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赤い記憶  作者: 久元
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第2話 病床のアマリエ

 振りかぶった斧を勢いよく下ろすと、軽快な音が春の空気の中に響いた。まっぷたつに割れた薪が切り株から傾き落ちる。

 イザクは斧を地面に軽く突き立てると、額の汗を腕でぬぐった。後ろにいる中年女を振り返る。近所の家の女で、名をヴェラという。


「これで全部か」

「そう。ありがとうね、イザク」


 イザクが腕一杯に薪の束を抱え上げて日なたに移動させるのを見ながら、ヴェラは手にしていた紙包みを足下の大きな籠に押し込んだ。


「ミルクと卵と……チーズも少し入れとくよ。今回のはかびがちょうどいい具合について、いい出来だわ。気温が良かったのかしらねえ」

「助かる」


 イザクはそう返してから、晴れ渡った空を見上げてまぶしさに目を細めた。


 大陸を北西からななめに横断する【竜の背】山脈の、その北東に位置するヘプタルク王国にもようやく春が訪れていた。王都にほど近い村・ここカリャンスクでは人々が種まきや畑の整備に精を出し、草むらでは真っ白の毛皮に包まれた生まれたての子羊たちが、母羊のまわりをはしゃいで跳ね回っていた。


 人づきあいのさして得意でないイザクがこうしてこの隣家を訪れるのは、ちょっとした力仕事を手伝うためである。

 家の主人は数年前に他界したという。息子ペトルは働き者なのだが、遠くの畑地で働いているがために留守がちだ。一度たまたま近くを通りがかり、男手がなく困っている母親の手助けをしてからは、イザクはたびたびこの家を訪れるようになったのだった。

 やもめの母親ヴェラは死んだ夫から牝牛一頭と何羽かの鶏をささやかな財産として受け継いでいて、イザクが何かを手伝うたびにミルクや卵をわけてくれる。


「わたしも最近は斧がめっきり重くなったし、アマリエも気が強いのとおんなしくらい体も強かったら良かったんだけど……。せっかくいいものを食べさせても胸は良くならないのかねえ」

「……ペトルの婚礼は?」


 イザクがそう尋ねると、ヴェラの顔がわずかにほころんだ。


「この秋だよ。相手も気だてのいい子で、牛や豚の世話も丁寧にする。よい相手を見つけたよ。……これでわたしも安心して死ねるってものなんだけど、アマリエだけが気がかりで」

「アマリエは?」

「いつものとおりさ。屋根裏にいるよ。……話をしていくかい?」


 家に入ったイザクは、奥から屋根裏に続く簡素な階段を上った。突き当たりの小さな木の扉をノックして、声をかける。


「アマリエ?」

「入って! 木こりさんね?」


 快活な声である。扉を開けると正面の天窓の雨戸は大きく開かれていて、そこから鮮やかな青空がのぞいていた。天窓の下の寝台に横たわっていた亜麻色の髪の娘が、イザクの姿を見て身体を起こした。


「声が聞こえたから、きっと木こりさんだと思ったの……あらごめんなさい、こんな格好で!」


 娘はイザクに笑いかけながら、細く痩せた手を伸ばして近くの椅子にかかっていたショールを取った。


「起き上がらなくていい。寝てろ、アマリエ」

「あら大丈夫、体を起こしてるだけなら寝てるのとそんなに変わりないのよ。いまのは勢いこんで喋りすぎて、むせちゃったの。……昨日も街に行ったんですっけ? 夏のお祭りの準備はまだ始まってないのよね……」


 止まることを知らないおしゃべりである。イザクは黙ってふところを探り、軽く握った拳を彼女に向かって突き出した。不思議そうにアマリエが広げた青白い手のひらの上に、精巧な模様が入った色あざやかな三・四の硝子玉が転がる。


「まあ、どうしたの、これ……」

「とんぼ玉だ。仲間がたくさん手に入れたとかでな、分けてよこした」

「もらっていいの?」

「おれが持ってても仕方がない」

「うれしい……紐を通して首飾りにするわ。本当にありがとう」


 アマリエは硝子玉を見てにっこりと微笑んだ——と、口を押さえて激しく咳きこむ。イザクは眉を寄せ、水を持ってくるために席を立とうとした。が、アマリエはかぶりを振る。


「大丈夫。少しそばにいて。……調子はそんなに悪くないのよ。昨日も外に出て、裏の茂みでいちごを採ってたの。母さんはわたしが悪くなるってばかり言うけど、きっとそんなことを毎日聞いてるから、悪くなるような気がしちゃうんだと思うわ」


 そうか、とだけ答えてイザクはアマリエの顔を見た。赤みのない頬と額に落ちたほつれ毛が、娘の表情全体にうっすらと翳りを落としている。

 アマリエはそんな自分の姿を知ってか知らずにか、にっこりと微笑んで、


「ね、とんぼ玉のお礼にわたしの秘密を教えてあげましょうか。母さんにも兄さんにも言ったことがないの。誰も知らないわたしの秘密……」


 アマリエはくすくすっと笑い、少し間を置いた後、重大な秘密を打ち明けるかのごとくに冗談めかして声をひそめた。


「わたしはね、お姫様の生まれ変わりなのよ」


 イザクは少し目を細めた。怪訝そうな表情に見えたのだろう、アマリエは拗ねるように口を尖らせて、


「ほら、信じてない。……でも本当なんだから仕方ないわ。わたしだって三年前のあの日まで、そんなこと考えたこともなかったのよ。だけど……三年前のお誕生日に、突然思い出したの」

 

  アマリエは胸元のショールをたぐりよせた。頭上から響いた鳥の声に、少し天窓を見上げる。


「……あのとき、わたし散歩の途中で気分が悪くなって、道沿いの大きな木の下で休んでいたの。そしたら、どこからか鮮やかな赤い胸の鳥が飛んできたわ。ちっともあたしを怖がらないで、手の届く近くまで来て。こんにちは小鳥さんってわたしが言ったら、ぴゅいぴゅいって鳴いたわ。あんまり可愛いんで、わたし思わず手を伸ばしたの。

 その真っ赤なやわらかい首に、わたしが触れた瞬間だったわ。

 鳥が言ったの。

 アルジェベタ、って。

 高い声で確かにそうさえずったのよ。絶対に聞き間違いじゃないわ。綺麗な綺麗な澄んだ声で、はっきりひとつ、アルジェベタ! って叫んだの。

 あっという間にその鳥は飛んで行ってしまったわ。だけれど、そのときわたし思い出したの……まるで雨戸を開けた窓から突然明るい光が差し込んだみたいに、色んなことが突然見えて、戻ってきて、わかったの。

 アルジェベタってわたしのことよ。こうして母さんと兄さんのところにアマリエとして生まれてくるその前、ずうっと昔に、きっとわたしは別の名前で呼ばれていたことがあるんだわ。きっと、どこかのお姫様だったにちがいないわ。だってあんなにりっぱなお城で、あんなに綺麗なドレスを着て、あんなにたくさんの召使いに囲まれて暮らしているんですもの。アルジェベタはお誕生日にもらった首飾りが大好きで、いつでも身につけてたわ……」


 と、アマリエはそこで言葉を切ると目をまたたかせ、イザクの顔を見つめた。


「あら、でも木こりさんがくれたとんぼ玉にはかなわないわ。わたしはこのとんぼ玉が好き!」


 にっこりと笑ったアマリエに、イザクは眉を寄せて「いや」と呟き返した。そんなイザクの様子にアマリエは微笑んで、


「……ねえ、ここから少し東に行った高い丘の上に、古いお城の跡があるでしょう。わたし、あそこに住んでいたの。あのお城はいまでこそ半分崩れかけているみたいだけど、昔は真っ白な壁をしてて、中は色とりどりの模様の壁布でどこもかしこも覆われてて、それはそれは綺麗だったのよ。

 知ってる? はだしの足でじゅうたんを踏むと、やわらかな毛が肌をくすぐって、ぎゅっと足がじゅうたんの中に沈むの。うちのじゅうたんはまるで草の茎みたいに固いけど、本物のじゅうたんって違うのよ。寝台じゃなくて床でだって寝られそうなくらい……。

 わたしのお部屋はあのお城の三階にあったわ。アルジェベタは今のわたしと同じ、十八か十九で、……そうしていつだってお城の窓からヘプタルクの都を眺めているの。城壁のむこうのきらきらした湖を背景にして、……あれはお寺かしら……大きなお寺や王様のお城の塔が、影になって見えて、とってもきれいなの」


 湧き水がとめどなく溢れ出すかのごとく、うっとりとそう語ったアマリエは、そこでふと口をつぐんだ。細い首をかしげ、寝台の毛布に視線を下ろす。


「だけど、……最近、よくいやな夢も見るの。その夢を見るたびに、わたしは汗びっしょりになって目を覚まして、次の日にはきまってひどい発作がくるの」

「夢?」

「どんな内容だか、よくは覚えていんだけど。ただ一面赤と黒で、とにかく息が苦しくて。ひどい金切り声であたりがいっぱいで、わたしは固く手足を縛られていて指一本も動かせないんだわ。その夢、見るたびに、恐ろしい叫び声も、痛さも苦しさも、だんだんひどくなってくるの」


 アマリエは顔をあげてイザクを正面から見た。瞳の奥で、強い不安が揺れている。


「木こりさん。わたし、怖いの……」


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