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失敗作

作者: ホリイ

『最新脳科学が教える幼児教育――子供を失敗作にしない!優秀な子を育てる方法』

会社帰り、駅前の本屋に寄ったTは、棚に並べられたある本に目が留まった。帯に書かれた『失敗作』という過激な言葉にどきっとして、危うく手に持つ紙のコーヒーカップを手から滑らせて、売り物の本にかけてしまうところだった。

落ち着いて、改めて本を手に取って中身を見ると、

「親が子どものためを思って叱っても、嫌いなものを好きにはなることはありません」

「手を上げると、勉強そのものが嫌になってしまいます」

「このようなことを続けていると、子どもの脳は歪んでしまいます」

などと書いてある。『歪む』という言葉は、かえしの付いた釣り針のように、Tの心に鋭く突き刺さった。

Tは手のひらに変な汗をかき、思わずパンツスーツの袖を握りしめた。

確かその日、幼いTは、お気に入りのワンピースを着ていた。青い地に鮮やかなひまわりが描かれていたのだけれど、生地が涙で濡れると、そこだけ色が濃く見えた。それを見ると余計に哀しくなって、もっと泣いたんだった。そしてその日以来、あの服を見るだけで悲しい気持ちが蘇るので、あの服は二度と着ることはなかったのだった。

『この本によると、私の脳は、子どものとき既に歪められてしまっているのね…』

Tは頭がクラクラしてきた。

『それで、「失敗作」とやらはどうやって生きていけというの?やり直しがきくはずもない。これから先の人生を、丸ごと諦めて生きていくしかないということ…?』

Tは無力感にとらわれたままその本を棚に戻した。本屋を出た頃には、いら立ちを感じ始めた。

『もうどうにもならないなら、あんな本、見なきゃよかった…!』

折りたたみの傘を開き、暗い雨の中、怒りに任せて足早に歩くと、何人もの人とぶつかりそうになった。

中には舌打ちをしてくる人もいたが、傘を差していたので、相手の顔は見えなかったし、苛立ったTには他人のことを気に留める余裕もなかった。

そんななか、一つの置き看板が目に留まる。

『「子ども時代、やり直しませんか?1時間1万円~」だって、なにこれ…?』

気付けば足を止めて、看板をにらみつけていた。

「親から受けた間違った教育をやり直せるわけでもあるまいし、馬鹿らしい…!」

ひとり言をもらすと、いつのまにそこにいたのか、ビルの物陰から男が姿を現した。

「そういう方も、多いみたいですよ、最近。」

「は?あなた何を言ってるの?」

「つまりね、最近多いでしょ?脳科学的に正しい幼児教育とは何か、っていう議論が…」

「やれやれ、また脳科学か…」

あの本にもそんな言葉が書いてあった。Tはうんざりした。

「いやはや、知っておられるみたいですね。

親が子どもを優秀に育てたいと考えるのは、今に始まったことじゃない。いわば人類共通の夢ですよ。

といってもひと昔前は、疑似科学レベルでした。まあ仕方ない、自閉症は親の教育が悪いせいだという考えも、つい最近までまかり通っていたくらいですから。

ですが今は、脳科学が発達して、真に科学的な意味で、子どもが幼いとき――いわば脳が柔らかいときに、何をしておくべきかということが研究されています。」

「だから!結局それって、子ども時代にしておかないと手遅れなんでしょ!」

「ええ、そこなんですよ」

男はニヤリと笑った。

「我々は、そうした研究の一環として、間違った教育方針のもと、歪んで大人になってしまった脳を矯正する方法も研究しているのです。申し遅れました、わたくしこういう者で」

差し出された名刺には「××大学、脳工学、H教授」と書かれていた。氏名はおろか、大学名も聞いたことがなかった。

「聞いたことないわね…」

「ええ、そうでしょう。まだ実験段階なのですが、脳にある特殊な、微弱な電気の刺激を送ることで、いわば『子供時代をやり直す』ことが出来る、と我々は考えています。その結果は、現在のあなたに必ずはポジティブな変化を与えるはずです」

「ふん…、なんだか眉唾な話しね…」

「ええ、新しい技術とは得てしてそういうものです…。ですがもしこの効果が公けに実証されれば、一回10万円以上の価値があるとおもっています。

あなただって、一度は思ったことがあるでしょう?もし親があんなふうでなかったら、こういう導き方の出来る親だったら、今の自分は全く別の人間になっていたかもしれないって。

…輝く人生を手に入れるのに、あなたはいくらまで自分に投資します?」

「ああもう、わかった。この1万円は捨てると思うことにするから、その装置とやらを試すことにするわ。痛くないでしょうね。」

「ええ。眠っていただいている間に、全て終わりますから。」

Tはビルの中の、暗い一室に案内された。部屋の中にはやたら大きなコンピューターの装置があり、そこから伸びたコードは、ガラスで区切られた空間に繋がっていた。ガラス張りの仕切りの内側には、歯医者で座るようなリクライニングの椅子が置いてある。

男はギイ、という音を立てて、ガラスの仕切りの一部となっているドアを開けた。促されて椅子に座ると、男はスイッチを押して、椅子が心地いい角度に調整した。それから電極らしいものをTの額やこめかみやらに張り付けた。

もし歯医者であれば、頭上から鏡やライトが降りてくるところだったが、代わりに降りてきたのは、何やら箱のような形をした装置だった。男がそれをTの頭にすっぽりとかぶせると、

「では、リラックスして、お休みになってください」

ギイという音を立てて、男がガラスの外に出て行く音が聞こえた。


意識が途切れる感覚に襲われ、ふと気づくと、Tは駅前の本屋に立っていた。

しかし不思議と、“立っている”という感覚はなかった。

意識はちゃんと自分の手元にあるのに、身体だけは別個の意志で勝手に動かされているような、そんな妙な感覚だった。

『あれ…、そうか…、さっきまでの出来事を、夢に見ているのね…』

予想した通り、Tの身体は勝手に動き、例の本に目を向けた。

『そうそう、扇動的な本の言葉をみて、そこで、コーヒーを滑らせそうになるのよね…』

しかし夢の中では、全てがTの経験したようにはならないようだった。

手に持っていた紙のコーヒーカップがさっと消え去り、カップという原型を失った中身が、そのままTの手の内側から下に落ち、例の本に丸々とかかってしまったのだ。

『げ、売り物にかかった、ヤバい…』

慌てて本を手に取ったが、今度はその本の背中ののりが剥がれたかのように、パラパラと一枚ずつ剥がれ落ち、さらにページの一枚一枚は砂のように小さく崩れていった。

『どうなっているの…、触れたものが消えていくみたいだけど…』

確かに夢の中では不可思議な法則が支配していてもおかしくない。考え込むTに、小さな少女が話しかけた。

「今度は、失敗しないでね…」

声の主をふりかえると、Tは目を疑った。見覚えのある、ひまわりのワンピース…。その少女は幼かった頃のT自身だったのだ…。

『え、ちょっと待ってどういうこと…!?』

Tが驚いていると、少女はどこかへ行く素振りを見せたので、思わず手を伸ばす。いや、伸ばそうとした。身体と意識が乖離しているせいか、身体が思い通りに動かず、ワンテンポ遅れてしまうのだ。

やっと手を伸ばせたとき、Tの指先が触れたところから、少女は砂のようにサラサラと消えて行った。

『なんだったんだろう…』

Tは自問した。

『小さい頃の自分が夢に出て来るなんて、あの教授とかいう人、私をうまいこと暗示にかけたのかしら…?』

ずいぶん怪しげな男だったが、存外、催眠術師としては本物だったのかもしれない。

続いてTの身体は、本屋を出て、バッグから折りたたみ傘を取り出した。これはさっきと同じだ。

だが、傘をひらいてさした途端、布地の部分がさらさらと消え、しばらくは骨組みだけが残っていたが、やがて骨も消え去った。

そして路地を早歩きに歩く。やはり先ほどと同じように、何人もの人とぶつかるが、今度は

人とぶつかる度に、その人は砂のように消えていった。何人かは知った顔のような気もしたが、はっきりとはわからなかった。

『それから、あの看板を見付けて、建物に入るのね…」

夢の中のTも置き看板に目をやるが、看板の文字はぼんやりして見えなかった。

続いてあの教授とかいう男が出て来るのかと予期したが、教授は出て来なかった。かわりにさきほどの少女らしい影が、闇夜で目立つ黄色のひまわりのワンピースの裾を翻して、建物に入っていったのが見えた。

Tの身体はそれを追った。

暗い部屋に入ると、やはりそこにはガラスの仕切りとリクライニングの椅子が置いてある。ガラス越しに内側を覗き込むと、驚いた。

『あれ、私、のはずよね…』

リクライニングで寝ているのは自分であるはずだったが、その人物はパンツスーツではなく、あの青地にひまわりのワンピースを着ていたのだ。

そしてその両脇に立って、二人の人物が私を覗き込んでいた。

『あれは…、父さんと母さん…?』

Tを見守るかのように見下ろしているのは、あの教授ではなく、両親だった。

『あの教授、本当に嫌な夢を見させるわね…』

こうして夢の中で親を見ていると、懐かしいというよりは苦い思いの方が勝って、喉の奥に何かがつっかえるのを感じた。そして同時に、Tはあることに思い当たった。

『もしかして…、今この手で親に触れれば、二人は、消えるんじゃ…?そうしたら子どもの頃の嫌な記憶を、なかったことに出来たりして…?もしそうだったら、あの教授、本物だわ…』

確証はなかった。だが試す価値はあると思った。だが問題は…、

『ドアが…、ない…!?』

現実では、確かにガラスの仕切りの一部がドアになっていたはずなのに、夢の中ではそのドアが見つからないのだ。

『あれ、おかしい…』

Tは周囲を歩き回って、ドアを探そうとした。だが夢の中では身体も思うように動かず、もどかしさから焦り始める。

『…そうだ、ドアなんかくぐらなくても、触ってしまえばなくなるはず…』

Tはガラスの仕切りに手を触れた。

しかし今までの法則が嘘のように、そのガラスは、なくならないのだった。

『え?どうして!?』

Tは半狂乱になってバンバンと叩いた。

しかしガラスの向こうにいる親は、こちらがどんなにガラスを叩いても、こちらを見向きもしない。

『そんな、こんな近くに来ているのに…。あと少しで手が届きそうなのに』

Tはガラスを突き抜けて、向こうに手を伸ばすつもりで、思い切り手を叩きつけた。だがそのこぶしは、見えないガラスに阻まれるばかりだった。

痛みは感じなかったが、気付けばTは涙を流していた。

『あとほんの少しで、本当にやり直せそうなのに…』


ギイ…、という音がして、男がガラスのドアを開けたことがわかる。

夢から覚め、Tはあのリクライニングに寝ていた。男が箱型の装置をTの頭から外したとき、Tは自分の頬が涙で濡れていたことに気付いた。

「騙したわね。何も変わっていない…!」

気まずさも手伝って、Tは噛みつくように言った。

夢の名残りで、親を見たときの苦い思いがまだ喉の奥に残っていた。ということは、子どもの頃の記憶は何も変わっていないのだ。教授は静かに言った。

「効果は、ご自身ですぐに変化を感じられるものと、ご自身ではすぐにお気づきにならないものとがありますので…」

「…もういい。1万円をかえせといいたいところだけど、あれは元から捨てるつもりで払ったのだから、これ以上言うのはよしましょう。」

「気分はよくなったのではないですか。よく眠っておられていたようでしたが」

「…酸素カプセルでも試した方が、まだましだったわ」

Tはビルを後にした。雨はいつのまにかやんでいた。

『雨がやんだのは、時間が経って雨雲が動いたというだけのことであって、別に私の心とは関係のないことだわ』

Tは歩いて家に帰った。今度は人にぶつからないで済んだ。


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