漁る者
これは、とある人から聞いた物語。
その語り部と内容に関する、記録の一篇。
あなたも共にこの場へ居合わせて、耳を傾けているかのように読んでくださったら、幸いである。
ん、この駅にも歩きスマホを注意するポスターが貼られるようになったんだ。
こいつは路線の駅すべてに貼るように言われたか、あるいはすでに迷惑をかけるような事件事故が起こったのか……つい、いろいろと想像してしまうなあ。
並行して複数のことを行う。マルチタスクというと聞こえがいいけれど、脳は対応できても、身体はひとつしかない。物理的に複数をこなそうとしたら、どうしてもタイムラグが生まれてしまう。
これを補うのがオート化。放置ゲームも指示などはプレイヤーがするも、状況の変化は時間の経過に任せてしまう。
限られた時間をいかに有効に生かすか。そいつを考えてできた進化形態だけど、従来のつきっきりで「お世話」をするゲームとは、ずいぶん毛色の違うものだ。
そのうち、あらゆる家事がオート化するという予測もあながち的外れではないかもしれない。
しかし機械が普及していない時代は、他の人力で補うよりなかった。
そのような人を確保できないなら、やはり自分の身でやる必要が出てくる。
たいていは、自分のキャパシティを鑑みて、妥協や調整をしていくものだけど、中にはごくまれに枠をはみ出てしまうものもいるらしいのさ。
そのケースのひとつについて、聞いてみないかい?
むかしむかし。
とある学者の家に生まれた男の子は、物心がついた時から乱読家であったという。
家の中ばかりでなく、外へ出る際も家の本を懐に忍ばせ、ことあるごとに読んでいた。
切り株に腰かけては読み、背負子に薪を入れて運びながら読み、まるきり二宮尊徳像のごとき姿勢で、彼は家にある本を読み漁っていた。
親としても、仕事柄新しい本は定期的に増えていくので、彼が読み切る早さを上回って「未知」が増していくような環境だったという。
――時間も身体も足りない。もっと増さないといけない。
知識欲にあふれる彼は、そうつぶやくことが増え、顔に不満げな色を浮かべていったのだという。
そうして彼が行い始めたのが、乱読だ。
ただ雑多な本を片っ端から読むのではない。彼は座り込む自身の四方に本を起き、それらへいちいち顔を向け、いっぺんに読もうと試みていたのだそうだ。
自分を十字の中心へ置き、それぞれの先端へ配される広げっぱなしの本たち。前方と左右はともかく、背後を見やるには上半身をひねらなくては無理だ。
はた目には、どう考えても非効率的なやり方。しかしそれを指摘するたび、彼は「黙れ」とばかりに相手を両断し、なお不機嫌な表情を見せる機会が増していたという。
実際、それは読書とは呼び難い行為。
いたずらに本を開き、その紙面とにらめっこをすることに人生を賭けている。
当人以外に、限りある命の浪費としか思えないこの行動は、いかなる諫めも効力を持たなかったという。
そうして3年の月日が流れた。
その年のその日は、占い師たちにより事前に物忌みを行うよう、大々的に報せが回ってきていたらしい。
家のうちに引きこもるばかりでなく、窓という窓に布をかけ、外からの光がいっさい入らないようにして、昼よりのちの次の日の出を迎えるころまで、動くことを控えよと。
しかし彼は強行した。自室にこもったうえで、「本が読めなくなる」と窓をそのままの状態にし、例の十文字に本を置く乱読体勢に入ったんだ。
すでに、彼の執着ぶりに辟易していた家族は、ほとんど彼から心が遠のいてしまっていたらしい。形の上での注意を二、三おこない、彼が生返事をするのを溜息とともに受け取りながら、あとはそっとしておいたのだとか。
その日暮れの寸前。
物忌みを続ける学者の家全体へ、不意に明るい光が差し込んだんだ。
まるで昼間の陽の下へ、引っ張り出されたかのようだった。頭上より照り付ける光は、紙を焦がすかと思うほどで、つい見上げてしまった端から、たちまちまなこを眩い光が潰しにかかる。
すっかりくらんだ視界の中、家族は隔てた壁たちの向こう、廊下の奥でつながる彼の一室から件の彼の声を聞いた。
苦痛にうめく感じではない。むしろ逆に、湧き上がる歓喜を前にして、声が漏れるのを抑えきれなかった。そう、耳にするだけで声を出した主が、身体を嬉しげに震わせるのが目に浮かぶくらいの、満たされ具合だったという。
いまいちど部屋に駆けつけたとき、ちょうど戸が開いて、彼が廊下へ出てくる。
やはりその顔に、こぼれんばかりの笑みを浮かべながら、こうつぶやいた。
「われ、いよいよ天啓を得たり」と。
彼はその身をひねることなく、周囲に置かれた本の内容を知ることができるようになった、と語った。
実際、彼の周りに未読の本を手当たり次第に置き、その記述内容を問うと、彼はまったく身体も顔も動かさないまま、背後にある書に並ぶ文字たちをそらんじてみせたんだ。
これは何も、本に限った話ではなかった。
彼はいまや家の外を歩いても、前方のみならず四方の様子を察することができるようになっていた。
突然の飛来物、忍び寄ろうとする者、刻一刻と変わりゆく視界外にあるはずの光景。
そのいずれも彼は、見ないまま敏感に察知して対応をし、説明をした。
気配を察知するだけでは、とうてい説明がつかない千里眼ぷりに、本当に神通力が備わったのではないかと、噂するものも多かったのだとか。
しかし、天より授けられた力は、地を這う命に重すぎるのか。
この計り知れない力を得て1年と経たないうちに、彼は命を落とした。
雨だ。彼は不意に、頭上より降り落ちる天気雨に打たれるや、その頭をたちまち赤く染めて、その場に倒れ伏し、ほどなく命を失ってしまったんだ。
彼の頭部には、骨をうがつほどの深い穴が、いくつも開いていた。雨に打たれるまでなんともなかった事情をかんがみるに、雨のしずくによって開けられたものとしか思えない状況だった。
他の者はいくら浴びても、肌ではじくにとどまる雨粒に堪えられないほど、彼の頭部は弱り果てていたというのだろうか。
彼の遺体は家に運ばれ、家族のみの手で葬られることになったが、うがたれた小さい穴たちに混じり、大きな傷があることも確認された。
東西南北の四方向。それぞれに向けられて、大きく刻まれた三日月形の深い陥没。それはあたかも半端に開かれたまぶたのように思えたという。
彼はここから四方を見るすべを得ていたのかもしれない。しかし、こうして開いた穴はいよいよ頭の骨を弱め、雨にも堪えられなくなってしまったのでは、と思われたそうな。