第五話 《苦手な匂いの子》
気づけば4日も、美術部の部活体験に通っていた。
2日目には、仁一郎から「また来やがった……」なんて苦い表情をされて言われたけれど、どうしたわけか、付きっきりで千穂理に絵の描き方を教えてくれて、でも最後には、絵を引き裂かれた。
3日目に訪れた時は、ため息をされて、その後も付きっきりで指導してくれたはものの、合間合間にしつこくため息をついて、また、絵を引き裂かれるであった。
4日目。始めは、何も言われなかったし、何も教えてくれなかった。部活が終了に差し掛かったときに、仁一郎は千穂理の絵を強奪しようと試みたが、今回こそは千穂理も抵抗した。結局、奪い合いでの反動で、千穂理の描いた絵は真っ二つになる。その時していた仁一郎の会心の笑みを、千穂理は忘れることはないだろう。
けれど、千穂理は5日目も、平気で美術室へと足を運ぶのであった。
部活は楽しくない。けれど、嫌いにはなれなかった。絵を引き裂かれたり、酷いことはされているけれど、その間は、彼女たちは寄ってこない。だから、居心地もそんなに悪くない。
扉を開ける。2日目までは、千穂理が教室に顔を出したとたん、突然静かになる彼女たちであったが、3日目以降、千穂理が教室の前に訪れる以前から、すでに教室には閑静な雰囲気が漂っていた。
そこは今日とて変わらない。
でも、何か足りない。
美術部の部員は、知る限り11人程度はいたはずだ。今日は5人しかいない。さらに付け加えるのなら、あのしかめっ面もいない。
最悪だ。なにが最悪かって、その5人のうちに彼女たちはいた。
やばい、何か、言われるかも。しかも、古川くんもいないし。――――って、何であんなやつに頼ってるんだろう。
千穂理は普段通り、一番奥の席に座った。リュックも机にもたれさせる。幸いにもこの席は、彼女たちとの距離が最も大きい。――――たまたま、だよね?
いつもの、クロッキー帳を開けた。新しい方のページを開ける。すると、中に紙切れがあった。文字も書いてある。
『今日はもう帰れ』
久しぶりに聞いた、いつもの嫌がらせ。
でも、どうしてだろう。いつもと違って、頼もしくなってる。
千穂理はゆっくりと、クロッキー帳を閉じた。今日はきっと、開けては駄目なんだ。今までと違って、恐怖に打ち勝つ勇気がない。
――――いいや、違うや。最初っから勇気なんて持ってない。彼に身を隠していたから、安全地帯にいたから、安堵していただけだ。
帰ろう。はやく、今日はもう帰らないと。
「ねー、なんかこの教室、変な匂いするんだけどー」
宮沢がわざとらしく仕掛けてくる。
最悪、また面倒くさいことになった。
「あ、それ私も思ってたー」
井上までもが加わった。
あーあ。これじゃあ、次は山梨の番じゃん。
「どうしてだろうね?」
山梨が言うと、三人共々含み笑いをする姿が、こちらから垣間見られた。
椅子から立って、リュックを背負い、千穂理は逃げるように扉へ歩いた。
彼女らは、それでも続けた。
「ねえねえ、伴さん?」
宮沢に声をかけられて、足が止まった。わざとじゃない。赤信号の時に自然と静止してしまうような、そんな感覚だった。
「いつまでも無視しないでくれる? あんたの匂い、ほんとに無理なの」
わざわざ告げる必要なんてないから。
君たちが私のこと、影で『苦手な匂いの子』扱いしているの、知ってるから。
「部活、明日から来ないでね?」
やっと、足が動く。
駆け足で、千穂理は廊下に飛び出た。教室を出た瞬間の、彼女らの「やったー、逃げた逃げた!」なんて嫌みは気にしない。気にしたら負けだ。
そうだ。気にしたら負けなんだ。あんなこと言ってるの、知る限りあの三人だけ。敵はたった三人。
―――部活、明日から来ないでね。
似たようなことを誰かに言われたことがある。そっか、敵は四人か。一人増えるのって、結構痛いな……。
見間違いではなかったはず。
廊下を走っていったのは伴 千穂理だ。向こうはおそらく、こちらに気付いていなかった。
小便を済ませた仁一郎は、ハンカチで丁寧に手を拭っていた。水分が十分に拭きとれたことを確認して、嫌々美術室に向かう。
あいつ、涙目だった。
あれほど言っておいたのに、面倒なことをしてくれた。
大きな隙間が空いた扉を開くと、中には5人しかいなかった。おかしい、一人足りない。いや、本来は二人なのか。
「宮沢、高山はどうした?」
「さぁ……? サボり?」
「だろうな……」
美術部の部員数は11人。そのうち5人は今日、学校展覧会という行事に向けての下準備を行っていたのだ。
あの女の、いつもの席を見てみる。もちろん、いない。それどころか、クロッキー帳が出しっぱなしで放置されていた。
砂を噛むような不快な表情で、仁一郎は置き去りにされたそれの、片付けにかかる。何の役にも立たなかった、紙切れを回収してから。
「案外、早かったんだね」
山梨に声をかけられたのはそんな時だ。あいつは賢い。多分、見透かされている。
「まぁな」
「でも、他の人ら、帰ってきてないよ?」
「……俺だけ、早く終わったんだよ」
「終わらせた、じゃなくて?」
「…………」
胸がちくちくした。早く話を切り上げたいのに、どうしても、伝えておかねばならないことがある。
こんなことをしても、無意味で不利益なのに、未だに抗おうとしている自分がいることに、馬鹿馬鹿しく感じる。どうせ、勘違いで終わってしまうというのに。
「お前ら、面倒くさいことすんなって、あれほど言っておいただろうが……」
いよいよ、刺を含んだ低い声で彼女らに言った。それでも宮沢は、依然として余裕綽々である。
「だって、あいつの匂い嫌なんだもん。思わない?」
『苦手な匂いの子』。それが、あの女がこの女たちから呼ばれているあだ名。幸いにも、そんな思いを抱いているのは、知る限りこの三人のみ。最も、宮沢以外は遊び半分と思われるが。
「知らねぇ」
「はい嘘。だって仁くん、めちゃくちゃアイツのこと嫌ってるじゃん。いっつも絵、破いてるし」
と、三人揃ってゲラゲラ笑い始める。
別に、お前たちのために、わざわざあんな真似をしてた訳ではない。お前たちさえ消えてくれれば、あんな事やあんな思い、しなくて済むのに。
「……いいか、約束だけは守れ。騒ぎごとにならないためにも、あの約束だけは守れ」
「はーい」
井上と山梨だけ言った。宮沢も、遅れて頷く。
あの女のいつもの席を見てみる。今の約束も、きっとこれからは関係ないだろう。
明日から、来ることはない。当初の目的は達成された。少し傷ついて、少し勘違いしてくれただけで済んだ。
いや、これは誤解などでは決してない。俺のあの言葉は紛れもない本心だった。だから、そもそも勘違いですらないのだ。
もう来んな―――ああ、間違いない。自らの心から飛び出た言葉である。
空席が一つ増えた。けれど、何故だろうか。
憂いが、体を覆っていた衣が滑り落ちるように消えることなど、無かった。