第一話 《1990年のある朝》
伴千穂理が布団から身を起こすと、控えめの甘い香りが、彼女の鼻をやさしく突くことは日常茶飯事である。この感覚を味わう度に、一日が始まるだと実感させてくれるのだ。
制服に着替えてから、階段を降りて厨房へと向かった。部屋に足を踏み入れるより前から、そこには一段と強まった甘い匂いが充満してる。
匂いの源には、母の千代がいた。
「おはよう、お母さん」
「おはよう」
昨日は夜遅くまで働いていたというのに、母の表情には眠気を催しているようには感じられない。日頃の慣れの象徴的と見られた。
「あ、それ栗羊羹?」
「栗蒸し羊羹ね」
実は尋ねる以前から、匂いの正体は小豆のほんのりとした香りだということには気づいていた。
なるべく厳選された素材と、千代の捻られた製法によって作られたその羊羹は、美しい色艶を引き出していた。千穂理には真似できない芸当だ。
千穂理は清々しい声音で、「いい匂いを嗅いだからお腹へった!ご飯作るね」ぱぁ、と喜色を湛えて言った。
手短に、そして美味しくいただきたかったので、食パンを焼き、物足りないのでハムエッグも作りはじめる。傍らで目を凝らしながら作業をする母の動きを、ちらりと伺いながら。
私は母が大好きだ。母が作る和菓子も、もちろん大好きだ。どちらかと問われると少し悩むけれど、やっぱりお母さんだと思う。悩んでしまうのは子としてどうかと思われるかもしれないが、お母さんのつくる駄菓子は私にとっての『もう一人のお母さん』なのだ。自らの手で、あの大好きなものを完成させたいと、母の一生懸命な姿を見るたび思うのだ。
卓袱台に芸のない朝食を並べる。支度ができたので、母に呼び掛けた。
「お母さーん。食べよ」
「はーい」
千代は卓袱台に駆けつけた。そして、千穂理の飾り気のないものを見て、ほんの少し口が笑う。
「いただきます」
素早く箸を取った千代は、大きく一口、ハムエッグを口に頬張る。
「おいしい!」と、千代は口に含んですぐにそう言った。
ハムエッグくらい誰がつくっても同じだよ、千穂理はそっと心のなかで思う。
千代は口に含まれているものを無くしたあと、改まった声で言った。
「千穂理、あんた部活どうするの?」
意外な話を持ち出されて、心がざわめく。
「部活? こんな時期に?」
「……やりたいこととか、無いの?」
訊ねられて、何にもわかってないんだな、と思った。言いたいことを、懇懇と口にする。
「私、今みたいにお店のお手伝いがしたいの。だから、別に部活なんて」
「それは分かってる。でも、いろんなことに挑戦してみたら? せめて、部活体験だけでもすればいいわ。案外、気に入った部活が見つかると思うし」
それは分かってる、と言われても、全然理解されているようには思えなかった。まるで、母の居場所から追い出されるようで、疎外感を覚える。
これ以上は何も言わないでくれ、と願っても、
「無理して、気を遣わなくてもいいんだからね?」
温もりのある、決して打算的ではない慈悲の言葉。本来ならそう受け入れるべきなのかもしれない。けれど、千穂理はそれが、遠回しな謝絶なのだと受け取ってしまう。
私の母は相変わらず、何にもわかってくれていない。
千穂理は何も返事をせず、朝食を進めた。半熟でできた目玉焼きの黄身に、特別な味はしない。
和菓子屋『榑林』。その経営親子の一日の朝は少し、一方的な摩擦が生じていた。