませ」
ドレスは、タイミングから考えてウェディングドレスのことだろう。デザインの指定からサイズの微調整まで、ビオラの時もだいぶ忙しかったのを思い出す。
「お待たせしました。どうぞ、アスター様。お嬢様は私室でお待ちです」
「ありがとう」
メイドに会釈してリーンの部屋を目指す。
自分ではない誰かのためにウェディングドレスを仕立てているのかと思うと、一歩一歩がひどく重く感じられた。
ノックのあと扉を開けると、ウェディングドレスに身を包んだリーンが出迎えた。
白薔薇を思わせるような幾重にも重ねられたスカート。ほのかに花の香りがする。ヴェールのついた白薔薇の花冠。
花嫁衣装のリーンは息を飲むほど綺麗だった。
「おはよう、アスターさん。これ、仕立ててもらっているのと同じ型のドレスなの。さっきサイズの調整が終わったんだけど、どうかな?」
リーンは姿見の前でくるくるまわる。
無邪気な笑顔は幼い頃に見せたものと同じ。
でももう、すべてがあの頃のままじゃない。
「すごく似合っている。綺麗になったね、リーン」
「えへへ。照れちゃうな」
ぎこちない沈黙が流れた。
何を言っていいか、リーンも迷っているみたいだ。
作ってきた試用のブーケを渡すと、リーンは指差しで白薔薇の本数を数え、花の香りを楽しむ。
「素敵。九本の白薔薇は、ずっと一緒にいよう。あなたにふさわしいのは私だけ。アスターさんが昔教えてくれたわよね。結婚式にぴったり」
ブーケの意味を理解してくれたことを嬉しいと思う反面、もうこの笑顔は他の誰かのものになってしまうことが悲しい。
でも、まだ婚約であって結婚したわけではない。
間に合うなら、伝えたい。戦争で散っていった仲間たちや、遺されて今も悲しみにくれる人たちのことを思う。
そうだ。僕はまだ生きてここにいる。
伝えられることを、恐れてはいけないんだ。
「リーン。僕は……アーノルドとエレナの娘だからとか、そういうことじゃない。君を必要だと思っている」
リーンは驚き、僕を見上げる。リーンと目線を合わせて左手をとる。
「今さらって言われるのはわかっている。だから、これだけは知っておいて。僕はずっと、リーンの幸せを願っている」
娯楽小説に腐るほど載っているような、ありきたりな台詞すら出てこない。これが最後のチャンスなのに。
本当に伝えたいことは、これじゃない。
こんなときですらプライドやまわりの目を気にしてしまう自分が嫌になる。
大人になると見える世界が広くなるのに、子どもの時よりできることは増えるはずなのに。
子どものときは臆面なく言えた、自分の素直な気持ちを言葉にする、そんな簡単なことができなくなる。
伝えたい。体面とか、外聞とか、そんなこと今は気にしていられない。
なにもしないままリーンに会えなくなるのは嫌だ。
「僕は、リーンを愛している。これからもずっと、そばにいてくれ」
リーンは僕の胸に飛び込んで、目を細める。
僕の身勝手でリーンの婚約を破談にしてしまうことになるけれど、それでも、譲れない。
メイクが崩れるのもお構いなしに、涙でほほを濡らす。
僕の後頭部に手をまわし、離れまいとする。
「……不甲斐なくてごめん。こんな簡単なこと言うのにも時間がかかってしまった」
「良かった。大人だってこういうときは不安になるのね。迷ったり、苦しいって思ったりするのね」
リーンが瞳を伏せ、僕もリーンの望むことを察して目を閉じる。口づけをかわし、息がかかるほど間近でリーンが微笑む。
「私もアスターさんが好き。大好き。あなたが好きでいてくれるなら、恐いものなんてなにもない」
✶✶✶
「さて……婚約問題をどうにかしないと。リーンの婚約者とアーノルドたちには僕の方から謝っておくから……」
プロポーズしたものの、冷静になるとリーンと僕それぞれの現婚約を破棄しなければいけない。
僕の勝手なんだから僕が頭を下げにいこう。
アーノルドとエレナにこの事を説明して、うちの両親にも話を通しておかないと。
腕の中からは小さな笑い声が聞こえてくる。
「どうしたのさ、リーン。何がそんなにおかしいんだい?」
「だっ、だって……ふふふっ。アスターさん、自分に謝るつもり?」
「え?」
リーンが鏡台に置かれていた釣書をとり、開いて僕の目線に持ち上げた。
「……僕?」
自分の顔を見間違えるはずがない。それは僕の写真だった。
父の筆跡で『息子は頭の固いやつだから苦労かけるかもしれないが、単身で魔法使いに立ち向かえるほどの勇気があるなら大丈夫だ。アスターの妻になってやってくれ』とつづられていた。
──謀ったな。
アーノルドとエレナだけじゃない。この分だと両親と弟たちも結託している。
僕がリーンに本心を伝えるよう手の込んだ真似をしたくれたというわけだ。
「……勝手に婚約が決まったこと、怒ってる?」
リーンが叱られたみたいに眉尻を下げ、肩を縮こまらせている。
「いいや。こうでもされなきゃ、僕はリーンに好きって言えなかったから」
リーンを抱き締めると、花を思わせる甘い香りがする。胸の奥が熱い。こうして二人でいられる時間を、手離したくない。リーンといられる時間が、何よりも大切なんだ。
そしておとずれた結婚式当日。
予定通り双方の親族というごく内輪の者だけの小さな式が行われた。
式場であるマーズの庭園は使用人たちが植えた白薔薇が咲き誇っている。いつになく上機嫌なリーンがその真ん中でウェディングドレスを翻す。
左手薬指には僕と揃いの指輪が光る。
「いやぁ、無事結婚式をあげられてよかったなー。ははは」
白々しい笑い声をあげるアーノルドの後頭部に手刀を叩き込んでやる。
「よくも騙してくれたね。はなから僕とリーンが婚約者だと言ってくれたら回り道なんてしなくて済んだのに」
「なんのことやら。で、いくらリーンに聞いても答えてくれなかったんだが、今日から義息子なアスター殿はどう言ってプロポーズしたんだ?」
アーノルドの言葉に、エレナだけでなくウルとビオラも色めき立った。
「きゃー! 私も知りたいわ! ね、ウル」
「そうだねビオラ。兄さん奥手だから、どんな口説き文句だったのか気になるな」
ここにいるのが親族だけとはいえ、プロポーズの経緯を話すなんて辱しめ以外なにものでもない。
両親も、いつもなら悪ふざけするなと双子を止めてくれるのに、こんなときばかり知らん顔を決め込む。
「ダメ――! アスターさんと私だけ秘密なんだから言っちゃダメ――!」
「ごふっ!」
リーンが騒ぎを聞き付けて、アーノルドの背中に右ストレートパンチを繰り出す。
不意打ちを食らったアーノルドが涙目になり、殴られた部分をエレナがさする。
「アスターさん、言っちゃダメよ」
「もちろん。言うわけないじゃない」
このまま黙ってみんなのおもちゃにされるなんて冗談じゃない。
なんとか話をそらさないと。考えたときアーノルドとエレナが視界に入り、妙案が浮かんだ。
言葉にする前に、危険を察知したらしいアーノルドの笑顔がひきつった。
「アーノルド……いや、義父さん、それじゃあ手本を見せてくれるかな。義父さんはどうやって義母さんにプロポーズしたの? 学生時代は顔を合わせれば喧嘩ばかりしていたのに」
「と、義父さん? 間違っちゃいないが……って、ちょい待ち! 今ここで言えってか!?」
アーノルドとエレナが一瞬にして真っ青になった。
リーンはうろたえる両親を見て、ノリノリで僕に加勢する。
「はーい! 私も聞きたい! 教えて、父様、母様! 今後の参考に!」
「むむむむ、むりむりむりむり! そんなの恥ずかしくてできないわよ――!」
エレナの情けない声が庭園に響きわたる。さんざんからかってくれたんだから、これくらいの仕返しをしたってバチは当たらないだろう?
明るい笑い声にかこまれ、僕とリーンの新たな日々がここから始まった。
✶✶✶
朝目覚めると腕の中にリーンがいる。
それはとても幸せなことだと、一緒に暮らすようになって日ごと感じるようになった。
半分寝ぼけたままのリーンを学校に送り出して、花屋の店頭に立つ。
「はい。カスミソウとカーネーションの花束、お待たせしました。いつもありがとうございます」
「いつもいい花を揃えてくれて助かるわ。大変だと思うけどがんばってね。よかったらこれ食べて」
「は……はぁ」
レストランの奥さんから花の代金と一緒になぜか長芋を渡され、断りきれずいただくことにした。
今日はこれで5人目だ。お客様が度々買い物ついでに差し入れに来る。それから僕の左手を見て、「がんばれ」「精をつけろ」と謎の激励をおくってくる。
一体なんなんだろう。まあいいか。ご厚意を無下にするわけにもいかないし、最近寒くなってきたから、夕飯はとりにくと芋の煮物にしよう。
「アスターさん、たっだいま――!」
日が傾いた頃、リーンが大きく鞄をふりながら勢いよく走ってきた。
その勢いのまま僕の胸にダイブする。
「おかえり、リーン」
「これから夕方の配達の時間よね? 私も行く!」
「ありがとう。助かるよ」
リーンはテーブルに鞄を置いてエプロンをつけると、ボードに貼った今日の配達リストを取る。
指輪はもうだいぶリーンの指に馴染んでいる。何年も前からそこにあったみたいだ。
これまであらゆる縁談を蹴飛ばしてきたリーンが結婚指輪なんてしているのだから、さぞかしクラスメートが騒いだことだろう。
「学校でもずっとつけているんだね」
「えへへ。私はアスターさんの奥さまだって知ってほしいもの。みんなに自慢しているの。クラスの子でしょ、あと、よく行く雑貨屋さんに、昨日行ったレストラン、あとねー」
リーンはなんとも幸せそうなオーラを振りまいて笑う。
なるほど。この調子でみんなに話してまわったんだ。
結婚したことを出逢う人みんなに自慢されて、不覚にも困るどころか嬉しいなんて思ってしまった僕はどうかしている。
常連の皆さん、がんばれってそういうことですか。
精のつくもの食えってそういう意味ですか。
今さら贈り物の真意に気づいて顔が熱くなった。
ご近所の皆さんに夜の心配をされていることなんて微塵も気づいていない奥さまは、花束や苗を手際よく配達用のバスケットに詰めている。
「どうしたの、アスターさん。早く配達行こ?」
「……リーン。ちょっと上向いて」
「はーい」
リーン唐突なお願いにも関わらず、素直に僕を見上げてくる。
軽く屈んで無防備な唇に唇を重ね、驚きで硬直した手からバスケットを取る。
店を出ると、少し遅れてリーンがついてくる。
僕の左側にまわって、バスケットの取っ手を半分持つ。
「ううう……不意打ちなんてひきょうよ。心の準備が」
うつむいて指で唇をなぞる姿はなんともかわいらしい。
リーンの顔が赤いのは寒さのせいだけじゃないと思う。
冷たい風に身震いして空を見上げると、白い花が舞い降りてきた。
「リーン。空を見て」
「え?…………わぁ!雪だ! ねぇねぇ、アスターさん。積もるかな」
リーンの声がはずむ。雪が降っただけでもこの喜びよう。本当に純粋な子だ。
「積もったら雪だるまでも作る?」
「お店の前に作っていい?あ、あとね。雪うさぎ作りたい!葉っぱと赤い木の実が欲しいな」
まだ積もると決まった訳じゃないのに、あれこれ作る気満々のようだ。
これから先もずっと、リーンの隣にいるのは僕なのだと胸を張って言えることが幸せだ。
そう遠くない未来、二人で歩くこの道を、僕たちの子どもを交えて歩くんだろう。
これ以上の幸せなんてない。
道行くおばあさんが「あらあら。今日はかわいい子と一緒なのね。お似合いじゃないか」と笑い、僕は軽く左手を持ち上げて笑い返す。
「かわいいでしょう? 僕の妻なんです」
END
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