第七話 《大丈夫だよ》
随分と適当なことを吐いてしまったと後悔している。明日、伴が部活体験に来る、だなんて、そんな保障まるで無かった。
むしろ、あり得ない。来るはずがない。相当辛い想いをしたんだ。よっぽどな事情が発生していない限り、来ることはない。
だから、来てほしいのではない。わかりきっていることを、いつまでも高望みするなんて無謀なことはしない。
俺は来させるのだ。
何のためか、なんて訊かれたら、きっと言葉が詰まる。悩んで悩んで、たどり着いた答えを吐いたとしても、出てくるのは『自分のためだ』の一言限りだろう。
伴 千穂理の一家が経営する、和菓子屋『榑林』のみたらし団子を、俺は何度も口にしたことがある。少なくとも、五十本は食べてきた。だが、そのみたらし団子を販売している和菓子屋が、伴の経営している和菓子屋だということを知ったのは、つい最近である。何故それまでその事実を知らなかったのか、となれば簡単で、出前でしか注文したことがなかったからだ。
あの三人組の伴の陰口は、よく美術部で耳にしていた。だから、あいつが最初に部活体験に来たときは、本当にまずいと感じた。
どうにかして帰らせないと、という使命感が、俺の身を焦らせた。そのせいで、つい酷いことをしてしまったのも事実。
けれど、今回はいつもの逆。絶対に帰らせてはならないのだ。
学校の放課後。俺はこのタイミングを待っていた。昼休みに彼女を説得させると、考える時間を与えてしまう。そうすれば失敗してしまうだろう。だからこのタイミングだった。
千穂理は荷物の支度をし終えて、教室を出た。そして右に曲がる。
この瞬間、千穂理が美術室に訪れないことがほぼ確定された。美術室への道のりは、教室を出て左に曲がって後に階段を昇るのが、最短ルートなのだ。
千穂理が階段を降り始める前に、仁一郎は言葉の中に針を隠して彼女に呼び掛けた。
「おい。どこ行くんだよ」
千穂理の足は止まる。しかし、こちらを振り向く気配はない。一度ため息をついて、背中で語った。
「帰るの」
見てわからない? と言いたげな口振りだった。それでも、仁一郎は間を置かせない。
「どうして」
向こうは知らないだろうが、理由なんて解りきっている。けれど、自分で言わせないと、話を持っていけないのだ。
千穂理が言葉を放ったのは、三拍ほど置いてからだった。
「理由なんて、何でもいいじゃない。私の勝手だし……」
だんだんと、声がお経を読むように暗くなっていった。
不意に、彼女が時折見せた沈んだ表情が、脳裏に彷彿される。
曇った感情を振り払って、
「なんか、嫌なことでもあったのか?」
いつもより優しい声音になってしまった。どうやら、乱層雲を完全に振り払えなかったらしい。
何より、意地悪なことを言ってしまったと思った。
ようやく、千穂理が勢いよくこちらを振り向く。その目に、特別な光も感情すらも無い。
「……どうして、急にそんな態度とるの?」
おもわず、背筋に悪寒が走る。
確かにそうだ。今まで散々なことを言って、してきたくせして、突然に慈悲を与えるのだ。そう言いたくなるに決まっていた。
千穂理は間髪入れずに続ける。
「ああ、そっか。古川くん、もしかして、グル? だから、私をいじめるために、いつもより優しく接してるんだ」
声が震え始めた。
怯えているんだ。心に不快と悲しみと辛さを埋め込む俺達に、間違いなく恐怖している。
俺は知っている。彼女には何かしらの、帰りにくい理由があることを。
そして、退路を完全に絶たれている人間が求めるものは、冷たい心を温もりによって溶かしてくれる『本物の優しさ』だ。彼女の言う、相手をいじめるための優しさ、レプリカとは違ったものだ。果たして俺に、そんなに強いものを持っているのだろうか。
「私、絶対そんなのに騙されないから」
千穂理の足は、階段へと運ばれた。それも少し速い。俺の言葉など、待ってはいなかった。
あと一言。一言で、あの足を止めなければならない。
今日限りなんだ。今まで辛かった分、今日だけでも絵を描くのを楽しんでもらいたい。今日だけでも、彼女に笑ってもらいたい。そう伝えてたいけれど、上手く言葉にすることができない。そんな勇気、持ってるわけがない。
ならば、もっと違う言葉で。伝えたい言葉よりも、濁った言葉で――――なにか、出ろ!
「大丈夫だよ」
一瞬、足が止まった。けれど一瞬は所詮、一瞬。また足が進みはじめる。
距離が開く前にもう一度、
「大丈夫だよ。今日、あのウザイ三人組はいない。美術部の部員、全員追い出した。だっ……だから、今日は」
今日は、いつもより、楽しめるはずだよ。
言えなかった。肝心な部分を、最後の最後で伝えることができなかった。
けれど、つい笑いそうになる。
伴 千穂理はその場で立ち尽くしていた。目を見開いて、じっと仁一郎を見つめていた。
「本当……?」
「嘘じゃない」
強く言った。叫ぶように、吠えるように。
「…………そっか。そうだったんだ。やっぱり」
小さく呟くと、千穂理は階段を昇る。ゆっくり、慎重に。
ここからだと、美術室はかなり遠い。本当に、遠くて、険しい道のりだった。よくもまぁ、上手くいったと思う。
仁一郎もまた、階段を昇る。置いてきぼりにしないよう、ちゃんと、彼女の様子を確認しながら。