本編七 住人 4
待雪との情事がかえってリアルな妄想を掻き立て、私の頭を支配していた。
待雪宅へ入った二人の男。
彼等があの中で何をしていたのか……
それを知る術はないものか……
村の事情を知る為に村を徘徊した結果、別の苦悩を抱えてしまっていては本末転倒である。
待雪ととっさん。話が交わせるこの二人こそが疑問の中心に居るような気にもなる。
私は勝手に嫉妬の相手に仕上げてしまっついる孝太郎を、やはり近付く相手に選んだ。
本心の半分は、妄想の否定が聞きたかっただけであるが、人は詭弁を自分にも使うのだ。
孝太郎が待雪の家に訪れた翌日、私は孝太郎を訪ねた。
不器用な手つきで茶を注ぐ孝太郎はどう若く見積もっても四十後半に見えた。
初めて見た時からの感覚はもう少し覇気があるように思ったが、体格の良さがそう思わせたのか……鰥夫が妙に寂しげで歳を感じさせた。
「今日の葬式は昼すぎからじゃからゆっくりしんさいよ」
人の良さそうな男であるが待雪との事が変な壁を作った。
「孝太郎さんはこの村は長いのですか?」
なまりの強さで地の者かと思う程村に馴染んだ孝太郎にそう聞くと、
「二十歳になったばかりでここへ住んどるよ」
茶をすすりながら彼はそう答え、戸棚からモナカを取り出して私に勧めた。
二十歳と言うと彼女がちょうど産まれた頃か更に前であろう。
自分の子供程歳の離れた女と、女の実家で逢い引きもないな、と安心しかけたのも束の間、自分を棚に上げている事に気付いた。
「貴方も突然発症したのですか?」
病の原因を知りたくて尋ねた言葉であったが、二十歳からここに居る男である。
全てを知っていてもおかしくはない。
孝太郎が私の質問に答える前に私は質問を変えた。
「貴方はこの村の事情を良く理解しているんでしょうか?」
孝太郎は質問の意図を汲み取っているかのように優しげに笑い、また茶をすすりながら手で私を制した。
「聞きたい事は山ほどあろうなあ。そらあわかっとるよ。んでも全部を一度に話すにはちょいと時間が足んねえなあ」
時間はまだ正午に至っていなかった。
「時間がさあ、解決するもんもあるんよ。わしが今葬儀屋をやっとるんも、長い時間がそうさせた事じゃで」
そこまで言うと、煙草に火を灯しながらこう加えた。
「まずは一つ一つ行きましょうな。今一番聞きたい事はなんじゃ?そっから整理出来るもんさ」
一番聞きたい事……
病に関する事。
しゃっくりの苦しさ。
発症の秘密。
治療の有無。
村の先祖の事。
村の住人の事。
葬儀の人の少なさ。
火葬場の事。
花に変わる雪……
待雪の家で見た遺影写真
待雪の家で嗅いだ香の匂い
待雪の家で……
待雪の……
待雪の事。
待雪の事が知りたかった。
会って間なしに抱いた美しい女の全てが知りたかった。
待雪が話した雪の話をもう一度したかった。
あの日腕の中で交わした会話と性欲。
ああだこうだと心の中で詭弁を使う。
聞きたい事は……、今聞きたい事は待雪の事である。
孝太郎が訪れた待雪の家。そこで何がなされていたのか……、今はそれを聞きたいだけなのかも知れない。
それを聞いて心の誤解を解きたかった。
「ま、待雪さんの家に入るのを見たのですが……」
躊躇しながら口ごもった時、孝太郎はあっけに取られたような顔で割って答えた。
「待雪たら娼婦薬の事じゃろ?あんたも鎮めてもらったろ?何が、一番聞きたいつって知らなんだんか?」
娼婦薬……。娼婦?
待雪を娼婦と言った孝太郎の言葉に何と答えたのかはわからなかった。
ただそれ以上は何も聞けないままに孝太郎の部屋を後にした。
孝太郎は私の帰り際、酷く苦しげに発作に見舞われた様子であったが、私は心が裂かれるように苦しかった。
苦しさと混乱を埋める為、気付いた時には待雪の家の前に居た。
(一体なんなのだ……この村は……。待雪は……)
ふわりと玄関を開けた待雪は、誘うでも誘わないでもなく目だけで促した。
誘われるでも誘われないでもなく、すがるように家の中に足を踏み入れた。
待雪を抱きしめ、待雪に抱きしめられながら、私は果てた。
どの位の時間が経過したのかはわからない。
窓からは火葬場の雪が見えた。
「……楽になったよ。今だけは……」
単なる欲求の解消が心の安定に繋がっている事はわかっていた。
「私の事を誰かに聞いて来たんでしょう?いつでも来ていいのですよ。お力に……、いえ。お薬になります」
待雪はそう言って窓から山を見た。
火葬場を見ているのか、雪を見ているのか、私はそんな待雪を抱きしめた。
「山を見ているのですか?おばあさんが煙になった火葬場?それとも雪を……?」
この愛おしい女は何かの理由があって、その身を売っているのだ。
娼婦を商売としているのではない。
“薬”と言った。孝太郎も待雪も……
それを問う気にはなれなかった。
また、問いにする前に待雪が口を開いた。
「全部を見ているの……あの雪はもうじき姿を変えるわ。スノードロップと言う花に」
スノードロップ……待雪が葬儀の日にしていた花の話だ。
「スノードロップと云う花。“希望”“初恋の溜め息””慰め”。これはその花が持つ花言葉なの」
待雪は山を見ながら、私の腕の中、静かに話し始めた。
「その花にはこんな伝説があってね、昔アダムとイブはエデンの園を追われて雪降る冬の世界へ追い出された。欲に駆られて絶望と寒さの中へ追放されて、嘆き悲しむ二人の前に天使が現れたの」
そこまで話すと窓から目を離した。
「必ず、暖かい春がやってくると言って
天使は二人を慰めて、雪に手を触れると溶けた雪のしずくがスノードロップの花になったんですって」
少し馬鹿にしたような笑みを浮かべながらこちらを向き直り、
「私はね、その花が大嫌いなのよ」
そう言った待雪の顔は蒼白で雪のようであった。
私はその温度すら下げるような顔に僅かな身震いを感じた。
「花にはもう一つ言い伝えがあるの。昔色を持たずに悲しむ雪にね、自分の白い色を……色を分け与えたんですって。それ以来雪は白い色をしてるのよ」
物憂げに語る待雪にその話が重なるような錯覚を覚えたが、それ以上強く抱きしめる事が出来なかった。
「スノードロップは別名を“マツユキソウ(待雪草)”と言うの。これが私の名前の由来よ」
そう言ってまた笑みを浮かべた。