3『緑林の出会いの風』
少女は頬をくすぐってくるそよ風の香りを楽しんでいた。
ふう、と口角も上げずに息を漏らしている。長い髪を後ろに流すように靡かせ、太陽の光りで目にハイライトが入っていた。
彼女はこの村の最悪者。
美しい顔も、秘められた物も、この村では価値の無いものだ。
少女が何をしたのだろうか。
村の作物が育たなかった年は少女のせいにされた。
村に病が流行れば、少女ののろいだといわれた。
悪天候となろうものなら、少女が魔女の力で起こしたと噂が流れた。
全ての元凶が少女だったことなど皆無だ。
しかし、少女は静かに生きる。もくもくと時が流れるのを受け入れ、己が忌み嫌われることさえも受けいれていた。
そんな彼女は今日も村という空間のなかで生きている。
あいも変わらず、村の人々は少女がまるで居ないかのように振舞っていた。子供たちも、気味が悪いほどに彼女と距離を置いている。これは見事なことだ。皮肉にも少女は心の中でそう言ったに違いない。
と、一時…風が止まった。その香りを感じ楽しんでいた少女は、かすかな変化に敏感に反応する。立ち止まって、何も気付いていない村人が起こす雑音を掻い潜るように耳を澄ましている。
少女にとっては妙な無音だった。水を打ったような風の静けさの…直後、荒れ狂う突風が吹きはじめた。
ザアアアアッと暴れる風。
少女は耳元をパッと押さえた。片目を瞑り、風で目が痛くなってしまうのを抑えているようだ。髪も風を真っ向に受けて流されるが、少女が頭の両側を抑えているのであまり乱れるようすはない。足元に注意しながら風に飛ばされないように踏ん張り、その場に固まるように立ちつくす。
さすがにその異変に村人達は慌てだした。子供も大人も立ち上がれないほどにその風は強かったのだ。
長く感じた時間も過ぎ、やっとのことでその勢いは無くなった。それでも、耳元をかするような冷たい風が名残惜しそうに残っている。
「妙な風だな。」
少女はぽつりと言うと、森にむかって歩き出した。
森。
そこは生命が溢れる場所。
森の薫りの風が少女の心を癒し、小鳥達のさえずりが耳に流れるように入ってくるようだった。全てが生けるものたちだ。存在も、価値も、否定されない…世界に受けいれられたものたち。それは美しかった。
少女はいつも休む木に寄りかかって、目を閉じた。
身にまとう服に木が擦れて心地が良い。
変わらない木の鼓動…。五月蝿い餓鬼も居ない安息の地…。
本当に素晴らしい…。
「うわぁぁああん!」
素晴らしい…。
後ろの方で悲鳴にも似た、泣き声が響き渡った。気のせいであって欲しかったがどうやら現実のようだ。
面倒くさいことがまたも起きようとしていた。
少女は無視を貫き通すつもりでいたようだが、泣き声は大きくなるばかりだ。
木を盾にするように後ろをこっそり覗き込めば、小さな女の子がペタリと座り込んで泣いている。
あれは…彼女にとって全く関係の無いものだ。地面の中でミミズが這い回っている事を考える方がまだ良い。
しかし、錆びた金属が嫌な音を立て擦れあうのと同等、いやそれ以上の不快音。きいきいと喚きたてるばかりで何もしないあれ。
少女にとって未知で理解し得ないものの一つだった。
好奇心が騒ぐ。
少女は少し考えたのちに、静かに立ち上がった。
少女は泣いて座り込んでいる女の子の背後に立っていた。
そして言う。「……何故此処にいる。」
必要最低限。
少女は知りたいことだけを口に出す。返答は無い。耳を直接刺激する泣き声にうんざりした。
わざとらしいくらいまでに泣き叫ぶ小さき少女にしびれを切らす。
「泣き止め。嘘泣きは良いから理由を述べろ。」
あきれたように彼女は冷たく言い放った。
「ふっ…ええ…ぐすっ…。」それはキイキイと鳴くのを止めた。
やがて泣き声は小さくなっていき、萎んだように聞こえなくなった。後方から様子を見ていても分かるほど肩を震わせている。
「なんで…」やっと聞き取れるようなか細い声が出る。
その瞬間小さな女の子は突然立ち上がり、火照りきった顔を向けてきた。
潤んでさえも居ない海老茶色の瞳で睨んでいる。
小さな身体には白く丈の長いブラウスを纏っていて、裾にはフリルが散りばめられていた。少女らしい細やかな金の髪が揺れる。
「な、なんで分かったの…。」
か細い声ははっきりと青き少女の耳に届いた。
肩に掛かってはねるくらいの長さの金髪を持った小さな少女は、困惑したように彼女を見上げていた。
「いいから、嘘泣きをしてまで私に注意を引きたかった理由を教えろ。」
「むむ…そんな言い方されたら恥ずかしいよ…。」
幼き少女は、木の高いほうを指差した。
青き少女は指の差された方向を見るため、思い切り首を上げる。見えたのは枝に引っ掛かってしまった純白のリボンだった。それは激しい風を受けながらも落ちることなく危なげにゆれている。
「いやあ…何か引っ掛かっちゃったんだ…。」
「自分で取れば良いだろう。」さも当然のように少女は首を傾げ言った。「お前はその程度のことも考え付かないのか?」
その拍子に肩に掛かっていた青い髪がスルスルと前に流れる。
「い、いやいや…私じゃ取れなくて…。私小さいでしょう!?見て分かるよね!?」
小さな少女は嘘泣きがばれてしまったことを良いことに、彼女に言い放って見せた。慌てる必要もないのに、大きな声で言うのだ。
少女はあきれ果てため息をつく。
「何を言っているのだ。私は知らないからな。」
好奇心が完全に消えうせた少女は冷たく言うと、森のさらに奥に向かって歩き出そうとする。特に関係の無いものにはどんなに好奇心があろうとも近づかないことを、少女は学んだようだ。
「ま、まってよー!」年相応の高い声が飛んだ。ふわりとブラウスを翻し、ぶかぶかのブーツを履いた足を慌ててあげて駆ける。
小さな少女は、いきなり彼女に抱きついた。
すっかり追いかけてこないと思い込んでいた少女は戸惑い、張り付くそれに言う。
「おい。私から離れろ。」
むうっと頬を膨らませ、さらに掴まる力を強める幼き少女。腰元にがっしりと抱きついている。
「だって…。」
「なんだ。」
「リボンとって欲しいんだもん。」
「はあ?」少女は素っ頓狂な声をあげてしまった。「いいから離れてくれ。」
「逃げない?」
「…ああ。分かったから離れてくれ。」
しばらく沈黙が続き、やっとのことで青き少女がそう言うと離れた。
彼女の肌にはまだかすかな温もりが残っている。少々不快になったようで、その部位をごまかすようにこすっていた。
「…取ってくれるの?」上目遣いで問う。
「お前がしつこいからだ。」溜息をつきながら応えた少女は、頭をかかえて悩ましげに眉をひそめた。
「や、やった!」
小さな少女はぴょんぴょんと跳ねて喜んで見せた。満面の笑みで少女に伝える。
「私の名前、リセスって言うのよ!」
「だから何だ。」
「お前って…呼んで欲しくないかなって思って…。」
頬を掻き照れながらリセスはそう言った。
ばくばくと心臓が早鐘のように動く。目の前が真っ暗になった。
――――まだ分からなくてもいいんだ――――
頭の中でフラッシュバックのように…誰かが映りこんだ。衰えた声だ…聞き覚えがあった。でも思い出せない。
ぷつりと画面が切り替わる。
…地面に横たわるような形の視点。
目の前には盛大に一面に零れた…葡萄酒。
そんな…<記憶>の中で少女は不思議な感情に触れていた。
腕の疼きと…喉の奥から沸き起こるような熱い熱い感覚。
「お姉ちゃん?どうしたの?」
幼い声にはっとして、少女はふるふると頭を振った。
「その呼び方をやめろ。」
「え…でも…名前教えてもらってないから…。お名前教えて?」
「私の名か…。」
額に手を当て、顔をしかめる少女。心臓はまだ落ち着かない。
「分からないの?」
「少しぼやけていて今は分からない。仮に知っていたとしてもお前には教えないな。」
リセスは一瞬驚いたような顔をしたが、すぐに調子の良い顔に戻る。
「むー。言い方が冷たいよー。」
「私なりに会話しているだけだ。」
「毒があるんだよ。もう少しこの小さな女の子に優しくできないの?」
ふふんと鼻を鳴らして、リセスは仁王立ちをして見せた。
少女は面倒くさそうに溜息をつくと、目を逸らして木の枝に掛かるリボンを見始める。
「え!無視…無視するのね!」
「…………。」
「聞いているのかなあ!」
「…………。」
「も、もしもし!聞こえてる!?」
「五月蝿いな。充分に聞こえているから、考えている間に耳元で叫ぶのをやめろ。」
リセスは背伸びをして少女の顔の近くで呼びかけていたが、そう一括されて黙り込んだ。
「お前、木に登れるだろう。」
少女は唐突に言った。
「え?の、登れないよ!全然駄目なの!」
「……そうか。」
それ以上追求することも無く、少女は次いで口を開く。
「私が登って取る。あれさえ取ればお前も私に用は無くなるだろう?」
「い、いや…。」
言葉に詰まった様子で俯くリセス。
「なんだ?」
「あの、ありがとう。」
「ありがとう?なんだそれは。」少女は空言のように言い放つと、木に登り始めた。
リセスは何か言いたげに口を開いたが、すぐに閉じた。
心配そうな顔をしていたのも束の間、口元に笑みを零す。
少女は木の窪みや枝を巧みに使い、慣れた手つきで登っていった。所々木の皮が剥がれていたが、鹿がその皮を食したのだろう。
特に苦も無くリボンが掛かっている太い枝まで登りきる。草を掻き分け、腕を思い切り伸ばしてリボンを取ろうとしていた。
「!?」
彼女は何かを感じたのだろうか。それはまた一瞬の事だった。
少女が素早くリボンを手に取る刹那の前に、おぞましいスピードで何処からか現れた強風。木々たちを根こそぎ飛ばしてしまうと言っても過言ではないほどの…あの身体を刺すような風。手に持ったリボンは少し重く感じたが、考えている猶予は無かった。少女の身体は一身にその攻撃を受けて、無理矢理に押されていく。警戒態勢に入りきれていなかった少女にとっては容赦の無いほどの突風だ。
…大きな鳥が木から飛び立つような音が風に紛れるように鳴り響いた。
それは少女が森の中の高い空中に投げ出された一瞬の音。
掴まる木の枝さえも折れ、頼るものがなくなったことによって身体に一番の風の圧がかかった少女が…自身のリミッターを失った始まりの音。
――――全ての時が遅く感じられた―――――
少女は身体の中に集結する温かなものに集中した。
瞳をパチリと一度閉じ、もう一度開けたとき…。
彼女の右の瞳は黄金に輝いていた。
ポオンと鉄琴にも似た音が耳を回るように鳴る。
少女が身体を安全な場所へ運ぶと考えただけでそれは可能だった。
思考さえ安定していれば、そこは少女のものになる。
己を襲った強風の向きを空間ごとねじ曲げて、いいように操る。
それは一秒にも満たないような話だ。
木々たちは草の音を楽しげに奏でているようだ。まるで少女を祝福するように木の葉を擦り合っていた。竜巻に巻き込まれた時のように振り落とされた木の葉たちが螺旋を描いて舞っていた。
リセスは圧巻されたようだった。嬉しそうに口角をあげ、笑っている。
強風が起きているにもかかわらず、小さな少女の身体は無事だった。
すでに風は少女に支配されている。
どんっと地鳴りが起き、大気が震え、少女の身体は空中にふわりと浮いた。
数えないうちに地面に叩きつけられるはずだった少女。しかしまるで見えないクッションの上に飛び降りたように滑らかにしなやかに。空中に投げ出された己の身を…風で受け止めたのだ。
そして彼女が地面に降り立った時、金属の反響音のような音が響いた…森に静けさが戻る。
少女は仮面のように変わらない表情を、リセスに向けた。
投げ捨てるように無理矢理リセスにリボンを渡す。
「…リボンは取った。もう私に用は無いだろう。」美しいオッドアイを隠すように、後ろを向く。
少女の髪は彼女の耳を隠しきれて居なかった。
彼女が日常的に露出させていなかったそれは、妖精エルフを彷彿とさせるような尖り耳だ。明らかに普通ではない異質の形をしたもの。
リセスはそれをはっきりと目に捉えていた。
少女ははっとして、耳元に触れる。
しかしもうリセスに隠す必要はないと判断したのか、すぐに手を戻した。
「あのね。話したいことが…!」
リセスは言葉を吐き出したものの、少女には届かなかった。
何故なら少女は一瞬にして消えてしまったからだ。
金髪の少女は右手に持っている白いリボンをぎゅうと握り締めた。