本編四 その女
本編四 『その女』
「……さん」
………
「……えさん」
………
「お前さん」
女の優しい声が耳に入ったのは夢の中からだった。
眠りにつく間際の妄想と、夢の中の彼女、そして現実でかけられた声とが妙なバランスで重なり合い、私の頭を願望で満たしていた。
少し驚いたような顔をした女がかえって欲求をそそる。
原因は私が伸ばした手が女の腰に巻き付き、寝たままの姿勢の上に引き倒したせいであった。
首筋に手を這わせ、うなじを軽く掴み、顔が僅かな距離に迫った時、女からほのかに香る匂いが私の目を完全に覚ました。
「あっ……いや、すみません。今、私……寝ぼけていたみたいで……」
滑稽と言うにはあまりにもの醜態である。
「お体の具合は如何ですか?」
女はあまりにも冷静にそう尋ねるのだが、確かにこんなに寝入っていては体調を心配されても致し方がない。
それにしても寝ぼけていたとは言え、襲いかかろうとした見も知らぬ男に対して、叫び声一つ上げず気丈な女である。
「体調は大丈夫ですが、本当に申し訳ありませんでした」
何とも気まずい思いであるが、女はにっこりと笑って、
「そうですか。それでしたらお夜食お持ち致しますね。今日はこちらで召し上がって下さいな」
そう言って何もなかったかのように部屋を出て行ってしまった。
妙な気分になりはしたが、私としては何にしろ事なきを得たといった所である。
それにしても、帰宅予定日を今日と告げていた事すらすっかり忘れて眠りこけていたのである。
家に一報入れようと開いた携帯は電波が途切れていた。
食卓を分けられたとは言え、夕食はやはり豪勢な物であった。
造りは勿論、猪の肉等都会ではあまり口にしない物まであり、昨晩と同じように澗酒も用意されていた。
女は相変わらず愛想よく振る舞ってはいるが、よくよく考えると全くもって厚かましくも失礼なのは私である。
ほんの一晩の寝床を借りるつもりが大層なご馳走を頂き、用意してくれていたメモ書きの時刻も忘れて眠りこけ、果ては寝ぼけて襲いかかり、今こうしてまた目前に馳走を用意されている。
一体どれだけど厚かましく世話をかけるのだと考えると、先程の失態も合わせて実は迷惑が過ぎるのではないかと妙に気になり出してきた。
女は衣服の袖を手の指までくっと伸ばし、熱くなった銚子を摘んでこちらに差し向けていた。
「本当にご迷惑ばかりおかけして……何と言ったらいいのか……」
そう言いながらも猪口を差し出す自分がどんどん非礼を重ねているような気になるのだ。
「お気になさらずに、さあ、どうぞお」
トクトクと満たされる酒から自然と視線は外れ、女の首筋、胸元に目が行ってしまう自分を止められないでいた。
何と色欲の強い事か……
ふと見上げると女もこちらをじっと見ており、はたと目が合った。
見つめ合う度胸等到底ない私は、慌てて目を逸らしながらあたふたと話題を変えた。
「あ、あのですね。で、電話を…ひっ……後でお借り……ひくっ…ひっ…ひっ……、あれ?お借りしたい……ひく」
自分の異変に気付いた時、それとほぼ同時に、何故か女の唇が私の唇と重なり合っていた。
私は目を見開き……、女は瞳を閉じていた。
もう何が起きたのかも忘れ、それ自体がどうでも良い気持ちになっていた。
無言の数十秒……
不意の口付けはまるで即効性のある麻薬のように、私の身体と頭を癒やし我を忘れさせた。
抱きしめたいと云う欲望すらかき消し、いつのまにか私も目を閉じていた。
私がやっとの思いで目を開く事が出来たのは、互いの唇が離れ、女の声が聞こえた時であった。
「やはり無理でした……遅かった……」
まるで何かをはなからわかっていたような口振りで女はそう言った。