本編四 その女 2
昔を匂わす電話は黒いダイヤル式であった。
番号を指で回す事に苦はないが、ダイヤルがもとに戻る僅かな時間が自然と数分前の出来事を思い返させる。
近付いた時に香った女の匂いが、まだ鼻腔に残っているのか……
それとも女が掴んだ腕の残り香が意識を奪うのか……
そんな事を考えていると、電話口から聞き慣れた声が聞こえて俺の意識は鼻から耳へと移動した。
「もしもし、石上ですが……」
「ああ、俺だ。ちょっととある場所に寄っているんだ。急用があって今日は帰る事が出来ないようだ」
「あらそう。忙しいのね、まあいつもの事でしょうが。お疲れ様」
何年も共に暮らすと相手をわかったような気になるものだ。
家内の言葉には私を……
そして仕事を理解した上で話しているようでいて、てんで私に対しての興味がなくなっている節が滲み出ている。
信じている。と云うのとは違うのだろう。
私自身も家内に相談するつもりにはなれなかったのだから似た者同士と言う訳だ。
バスに乗り遅れたと言わなかったのは、私が“間に合わなかった”のがバスではない事と、不意の女の口付けのせいである。
そして女の口から出た言葉には妙な説得力があった。
「と……突然、びっくりしました。無理とは何がですか……?」
私は必死で言葉を発したが、頭では次の行動をすでに考えていた。
僅かな甘い下心。男なら当然期待してもいい場面であろう。
もうまさに体は女に向かって行きそうな具合であったが、次に出た女の言葉は予想した……もとい、期待した言葉ではなかった。
「驚かず、そして真面目に聞いて下さいね……。アナタはもう……発症しています」
空気感染する伝染病の一種であるらしいのだが、女は多くは語らなかった。
無論あの突然の口付けと云う行動の意味も聞きそびれてしまった訳だが……
ただ申し訳なさそうにこう言った。
「もうしばらくこちらに滞在していて頂けませんか?」
その時には、私のしゃっくりは止まっていた。
私が目覚めてから女はしゃっくりをしていない事にはその時には気付かなかった。
明確な理由はわからないが、空気感染の伝染病と聞いたからには家に戻って日常生活をする訳にもいかない。
家内へはどう言ったものかと考えてはみたが、興味なく返答されるのが落ちである事は容易く察しがついた。
そして思った通りのやり取りの末に電話を切ったのである。
部屋に戻る途中、またあの部屋からは香の匂いが漂っていた。
あの目に見られる事を考えると、もう一度中に入る気にはなれなかった。
が、香が前と違う物なのか、匂いがやけに心地良く感じた。
止まったしゃっくりがぶり返す事なく部屋に戻ると、布団が綺麗に敷かれてあり、そこに女が座っていた。
女は布団の中で初めて自分の名を名乗り、私の名を聞いた。
快感のなかで聞いた女は名を“待雪”と言った。
不思議な感覚の中で見た待雪の身体の美しさに私は我を忘れて溺れた。
待雪は私に抱かれながらも、包容するように私を抱いた。
私が村を離れられなくなったのはその夜からであった。