one for all,all for one
「沢山の人を殺すのと、一人だけ殺すの。お前はどっちを選ぶ?」
ニヤニヤと笑いながら彼はそう訊ねた。
僕はそんな問いに対して「誰も殺したくないよ」と答えるけど彼は鼻で笑って一蹴した。そしてこんなことを言う。
「誰も殺さない、なんてお花畑みたいなことは生きてる以上無理さ。人間ってのは面倒なもんで、生きてるなら誰かしら殺さなきゃいけねぇ。ああ、勿論豚やら魚やらを殺すって意味じゃねぇ。人間が人間を殺すのさ。なぁに、難しく考える必要なんてないさ。この世界は誰かの屍の上に成り立ってるとか、今こうしてる間にも誰かがどこかで死んでるとか、そんな偉そうな話をしたいわけでもねぇんだ。ただ、生きていく上で誰かを殺すっつーのは必要不可欠なことだから、選べるとしたらどっちを選ぶのか、単なる好奇心で聞いてるだけなんだよ。さて、そんじゃあ、もう一回聞くぜ? 沢山の人を殺すのと、一人だけ殺すの、お前ならどっちを選ぶ?」
僕は黙った。ここまで言われてしまえば選ばないわけにはいかない。絶対に選べと圧力をかけられまくっている。
そして僕は、その圧力に屈する。抵抗する気はあまりない。
沢山の人を殺すのと、一人だけ殺すの。そこにはどんな違いがあるのだろうか。一人殺してしまえば、あとは罪の重さが人数に比例するだけで沢山の人を殺したって大した変わりは無いような気がする。
まあ、そんなに何人も殺すエネルギーがどこにあるのかって話なんだけど。
「エネルギーなんて必要ないさ。生きてさえいればいい。生きていれば人間は呼吸をするように誰かしらを殺しにかかるのさ」
物騒にも程がある世の中だ。どんな世界だよ。
生きているなら誰かを殺すなんて、そんな殺伐とした世界に僕たちは生を受けているのか。嫌な世界だな。
……まあ、彼の言わんとすることは分かるんだけど。
だから、これが突拍子もない話ではないってこともわかるんだけど。
「ああ、その通りだ」僕の心を読んだのか、彼は満足げに言った。「俺は一言も物理的に殺す、なんて言ってないんだぜ」
物理的、というよりは肉体的に、と言った方が正しいのだろう。彼が言いたいことは、つまりこういうことだ。
「何かを我慢する。感情を閉じ込める。精神的に傷を作る。そういうのだって全部、人間を殺す一手だよなぁ?」
生きている以上、人間は人間を殺す。それは無意識だろうとなんだろうと永遠に続く。
じゃあ、前提が定まったところで最初に戻ろう。
沢山の人を殺すのと、一人だけ殺すの、どちらを選ぶか。
改めて考えてみると随分と印象が変わる。そして、『一人だけ殺す』ということがとても不可能なことのように思える。生きているだけで誰かを殺すのなら、無意識のうちに誰かを殺してしまうのなら、たった一人を犠牲にするなんてことは……
「出来るさ。簡単なことだ」
質問が質問として成り立たない。そう考え始めた僕に彼はそう言った。だけどその続きは言わない。どうやら自分で考えろ、ということらしい。意地悪だ。
「文句ばっか言うなよ。もう分かってるくせに」
口に出したつもりはなかったが、彼は不機嫌そうに言った。伝わってしまったなら仕方ない。答えは悩むまでもなくすんなりと出てしまっていた。
別に、彼は『他人を殺す』とは言っていない。そりゃあ、沢山の人を殺すのであれば必然的に他人を殺すことになるだろう。だけど一人だけ殺すなら、他人を殺す必要はない。『自分』を殺せばいいのだ。
「自分の感情をひたすら殺し続けて、欲望を殺し続けて、精神を殺し続ければいい。死にさえしなければ、そうやって生きていれば『一人だけ殺す』っつー選択肢をとったことにはなるよなぁ?」
まあ、そんなことをし続けてまで生きる理由なんてないだろうけどな、と彼は締め括った。そうだね、と僕は苦笑した。あんまり笑える話でもないけれど。
自分一人を殺し続けて生きる人生はどんなものなのだろう。そこまでしなければならない理由はなんなのだろう。
誰かが犠牲になるのなら自分が犠牲になる。そんな崇高な精神は本当に存在するのだろうか。僕はしないと思う。誰だって我が身が一番だ。当たり前だ、自分が死んでしまえば元も子もない。いや、殺し続けているだけで死んでいるわけではないからそこまででは無いんだけれども。
「回りくどいな。はっきり言えよ」
彼にだけは言われたくなかったけど、確かに結論を言わずにうだうだと回りくどかったので反省した。そして僕は言う。「僕なら周りの人を殺すよ」と。それから続けて、「だけど君のことを殺そうとは思わないよ」とも言う。
すると彼はくすぐったそうに「そうか」と微笑んで、それから消えた。正確に言えば、僕の中に戻っていった。
彼は僕。
僕は彼。
つまるところ、このやり取りはただの自問自答だ。ただ少しだけ考え方と人格が違う、僕と僕の自問自答。
彼を殺さないのは、僕を殺さないためだ。彼が死ねば僕も死ぬ。僕たちは決して切り離すことのできない関係だ。
だから周りの人間を殺す。生きるために、自分を殺さないために周りを犠牲にする。
目を開く。
彼の姿が見えていた、ということは、僕は今まで精神的な世界にいたということ。目を開いた、ということは、僕は現実世界に戻ってきた、ということ。
視界には一面の、美しい緑色の世界が広がっていた。
「殺したくない」とは言ったけど、「殺さない」と言った覚えはない。