第四話 《アナタ》
今日の夕食は、いつもより喉を通らなかった。決して、美味しくなかったというわけではない。感情的な問題だったのだと思う。
千穂理が高校から帰って来たとき、千代は普段より明るく見られた。もちろん、部活のことにも触れられた。
「どこに行ったの、部活?」
弾みのある声だった。千穂理は瞬時ためらい、
「……美術部」
何がおかしかったのか、千代は腹を抱えてまで笑っていた。
「あんた、そんな趣味あったんだ?」
「違うよ。ちょっと、興味あっただけ」
そうなんだ、とだけ言って、それ以上は何も訊かれなかった。
美術部へ行ったと告げた時、一体どんな顔をしていたのだろうか。暗い顔だろうか。笑ってくれたから、案外、無邪気な子供のような顔をしていたかもしれない。やっぱり嘘、そんなはずない。
もうちょっと、何か質問してくれれば、こんな想いに身を焦がすこともなかったのに。
絶対、心配をかけてしまった。
冗談だったけれど、本当に明日、行こうかな。
電話が鳴ったのはそんな時だった。相手は誰だか、なんとなく分かっていた。
「はい、和菓子屋『榑林』です」念のため、慎みのある声で電話を出る。
『もしもし、千穂理? わたしだよー』
「あ、ミーちゃん? どうしたの?」
分かってるくせに、と千穂理は耳の中で聞こえた気がした。
『ええと、部活、どうだったのかな? って思って。そういえば、何部に行ったの?』
ようやく訊いてくれた。千穂理は、先程よりもなるべく活気のある声で、
「美術部」
『え、うそ、美術部!? いいなぁ……それじゃ、仁一郎くんもいたんだよねっ? 』
「まぁ……ね」
いいなーいいなー、と羨むミーちゃんに、仁一郎の本性を一から十まで教えたかった。
クラスでは、仁一郎は隠れた人気者みたいなもので、あんまり喋らないだけなのに、クールだとか大人っぽいとか言われてる。んなわけ、ないじゃん。
けれど、そんなこと言えない。ミーちゃんは古川くんのことを気にかけている。好きなのかどうか尋ねたときは、「好きじゃないよ。見てるだけで十分」なんて言っていたけれど、本音とも思えなかった。
顔が良ければ誰でもいいんだ、なんてのも、言えるわけがなかった。宮沢さんのことなんて、もっとだ。
『で、楽しかったの?』唐突だった。
「あんまり……」
帰れと言われたあげく、出来上がった作品を粉々にされたことも、どうしても言いたかった。
『ほんとに? いいんじゃん、美術部。千穂理、絵、上手いし』
絶対にないよ、ミーちゃん。だって今日、「ごみ」ってはっきり言われたもん。
本当は、絵を描くことに自信があって、部活体験をしようと思った。でもその自信も今日で終わり。作品と一緒に粉砕されてしまった。
「ううん、美術部はダメっぽい」
『そっか、なら……しょうがないか。明日も行くでしょ?じゃあ、明日はどこにするの?』
また、だ。
また、アナタは私に情けをかけている。
だって、仕方ないじゃん。お母さんはたった一人で、この店を経営をしているのだから。
「まだ、考え中……」
『……わかった。じゃ、明日もまた、相談しよ?』
「うん」
それじゃまたねー、と変わりやしない朗らかな声音が聴こえたところで、通話は途絶えた。
明日も。明日も。この言葉を、いつまで浴び続ければいいのだろうか。
私の名字が『榑林』から『伴』に変わったときからずっと、アナタは私を気遣っている。
私はどうしても、その時だけは、親友とは思えない。他人だとさえ、思いたくなる。
私はお母さんが大好きだ。だから、助けてあげたい。さらに、それ以上に、和菓子を作るのも大好きだから、手伝いたい。
アナタは、『自分が親だったら』可哀想だと思うのかもしれないけれど、私は不満なんてないんだよ。
でも、言葉にすることができない。そんな勇気、持ってるわけがない。
翌朝、千代は「やりたい部活なさそうなら、無理しなくていいよ」と笑って、千穂理に言ってくれた。もちろん、頷いた。
千代は今でも、千穂理が和菓子をつくるのを好んでいることを、ちゃんと理解しているのだ。
そしていつだって、千穂理に気を遣っている。好きなことをして欲しいと、願っている。
そんなこと、千穂理は当たり前のように、知っていた。だからもう少し、好きなようにさせてもらうとしよう。
結局、その日もまた、美術室へと向かった。
だって心配なんて、かけさせたくないからさ。