珈琲と花
後ろで扉が開く音がした。
おれは振り向かず、焦点をどこにも合わせないままでいた。
「舜くん…」
そっと肩に手が置かれる。
しかし、おれは何も答えず、顔を動かしもしなかった。
ふ、とため息をつく音がして、手が肩から離れた。
真美さんは花の側まで行って布団を整え、顔を覗き込んだ。
ちょっと顔を曇らせたが、何も言わずに周りに置いてある花瓶の水を変え始める。
手伝おう、と思ってはいた。
しかし、身体はピクリとも動かないまま、真美さんの動きを目だけが追う。
「…花もずいぶん痩せたけど」
シンクに水を捨てながら真美さんが口を開いた。
「舜くんも痩せたね。ちゃんと食べてる?」
「…い…」
答えかけて、声がかすれた。
唾を飲み込んで言い直す。
「一応、食べようとはしてるんですが…」
「ダメよ、ちゃんと食べなきゃー」
そういいつつ、手際良く水を変えていく真美さんの背中もずいぶんと小さくなっていた。
「ねえ、花もそう思うでしょ?」
聴覚は最後まで生きているらしい、と聞いてから真美さんは積極的に花に話しかけるようになった。
しかし、花の顔はぴくりとも動かない。
「舜くん、ちょっとお茶でもしない?」
全ての水を替えて、真美さんがおれを見た。
はい、と、何も考えず、感じず、おれは立ち上がった。
病院の一階にはカフェがある。
おれと真美さんは窓際の席に案内されて、向き合って座った。
「好きなもの注文していいわよ〜!」
そう言ってメニューを渡されたが食欲なんてものはここ数週間感じていない。
おれはコーヒーを頼んだ。
真美さんはぜんざいを頼む。
「あのね、花、もうそろそろ駄目みたいなの」
注文して、メニューを畳みつつ、真美さんがさらっと言った。
「……え?」
「まあ倒れて数週間でしょ? 点滴じゃ限界がくるのはわかってたからねぇ…」
ちょっと意味がわからなかった。
それが花の死を意味する言葉だとは。
「だからね、」
ふいにおれを正面から見据えて、真美さんは言った。
「舜くんも覚悟しといて欲しいの」
はい、とは言えなかった。
微動だにせず見つめ返すおれをちょっと悲しそうな顔で真美さんは見て、ぽつん、と呟いた。
「…ごめんね」
「え?」
俯いたまま、真美さんが続ける。
「こんなこと…聞かせて。こんなこと…お願いしなきゃいけなくて」
「…真美さんのせいじゃないですよ」
絞り出した声は掠れていて、言葉は薄っぺらくて。
自分で自分を呪いたくなった。
真美さんのせいじゃない。
もちろんそれはそうだ。
だけど今…、おれは覚悟して、と言った真美さんに怒りを覚えはしなかっただろうか。
母親である真美さんの方が何倍辛いかしれないのに。
そんなことを思った自分が恥ずかしいし、それを真美さんに悟られてしまったのは申し訳ない。
己の未熟さがとことん嫌になった。
コーヒーが届き、おれは苦いそれを啜った。
「…すみません、おれ…。何か…、全然周りも見えてなくて…」
ふふ、と真美さんが笑った。
「何言ってるの。それだけあの子のことを思ってくれてるってことじゃない。私は嬉しいわよぉ〜」
ちょっと遠い目をして彼女は窓の外を見上げた。
「こんな素敵な彼氏連れてくるなんて、花も見る目があったのねぇ…」
おれはちょっと戸惑って真美さんを見つめ返した。
「そんなおれ…何かしましたか」
おかしそうに真美さんが眉を跳ね上げた。
「まあ! こんなにつきっきりで側にいてくれる彼氏そういないと思うけど?」
「…好きならすると思いますけど」
おれがしたくてしているのだ。
花が望んでいるかどうかもわからない。
これぞ自己満足というものだと思う。
そう言うと、真美さんは声をたてて笑った。
「あのね、舜くん。そう思うほど愛してくれる彼氏はそんなにいないし、自己満足だと思って見返りを求めない彼氏もそういないのよ」
「そうですか…」
そこまで褒められても、おれにはまだ、あまりわからなかった。
真美さんとカフェで話してから1週間ほど経った日。
花屋からバス停へと歩いている時に電話が鳴った。
「はい、もしもし」
『もしもし、舜くん!? 花が危ないの! 急いで!』
それだけ聞いて、おれは脱兎の如く走り出した。
角を曲がってくるバスを捕まえ、焦る気持ちを必死に押さえながら、病院へと向かった。
病室に駆け込むと、医者や看護師が大勢いた。
花の枕元の心電図がビービー警戒音を鳴らしている。
「舜くん! 早く!」
真美さんに手招きされ、おれは花のそばへ近寄った。
ずいぶん痩せてひとまわり小さくなった花の顔は、おれの知っている花ではないようだった。
「最後まで耳は聞こえているらしいから。何か言ってあげて」
花の顔の上にかがみ込んで、唇にそっとキスを落としておれは囁いた。
「大好きだよ」