第三話 《もう来んな》
扉の前まで来たとき、一度立ち止まった。教室を間違えていないか、学級表札を確認する。
『美術室』。
大丈夫。間違えていない。むしろ、毎週授業でここへ訪れているのだから、間違えるはずがない。
人気がなく閑静な廊下とは一方、教室には誰かと誰かのはなし声、はなしを聞いた誰かの笑い声、笑い声から広がる明るい雰囲気が扉越しでも伝わってきた。
ますます入りづらくなった。やっぱり帰ればよかったかも。
でも、ここで引き返せば、帰ってお母さんに何か言われちゃう。それもいやだなぁ。どっちにしろ、悪い結果になってしまいそうだ。
どうにでもなれっ。そう意気込んで、千穂理は扉を開けた。
「失礼します」
突然、雰囲気が止んだ。誰かと誰かのはなし声が、ボソボソとしたはなし声に変わる。誰かの笑い声が、誰かの含み笑いに変わる。厄介者はここにはいらないんだ、と彼女らの目が語っていた。
別に、気にするもんか。千穂理は何度も言い聞かせる。
突然、背後で声がした。
「おい、お前」
肩がびくっ、と震えた。とてもきつい言い方だったので、慎ましくして振り返る。
「……え。古川くん、だよね……?」
知っている人だった。クラスメイトの古川 仁一郎。話したことはなかったけれど、何度も聞いた名前だったから、簡単に口から出てきた。
「そうだけど。なんか用?」
うんざりした声だった。この人は、いつもこんな感じらしい。
「あの……部活体験で来たんだけど」
「あぁ、今日来るのって、お前だったんだ」
忌々しそうに言って、頭をかき乱し始める。あらかじめ、千穂理は美術部担当の先生に許可を得ていたので、話は聞いていたのだろう。
仁一郎は軽く顎を上げて、教室を見渡した。すると、良いものを見つけたように、あっ、と声を漏らす。
「じゃ、あそこに座れ」
指差したのは教室のいちばん奥。周りに特に人はいない。確かにあそこなら、部員の迷惑にならなさそうだ。
千穂理は黙って、指定された席に座ろうする。対して、仁一郎は鉛筆と消しゴム、あとクロッキー帳を持ってきて、千穂理の前の席で逆座りした。
「お前、選択科目で美術とってたよな。絵、描くの好きか?」
予想外な質問に驚いた。てっきり、いきなり絵を描かされて、小難しい表現技法とかを教えられるのかと思っていたのに。
「絵を描くのは……嫌いではないし、でも、それほど熱中できるかどうかは微妙っていうか……」
「つまり、好きではないんだな?」
遮るように、矢継ぎ早に訊ねてきた。
「お、おそらく……」
「そうか。お前もう帰れ」
…………え?
千穂理がぽかんとしていると、顔をしかめた仁一郎がさらに強く言った。
「ほら、はやくしろ。お前、もう来んな」
冗談を言っているようには思えなく、困惑した。千穂理が席を立つと、それと同時に仁一郎も腰を上げ、「はやく」と、せかして千穂理を促す。
でも駄目だ。ここで帰ったら、きっと、
「ごめん。私、どうしてもここに居たい。だから、もう少しだけ……」
徐々に、千穂理の言葉は小さくなっていく。仁一郎はめんどくさそうに、また顔をしかめた。
椅子にお尻をつけ、仁一郎はうなだれる。「あーあ」とわざわざ口にして、溜め息までついた。
なんて嫌なヤツ。
「……わかった。いいよ、ここで絵を描いても……」
座れよ、と付け足して、仁一郎の渋かった顔がほんのり和らぐ。目線はどうしても千穂理とは合わない。
それから、千穂理が何をすればいいかとと訊ねれば、仁一郎は黙って教室にある本棚から、なにやら資料集のようなものを取り出して、千穂理の机に広げ、仁一郎以上のしかめっ面、『タウンゼント・ハリス』を模写しろと言い出したのだ。それも、お前の好きなようにと。
それだけして、仁一郎は部員の宮沢に呼びかけて、美術準備室へと入っていった。
宮沢も同じくクラスメイトだ。教室で一緒に会話をしているところを見たことはないが、同じ部活ということもあって、仲が良いのかもしれない。
見てみれば、美術部の部員のほとんどが女だ。となれば、そういう関係が部活内で生じていても、おかしくはないと思った。
まぁ、どうでもいいけど。
芯が尖った鉛筆を握り、いざ、模写に取り掛かる。
楽しかれ、楽しくなかれ、きっとこの部活には入らないだろう。いくら、入部を強いられていると云えど、避れるものは避けたい。ちゃんと事前に確認すべきだった。
私は宮沢 有美が嫌いだ。向こうも、私を嫌っているからだ。だから心地悪い。
帰りたい。けれど、帰ったらお母さんに怖い顔を私に向けられるだろう。それは嫌だ。もっと嫌だ。
とにかく描くことだけに集中して、千穂理は手を動かした。何も考えないように、クロッキー帳以外に目を向けない。
そうすると、時間はいつしか五時半を優にまわっていた。千穂理が原則された下校時刻まで残り三十分も無いことに気が付いたのは、仁一郎が声をかけた時だ。
「おい、描けたか?」
覗くように訊いて、ハリスの顔だけ完成していたので千穂理はそれに頷く。ふーん、と興味のなさそうな声と共に、仁一郎は強引にクロッキー帳を奪った。
クロッキー帳から、千穂理の描いた絵を切り離す。
「…………」
仁一郎はぼんやり、絵を見つめる。ごくん、と自分の唾を飲む音が聞こえた気がした。
「ごみ」
と言うと、仁一郎は画用紙をビリビリィ、ビリィィと引き裂き、さらにもう一度、加えてもう一遍、形が十分に無様になるまで破り捨てた。
美術部部員の「うわぁ……、また仁くんが意地悪なことしてる……」という憐憫の混じった声も上がる。
「え、ちょ、な……なにしてんの!」
言葉が上手く紡がない。千穂理が慌てて叫んだときには、すでに画用紙は二進も三進も行かない状態だった。
「しまった……ごみはちゃんとゴミ箱に捨てるべきだったな」
「……ふざけないで」
声が震えていた。けれど、仁一郎の口元はニヤリとしたままだ。
「分かっただろ。大してやる気の無いやつに、良い作品は作れねぇし、作らせねぇ。生半端な気持ちで描くなら、さっさと帰れって言ってんだ」
良い作品をつくりたいから、部活体験をしているっていうのに……、と千穂理はどうせ言い返されると思って、言わなかった。
最初っからこうするつもりだったんだ。ほんと、なんて嫌なヤツだ。
刺が埋まった口振りで「わかった。もう帰る」と返事する。
「明日はもう来ないよな?」
確認されて、当然……と言いたいところだったが、千穂理はあえて、
「来て欲しいの?」と冷笑する。仁一郎は身を凍らせた。
「来んな」
「じゃあ行こっと」
「おい、ふざけんな!」
声は部屋中に響く。見たかった光景を見れて、千穂理は笑いそうになり、どうにか堪えた。
仁一郎を無視して、教室から立ち去る。同時に、ほっとした。廊下を通る風邪が、やけに涼しい。
嫌いなら嫌いとはっきりいえばいいのに。
自分が大勢から憎まれていることを改めて実感した。私、何も悪いことしてないのに。でも、
「別に、気にするもんか」
今度は声に出して、言い聞かせた。