第六話 《助け船》
千穂理が始めて部活に顔を出した、次の日のことだ。
昼休み。仁一郎は、二年D組の梅垣 大志のところへ向かった。
「相談がある」
率直に、仁一郎が告げると、大志は驚いたが、断ったりはしなかった。
場所を変えて、向かったのはグラウンドの隅。ここなら、誰かに見られることがあるかもしれないが、こちらからも誰かを見ることができるし、そもそも誰もやってこない。
梅垣はこの時点で、なるべく知られたくない話だということには気がついただろう。
「で、相談って?」
「……昨日、伴 千穂理が部活に来た」
言うと、梅垣は苦笑い。いつもみたいに、冗談を言う気にもなれないみたいで、
「それは……まずいな。だってあれだろ、美術部って」
「ああ……、宮沢と井上と山梨がいる」
この三人は問題児だ。ターゲットとなった人に嫌みをぶつけて面白がる。ほんの一部から、イのうえ、ヤまなし、ミやざわ、という三人の名字の頭文字を取って、『嫌みトリオ』と呼ばれている。
彼女らのターゲットの一人に伴が入っていることは承知していた。部活中によく、そのことについての会話を耳にしていたからだ。
「で、お前どうしたの?」
「はぁ……?」
仁一郎は面食らった。ふつう、伴に何があったとか、三人が何をしたか、について探るはずだろう。
「お前のことだ。助け船でも用意したんだろう?」
「……」
一度黙った。助け船、という表現が気に入らなかった。それではまるで、伴 千穂理のためを思って行動したみたいだ。
けれどそれは違う。俺は自分に及ぶ被害のことを考えて、行動した。情けなんて、これっぽっちもかけてはいない。
「……帰れ、と言って追い返してやった」
仁一郎はちらりと反応を伺うと、梅垣の腹を抱えて笑い倒れる姿が見られた。
「直球だなぁ」
「……でも、あいつ、帰らねぇんだよ」
へぇ、と梅垣はようやく興味深そうにこちらを見据えた。
どうして、と訊かれるのは分かっていたので、先に述べる。
「よくわかんねぇんだけど、どうしてもここに居たい、って言ってきたんだ。あいつ。
どうしてもここで部活をしたい、じゃなくて」
その時の彼女の寂しそうな表情については、言わないことにした。そのことを広めてしまうのは、さすがに、酷だろう。
「帰れない理由があった……というわけか」
自分で言葉にして、自分で頷く梅垣。
帰れない理由。おそらく、家庭に関することなのだろう。単純に、帰る行き先となれば、家しかありえない。
それに、あの家については、あまり触れていい気がしない。
「仁。あいつの家って確か……」
同じ考えにまで至ったらしい。
梅垣はそれ以上、口にはしない。『確か』という僅かな曖昧から、仁一郎の表情を見て、絶対という確信に変わる。
火が消えるような気持ちに陥りそうだ。
「だから俺もつい、ここにいていい……違う……ここで絵を描いてもいい、なんて口走ってしまった」
「いいんじゃねぇの、それ」
そうか、よかったのか。俺のあの選択は、間違いではなかったのか。
「ところで、あの三人にも、何か言ってやったわけ?」と梅垣は続けた。
「ああ。宮沢に、美術部で部活体験している間は面倒なことするな、って忠告……いや、約束した。あと、井上と山梨にも伝えておくように、とも」
宮沢だけ、直接面と向かって話したのは、あいつが一番往生際が悪いやつだから、ということは梅垣も理解していた。
ほんと、ガキみたいだと思う。人をからかって、嫌み言って、それで笑って。
でも、そんなガキみたいなことが楽しんだろう、きっと。わからないでもない。楽しくなかったら、時代遅れだとかで、無くなっているはず。それが今も続いているのは、そういうことなのだろう。
それでも、ガキの遊びを、いつまでも見ていられなかった。
「そっか。
……で、どうすんの、もし今日も伴が来たら?」
「絵を引き裂いて、二度と来られなくしてやる」
「……。それ、ひどくない?」
いやいやいやいや、と否定する梅垣を見て、仁一郎は目をそらした。
昨日はそれで追い返したなんて、絶対に言えない。
「仁。他人の絵を引き裂いても、なんとも思わないわけ?」
そんなはずないだろう。
正直、辛かった。でも、あいつがこれから何日も美術室に訪れることを考えると、面倒だと思った。
俺は他人の成果よりも、自分の負担の軽減を優先して選んだ。最悪だ。二度としたくない。もし自分の描いた絵が、赤の他人の手によって台無しにされる、なんて考えただけで、胸がズキズキする。嘔吐を催す。
けれど面倒なんだ。毎度部活体験をする度に、あいつを庇ってやれるほど、俺は善人なんかじゃない。
「仕方ないさ。あいつが美術部に参加しないだけで、俺に及ぶ被害はなくなる。美術部の悪質な噂が流れなくて済む」
「……それだけ?」
は、と間抜けな声を出してしまった。
「お前、本当にそれだけなの?」
「なにが」
まるで理解してくれない仁一郎に呆れて、大きくため息をついて、もう一度、
「美術部の悪質な噂を防ぐ、そんだけのためにお前、手間かけてんのかよ?」
そんだけ、ってなんだよ。それが十分な理由じゃないっていうのかよ。それとも、それ以上の理由があるって、何か察してるのかよ。
「言ってみ」
「…………。
あそこの和菓子屋、旨いんだよ……」
いい匂いもする、とまでは言わなかった。
梅垣がどうしてか、白い歯を出して無邪気に笑っている。
「そうかい、そうかい。んじゃ、がんばれー」
と軽く言って、グラウンドかろ立ち去る。手を振る梅垣の姿はゆっくりと校舎の方へ消えていった。
相談、のつもりだったのに、結局何もアドバイスすらもらえなかった。ただ一つ、いいんじゃねぇの、の一言くらい。
あとは話を聞くだけ聞いて、満足したら消えた。なんて自由なやつだ。
しかし思えば、相談といっても何を相談したいかなんて決まっていなかった。建前では相談ということにはなっていたけれど、本音はただ、伝えたかっただけなのかもしれない。
自分のしていることが、誰にも知られずに終わるなんて、認めたくなかった。
千穂理が部活体験に訪れた5日目。
帰り際、俺はあの三人に、こんなつまらないことを口にしてしまった。
「明日、伴が部活体験に来る。頼む、明日だけでいい。お前らは席を外しておいてくれないか 」
伴に迷惑をかけた罰だということにして、了承してもらった。