納得の幸福論
「幸せ」という考え方は間違っている。
私達は幸せを求めているとされているが、実際には幸せを求めている人はいない。
確かに、幸せのイメージというものはある。しかし人々が実際に選好しているのは、言わば到達点としての幸福ではなく、それに向かう過程における、納得感の程度である。
つまり、本当に重要なのは「納得度」なのに、「幸福度」が重視されてしまっている。
そのために、現代社会の生活は十分な納得度の無いものとなっており、結果的には幸福も損なわれている。
子供が行っている振る舞いに対して、幸福かどうかを尋ねても、本人には意味不明である。
「幸福」は、理性的な概念なのだ。
尋ねられた子供は一拍おいてから、他者との比較において、同じだけ食べ物をもらっているとか、玩具を持っているとか、それを考えてから、自分が幸せであると述べる。
しかし、子供が本当に欲しているのは、いつも納得感のほうである。
よって、子供に繰り返し同じ質問をされても、それは無意味ではない。
また例えば、親族を失った子供がそのことに納得できない感覚を味わいつづけたとしても、この世界に十分に納得できないというその感覚には、大きな価値がある。
「納得できない」と感じること、そしてそう言い放つこと、それこそが、幸福追求の大切な原動力だからだ。
なろう小説についての、「かわいい」とか「かっこいい」とか「楽しい」とか「面白い」という感覚もそうである。
「萌え」という言葉が使われることもある。一般に、「善い」という美徳の本質は、納得感である。
例えば、女の子のキャラクターについて、外見的な設定がかわいくても、内面的な性格が自分には十分に魅力的でなかったりする。逆に、性格が良くても外見的な属性に不満を感じてしまうこともあるだろう。
そのことは、現実の恋人や人間関係についても言える。私達が本当に幸福を感じるのは、総合的な納得感がある場合である。
よって例えば、「メガネ萌え!」という言葉遣いは間違っていると言いたい。「メガネ納得!」と言うべきだ。
もちろん、メガネ属性が誰もの納得度を著しく刺激するわけではない。だから私達はつい、「納得」という言葉を控える。
しかし、納得とは本質的に、個々人に固有なものなのである。
よって、日本国憲法第13条に示された「幸福追求権」は間違っている。
憲法には、「納得追求権」こそが明記されるべきである。
そうでなければ、若者達の納得感が繰り返し抑圧されるこの国の構造は、いつまでも正されない。
物質的な繁栄の陰で、弱者の精神的な幸福はどこまでも犠牲にされてしまう。
ただし、納得度を重視すると、
「働くことは楽しいことであり賃金の程度は問題ではない」
といった言わばワタミ理論みたいのが増長する可能性がある。ごまかしで本人を納得させればいいみたいな。
しかし権力者によるそんな洗脳行為を外部から見る多数者が十分に納得することはありえないだろう。
よって、社会全体の納得度を向上させていけばよいだろう。
逆に、賃金だけを尺度としたなら、洗脳じみた精神論が必ずしも否定されなくなってしまう。それが日本の現状でもある。
なろう小説においても、私達は幸せのみ求めているわけではない。
冒険や、仲間達と分かち合う苦労を楽しんでもいる。
人間というものは、納得できる対価のもとでは、喜びとともに汗を流すことができるのだ。時に命すらかけられる。
苦労を楽しむことは、幼稚な子供の「楽しい」や「面白い」ではないから、「納得」という言葉のほうがよい。
小説の重要な面白味は、提示される世界と主人公の立場が織りなす、「納得感」にあるのである。
逆に、既存社会が公正なものではないとか、努力しても希望が持てず報われないとか、そういった「不納得感」が、現実生活の苦しみとしてある。
社会には、大人達さらには老人達が築き上げた権力構造というものがある。
そして彼らは、彼らに正義があると自認している。
議論においては、例えば大学教授といった肩書きがあると、言葉は強くなる。しかも実際、そんな人が賢かったりもする。
しかし、納得できないものは納得できない。その事実は大切だ。「自分が頭悪いだけかな?」、「頭悪いと思われたくないなあ」、といった発想で、「納得」という概念を軽視すべきではないのだ。メガネに納得する人もいれば、しない人もいる。権力の時代は終わりつつあるのである。
「わかりにくい!」といって自己正当化することはしばしば甘えであり、知的な自助努力は必要だが、正当な説明は提示したから責任は果たしたと考えれば、それは虐待のようなものだ。
まるで家畜に、食肉になる契約書に署名させて、だから合意があると主張するようなものだ。
全員が完全に納得する社会を築くことはできない。しかしそれを目指して一歩ずつ進むことはできる。
社会の強力な権力を前にして、子供達はつい、そこに順応してしまう。自らの価値観を殺し、納得できない気持ちを押し殺してしまう。
だから逆に、既存の権力に対して、「納得できない」と感じることが、大切である。
自分自身の納得を模索することが、生きるということである。
「幸せ」は、外見的形式に帰着されがちだ。しかし「納得」ならば、個々人の主観に帰着される。正当性を押しつけられても、「いやぁなんか納得できなくて」で打ち払える。納得感は、個々人に固有である。
私達は、私達の社会をホワイトなものにしていかねばならない。
そのためには、弱者の不納得感に進んで耳を傾ける態度が社会にあるべきだと言えるだろう。
上長は、「不納得感はありませんか?」と尋ねねばならないし、若年者は、「不納得ですねー」と萎縮せず言える社会でなければならない。
そのために、私達がすぐにできることは限られている。
まずは、メガネをしている人に魅力を感じたら、「メガネ萌え!」ではなく、「メガネ納得!」と言う。
そんな小さなところから始めてみるべきではないだろうか。