6『散り行く休息の花』
「どうしたんじゃ?」
レストは驚いた顔で少女を見ていた。
少女が体中に傷を作って帰って来たのだ。露出している腕には、たくさんの赤い筋が出来ていた。
「おやおや、一体何があって…。」
婆さんはそうやっていいながらユフィリの元へ駆け寄り、全身の傷を調べ始める。
ワンピースのボタンを外すと、ところどころに青あざが出来ていた。
「……………。」
ユフィリは特にこれといった表情も出さずに、傷の様子を見ているレストの言葉を聞いていた。
「お前…どうしてこんなに傷だらけなんだい?」
「…石を投げられた。」少女は答えた。
「こんなになるまで…。」
老婆は言葉を失う。
「相手は私よりも弱かった。よって、私は抵抗するべきではないと判断した。頼まれた品物は無傷で持ってきた。」
そういうとユフィリは籠をレストに渡した。
レストは目を見開くと、首を横に振った。持つ手を失った籠が床に落ちて、中に入っていた果物が転がる。
「お前は…お前はどうして自分を大切に出来ないのかい。」そう言ってレストは少女の両腕に手を添えた。
その問いかけにユフィリはどう答えることも出来なかった。自分というものが分からない少女にとってその問いは愚問に過ぎなかったのだ。
「自分より弱い強いが関係ありますか…!ユフィリ…お前はお前なのじゃよ。大切な命がきちんとある…。」
老婆は<命>という言葉を強く強調し、ユフィリを抱きしめた。
少女は突然のことにたじろぎ、身体を強張らせる。意味も分からないまま、しばらく抱き締められたままでいた。
「…さて、薬を取ってくるから椅子に座って待っているのじゃよ。」
暫く経ってから老婆は腕の力を抜いて少女を解放すると、立ち上がって奥の部屋に移動していった。
ユフィリは少し首を傾げて考えた後、結論が上手く出なかったので円型の食卓に向う。椅子を引いて、ストンと座る。
テーブルの上に綺麗な花が飾られていた。花瓶に薄い紫の花…一つ一つ小さな花が集まって、大きな花に見える。少女はつんと指先で花を突いた。
可愛らしい花は小さく揺れる。
「ユフィリ。薬が見つかった。遅くなって申しわけないの。」
「…………。」
ようやく見つけた巾着の袋を片手に持ち、老婆は少女に呼びかけた。
ユフィリは花に興味津々で全く気付いていない。表情こそは出ていないが、好奇心ゆえにそれを見ているのは分かった。細い指で花びらを突いては、見る角度を変えて観察している。
「エリカの花じゃよ。」
レストは言った。
「しかし、不思議なこともあるものじゃ。その花はすでに枯れていたはずなのじゃが…。」
「花…にも名があるのか?」
ユフィリは花から目を離して、老婆に問う。
「ああ、そうじゃよ。」
「エリカ…。」そういうと、少女はまた食い入るように花を見つめ始めた。
「やれやれ、傷の痕が残ってしまうよ。はやく腕を出すのじゃ。」
「…………。」
ユフィリは間を空けてからしぶしぶ腕をレストに出した。
「む…?」
レストは目を疑った。おどろきで声が漏れる。
さし出された腕は血が通っているのか疑わしいほどに白い。美しい腕だ。
「青あざはどこじゃ…?怪我は…。」
「治った。」若干、老婆の言葉に重なるようにして少女は答えた。
「そんなはずは…!」
あわてて服のボタンを外して確認しても、体から傷は消えていた。
「お前が帰ってきて小一時間ほどなのじゃが…。」
「…そのくらいで負傷などすぐに治る。」
ユフィリは自分でボタンを戻しながら言う。
「お前の長所を見つける事が出来たよ。」
レストは大きく口を開けて笑って見せた。
「レスト。酒樽は此処に置いていいのか?」
小さな少女は片腕で肩に背負うような形で、大きな樽を持っていた。
それには、一人では到底飲み干せそうにないほどの葡萄酒がなみなみと入っているのだ。
「おお、それは…私の所まで持ってきておくれ。」
「分かった。」
特に苦も無い表情で、少女はレストの所まで樽を運ぶ。
「うむ。此処に綺麗に積むように置くのじゃよ。」
「いいや、そこは野菜売りから譲ってもらった南瓜を置く予定だったはずだ。他に酒樽を置く場所は?」
「はて、そうだったかの…。」
「そうだ。二日前に貰ってから、家の裏に置きっ放しになっているだろう。動物に食い荒らされる前に運ぼうと言っていたではないか。」
「おお、そうじゃったそうじゃった。置く場所はユフィリに任せておいた方がいいのう。」
違和感なく流暢に話しているのは、ユフィリだ。わずかな時間で言葉を習得し、さらには意見するまでに言語力を身につけたのだ。
ユフィリはなるべく音を立てないように、そっと樽を置く。迅速かつ丁寧な作業を求めている少女は、非常に慎重に物を扱った。
まだまだ、外の荷車には酒樽が積まれている。
それを地下に運ぶべく、少女は光が零れる階段を登る。
裸足の足が、石畳の冷たい階段にペタペタと音を奏でた。
二人は大きな町で売る物を整理していた。
森の奥では、果物が豊富に採れた。大いなる自然の恵みが大地に果物を実らせたのだ。それを、村での取引に使ったり、酒にしたり、少し遠出に出て町で売ったりと…さまざまな所で使う。二人で生きていくには申し分のない収入で、常に安定していた。
老婆一人では難しかった事も、少女が加わったことで可能になった。
ユフィリにも、老婆にもデメリットは無い。ユフィリは居場所を、レストは安定した生活を手に入れたのだ。
少女の考えることはどんどん深く、現実的になっていく。己が導き出した答えに自信があるからだ。老婆が初めて出会ったときには考えられなかったほどに、理性が発達して、冷静な判断力にも長けている。
ユフィリは階段を登りきり、レストの家を見回した。
大量の荷物のせいで空の木箱やら足の踏み場も無い惨状だった。
「やれやれ…最初から片付ければ…。」
少女の息は盛大に吐き出された。すでに厭きられたように、独り言を言う。
「皆、少し手伝ってくれ…。」
それは、誰に向けて放った言葉なのだろうか。ユフィリの言葉は金属を叩いた時のような反響。囁き声となって消えていく。彼女の右の瞳は黄金に輝いて…それが事を起こしているようにも思えた。
青き少女の声は、風に乗って森にも届けられる。しかしそれは決して大きい声というわけでもなく、むしろ木々の葉が擦れる音にも似ていた。何度も何度も復唱しているかのように響いていた声は、聴覚が敏感な動物たちにも容易に届く。
レイスの家に一番に訪れたのは小鳥達だった。囁くような風が通る開けた窓から、舞うように入ってきたのだ。楽しげに言葉を交わす陽気な鳴き声が家に響き渡る。
ユフィリの瞳に、少しだけ光が灯ったような気がした。人差し指を一本差し出せば、その内の一羽の小鳥が待ちかねたように止まる。
「すまないな。どうか、そこの布をたたんで欲しいんだ。」
ユフィリは腕を布に向かって振り、小鳥達に命じた。なんの不平もなさそうに動物たちは働き始めた。器用に連携しながら布をたたむ様は、とても不思議な光景だ。少女もふうと息を吐き出すと、高価な鉄類が入った箱を持ち上げた。
ふと玄関を見やると、栗鼠達が小さな身体を素早く移動させてやってきていた。その胴体と変わらぬ大きさの尾を揺らし、自分たちにとっては大きなその少女を貪るように見上げている。
「栗鼠…は実の選定を頼む。」
ユフィリは籠いっぱいに詰まれた異なる種の木の実を指差した。栗鼠達は迷わずにそこに走って行く。窓から差し込む光に照らされて輝く実は、新鮮で美味しそうだ。そんな立派な食料はすぐに栗鼠の頬袋の中へと直行しそうなものだが…どうやら大丈夫なようだ。
重たい箱を片腕で持ち、ユフィリは外に出た。
少女が外に出ると待ちかまえていたのは子供たちだった。
「わああ!来たぞ!」
子供たちはきゃーきゃーと叫びながら、道端で拾った小石をユフィリに向って沢山投げる。ユフィリは荷物を落とさないように片腕から両腕に切り替えた。そのおかげで背後はがら空きになり、石が散々に当たる羽目になる。
「…荷物が傷ついてしまう。石を投げるのをやめてくれないか?」
ユフィリは子供たちにそう言い放った。
「やめろって言ってやめるような人なんていないよー!」
「お前目の色が右と左で違うから気味が悪いんだよ!」
小さな子供たちは口々に言い返す。
「耳もこーんなに尖ってるものね!」
一人の女の子が腕をいっぱいに広げて、ユフィリの耳が人と違うことを表現する。その子供たちとユフィリの大きさは変わらない。年齢もさして同じように見える。
少女は考えたことがある。
何故このように、己は人に忌み嫌われるのか。
この耳は瞳が関係しているのか。
そして自分だけで理解した。
己は人と違うこと。人は違うものを嫌うこと。
ただそれだけだ。下賤で下等な者たちは所詮そのような考えしか生まれない。
ユフィリは群がる子供たちをじっと見つめた。
「うわっ!こっち見た!」
男の子が大きな声で言った。ほかの子供たちも便乗し、少女を指差して罵る。子供ゆえの残酷さが滲み出ていた。
「貴方、魔女なの?お母さんが言ってたわ!」
「今年の作物が上手く育たないのはお前のせいなんだよな!」
さらに石による攻撃が続いた。ユフィリは溜息をつく。このままでは作業がなかなか進まない。根拠の無いことばかりを言われて相手をするのも面倒だった。
「避けてくれ。」
少女が低い声で告げると、子供達はごくりとつばを飲み込んだ。
ユフィリの鋭い瞳には威圧の念が込められており、その瞳を見るもの全てを萎縮させた。
「もういこうよ。」
「そうだよな…。」
子供達はせかせかと森の木の奥へと走り去っていった。
ふうとユフィリは息を吐いた。
あれは良くこの時間帯にやってくる。いつも同じように私に石やら物を投げつけては喜ぶ。それは非常に愉快なようで。欠かせないようで。きっとまた明日にも来るのだろう。
まだ見える子供たちの姿を視線で見送ると、ユフィリは俯く。自分では整理がつかない何かが思考に靄を残しているのだ。己が他と違うことには理由があるに違いない。しかし…何も何もかもを…私は忘れてしまっている。
胸が痛み、瞳が視線をちらつかせた。石をぶつけられたせいと考えたが、そうではないらしい。どうしようもなく…途方もなく…広い空間。そのなかに放り出されたような浮遊感にとらわれる。
どんっと大地が揺れた。風が一瞬吹き、静まる。そしてまた吹き荒れて、また静まる。一定のゆったりとしたリズムを刻んでいる…音。それは空から響き渡るようにして突然に現れた。気付いた時には、まだ小さかった風が激しく木々を揺らすようになっていた。
ユフィリはまた来るはずの地面の揺れを警戒しながら、家に入ろうと試みる。レストに早く忠告をしなければいけない。
…空から聞こえてくるあの音は…。
温かな太陽の光が遮られた。ユフィリははっとして空を見上げる。
…この地に大きな影を写していたのは…。
少女は理解した。
その瞬間、頭に鈍い衝撃が走る。身体は言う事を聞くまもなく…倒れた。
目が覚めた時、横向きに体が倒れた状態だった。最高に目覚めは悪い。そして視界いっぱいに広がる多量の…葡萄酒。ユフィリはクンと匂いを嗅いだ。これは葡萄酒ではなく、己の血だ。頭に鋭い…痛み。生きている証を感じる。どうやら、あれに家を壊された際に屋根の一部が私を襲ったのだろう。
腕で身体を支えながらむくりと起き上がり、広がる光景をぼうっとただ見つめた。ユフィリの周りは残骸ばかりだった。『家』は既に役目を果たせない。
無残にもレストの家は形を残していなかった。瓦礫、木屑が散らばり、何処がどうなっていたのか…そのような名残すらも皆無。荷車も破壊され、果物が汁を飛び散らせていた。あの老婆は無事ではないかもしれない。
…妙に周りが静かだった。嵐が過ぎた後のよう。このような時の静けさは一番警戒するに値するものだ。私が先程見たものはまだいるはず。チラリと横に視線をずらして地面を見やると、一匹の小さな栗鼠の亡骸があった。他の動物たちは逃げられたのだろうか。何せ一瞬で起きた出来事…望みは薄い。
グルグルと…腹の虫が騒いだような轟きが少女の耳に届く。それはユフィリの背後から…。温かな空気。髪がふわりと靡く。
ユフィリは振り返った。目の前には銀色の…きらめくモノ。いいや、これは…鱗だ。一つ一つがつるつるとしていて大きい。
轟いたのはその生き物の喉がなった音。
先程の空で響いていた音はその大きく広がる翼の羽音。
太陽の光を遮るような影を地面に落としていたのはその強大で途方も無い巨体。
少女の前にあるのは鼻面。ニョキリと口には鋭い牙が覗いている。深紅の瞳を少女に向けて、殺意を剥き出しにしていた。
それは大きな大きな口を開け、象牙のような牙を露わにした…銀色のドラゴン。