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風の眼差す先

作者: Ono
掲載日:2026/02/16

 轟音が世界を支配していた。視界はゼロ。フロントガラスの向こうで叩きつけられる雨粒が絶え間なく炸裂している。

 重力すらも定まらない。機体は神の手で握りつぶされそうなほど軋み、計器盤の警告灯がまるでクリスマスイルミネーションのように明滅した。

「ゲール、まだか」

 操縦桿を握るダリルの腕は鉛のように重かった。すでに5時間に及ぶフライト。彼らが相手にしているのはただの嵐ではない。カテゴリー5を優に超える、観測史上最大級の怪物『レヴィアタン』だ。


『降下率不安。機体強度の限界値に接近しています。ダリル、これ以上の深追いは推奨できません』

 コックピットのスピーカーから流れる合成音声は、偵察機ナビゲーションAI『ゲール』。ダリルの長年の相棒だ。

 この高度10,000フィートの地獄において、ダリルが信じられるのは自分の腕と冷徹にして平坦な電子の頭脳だけだった。

「推奨できない? そんなことは5時間前から分かってる」

 ダリルは奥歯を噛み締め、右へ傾こうとする機体を強引に水平に戻す。シートベルトが鎖骨に食い込み、全身の筋肉が悲鳴をあげた。

「こいつの進路が少しでもズレたら沿岸部の都市が一つ消滅しちまう。正確なデータが必要だ」

『理解しています。しかしながらあなたの生存確率が低下し続けています。現在12%』

「充分だ。それだけありゃラスベガスで5000ドルはぶち込んでるぜ」

 汗が流れるのを誤魔化すように、ダリルは眼を細めて薄く笑った。


 命知らずの馬鹿野郎が集まる部隊の中でもダリルは古株だ。

 ハリケーン・ハンター。嵐の中に飛び込み、その心臓部である()のデータを持ち帰る。衛星画像だけでは知り得ない、まさに怪物たる風の殺意を数値化するために。


 突然、巨大なハンマーで殴られたような衝撃が走った。機体が垂直に跳ね上がる。乱気流だ。それも桁外れの。

「くそっ!」

 ダリルは反射的にスロットルを操作するが、機体の反応は鈍い。

『第3エンジンに異常燃焼を確認。排気温度上昇。火災発生の恐れがあります』

「消火システム作動!」

『了解。消火剤を噴射します。――鎮火を確認できません』

 ダリルは舌打ちした。右翼を見れば、灰色の闇の中でオレンジ色の光が不吉に揺らめいているのが見えた。

 エンジンが一つ死んだだけならまだ飛べる。しかし、火が燃料タンクに回ればそれまでだ。


「ゲール、現在位置は?」

壁雲(アイ・ウォール)の直前です。直ちに回頭、離脱を提案します』

 AIの判断は正しい。例の三原則に基づくならば人間であるパイロットには任務を放棄して生き残る道を()()()()べきだ。それでもダリルは目の前の計器を睨みつけた。

 未だ計測データは不完全。ここで引き返せば都市の避難計画を予測値で立てねばならず、彼もまた己の満足いく仕事を果たせなかった悔恨を抱えて生きることになる。

「突っ込むぞ」

『ダリル』

 ゲールの声のトーンが、わずかに咎めるような響きを帯びた。ただの音声データの揺らぎかもしれない。しかしダリルにはそれが焦燥のように感じられた。


投下式観測機(ドロップゾンデ)の準備。目の中心で落とす」

『了解。ですが、これ以上の機体制御は物理的限界を超えます』

「それは俺の問題だ。お前は俺の脳みそらしく計算だけしてろ」

 ダリルは操縦桿を抱え込むようにして、機首を嵐の渦の中心へと向けた。

 荒れ狂う暴風が、機体を食いちぎろうと牙を剥く。


 世界が裏返る。空間の感覚が消失し、ただ激しい振動だけがダリルの骨を揺らした。

 右翼の火災は黒煙を上げ、その熱がコクピットまで伝わってくる。

『最大瞬間風速、秒速85メートルを記録。気圧が急激に低下中』

 ゲールが淡々と、迅速に数値を読み上げる。秒速85メートル。コンクリートの建物すら粉砕する暴力的な数字だ。

「いいスコアが出たな。俺たちの最高記録じゃないか?」

 ダリルは震える手で操縦桿を握り直し、モニターに映る風向ベクトルを確認した。

 風の矢印が複雑に絡み合い、赤から紫へと色を変えていく。

『機体後部、損傷拡大。昇降舵の反応率低下』


 乱気流が、まるで不可視の怪物が彼らの機体を掴み、振り回して遊んでいるかのようだった。

 一瞬の油断で魔の手が機体を海面に叩きつけるか、それとも成層圏まで吹き上げるか。

 ダリルは歯を食いしばり、呼吸を整える。

 恐怖など生物の常に過ぎない。彼が求めるのは、その向こう側にしか見えない光景だ。


 機体の航路が美しいクローバーを描き出した。

『左翼端、フラップ破損。姿勢制御困難』

「目の中心まであと何秒だ」

『45秒』

「了解、行くぜ相棒!」

 ダリルの視界が歪む。脳への血流が激しく変動しているのだ。だが、相変わらず彼は笑っていた。

「ゲール、聞こえるか? レヴィアタンの心音を、きっちり録っておけ」

『気象データ取得、継続中。……ダリル、警告です。燃料タンクの温度が危険域に達しました。爆発まで推定120秒』

 終わりが見えた。それは同時に、任務の完了をも意味していた。


 雷雨を纏った灰色の壁が不気味に渦巻いている。機体は断末魔の悲鳴をあげながら、その暴風の壁を突き破った。

『データ収集完了、基地への最終通信ラインを確保』

「こちらハンター1、ミッション完了。こちらハンター1、ミッション完了……」

 基地からの応答はノイズ混じりで、ダリルの声が届いたのかどうかも分からなかった。


 炎はもはや翼全体を包み込み、黒煙が青空に醜い線を引いていた。機体はゆっくりと、確実に崩壊しつつある。

『データ転送完了しました。申し訳ございません、ダリル。私はあなたの安全を最重要視すべきでした。任務の遂行よりも』

「馬鹿言うな」

 機体が激しく傾く。もはや制御不能だが、ダリルの心は柄にもなく穏やかだ。

「俺は翼を動かす骨と筋肉、お前は神経であり脳みそだぜ。骨折して謝る脳みそがあるかよ」

 ダリルの指先が分厚いグローブ越しにコンソールを撫でた。その愛おしげな仕草は数え切れないほどのミッションを共にした相棒を静かに讃えている。


 轟音が遠ざかった。それまでの激しい揺れが嘘のように静まり返る。

 もはやエンジンではなく、ハリケーンそのものが神の息吹となって彼らを天空へと巻き上げようとしていた。

 機体は木の葉のように舞い、雲の壁を駆けのぼった先にはどこまでも広がる蒼穹があった。

 太陽の光が眩しいほどに降り注ぐ。そして眼下には神殿の円形劇場のように、分厚い雲の壁が続いていた。

「見ろよ、ゲール。いい景色だ。天国へのハネムーンはフライト日和、これにてハッピーエンドってわけさ」

『……ええ。私たちのハッピーエンドを、記録完了しました』

 彼らの機体は閃光に包まれ、やがて青い空へと溶けてゆく。


 嵐の目だけが静かにそのすべてを見つめていた。

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