落第制度の暗い影
1.
山内浩司は、青雲の志を抱いて花籠大学付属男子高校に入学した。
花籠大学は私学で最難関の大学である。
看板の理工学部、政経学部に半数以上行けるのが特徴である。
当時は木造校舎が残っていた。
入口から校舎までは並木道になっており、左右にテニスコートがある。
食堂は一応あるがパン屋が菓子パンを売りにくるくらいで、ほとんどの生徒が弁当持参である。
壁際のスチーム暖房で、弁当を温める生徒が多く、それを休み時間に少しずつ食う。
全員が無試験で花籠大学に進学でき、他大学への受験指導などしていない。
この高校の全身は旧制大学予科であり、原則17歳以上である。
新制高校は15歳からであり、落第制度が引き継がれ、それが暗い影を投げかけていた。
2年連続落第すると退学となり、学歴は高校中退となる。
浩司が2年になったときのことである。
講堂で行われる始業式では出席を取らず、座席も自由であり、校長の話を聞くと、教室に戻り担任が来るまで、クラスはざわついていた。
浩司も隣の席の西川と駄弁っていた。
そのときのことである。
「僕の席ある?」と言いながら、後ろから見慣れない男が入ってきた。
それを冷やかす連中も何人かついてきていた。
落第生であった。
1年上のクラスにいた男が落ちてきたのである。
その男の名は久保清という。
久保には友だちができず、最初の頃は欠席・遅刻を繰り返した。
遅刻してきて、少女漫画雑誌を持っていたこともあった。
クラスの誰も気味悪がって近づこうとするものはいなかった。
浩司は3年生になったとき、久保が退学になったかどうか少し興味があった。
意外なことに、久保は3年生になっていた。
3年最初の数学の授業のときのことである。
その教師は、授業を始める前にこう言った。
「久保、駄目だよ。金田先生、大変だったんだ!」
その教師は1年上のクラスを担任する藤田といい、久保の元担任にあたる。
金田先生は、浩司のクラスの担任であり、担任は3年間同じクラスを受け持つ。
金田先生は30代前半の温和で内気な性格である。
落第の基準に当てはまっても、判定会議というものがある。
ギリギリの者を救済するためである。
少しだけ点数が足りないとか、出席が少し足りないときに温情的に進級させることもある。
教師の中には、強硬に落第や退学を主張するものが数人いた。
金田先生は久保を退学させないために、判定会議で退学論者を説得したのであろう。
それを見ていた元担任藤田は、気弱な金田先生の奮闘に同情し久保に対し怒りを募らせたのである。
花籠大学付属は全員無試験進学なので、当然のことながら、真面目で優秀な生徒と、できない生徒のグループに別れていく。
できない生徒のリーダー格は、アメフト部の斉田春夫という男である。
斉田の周りにできない生徒が集まり、それに久保も加わり、雀荘に通いだしてから、久保は出席するようになった。
久保が麻雀だけのために登校したので、彼らは全員無試験で花籠大学に進学することが出来た。
2.
浩司は政経学部に、斉田は法学部に、久保は文学部に、それぞれ進学した。
この大学は伝統的に大日女子大と仲が良く、浩司は大日女子大の女子学生に勧誘され、経済研究余人会に入会して大日女子大との共同作業を楽しんでいた。
彼らが4年になり、6月に黒江馬場でクラス会が開かれた。
古い木造住宅を改造したような建物で、2階が開け放たれていて襖で仕切りなどされてない。
金田先生だけでなく、作文を全クラス3年間担当した50代半ばの伊藤という教師も出席していた。
3年間全クラス担当という科目は他になく、事実上の副担任であった。
久保も出席していた。
隣で女子学生だけでコンパをやっていた。
それは大日女子大ではなく、場所だけは花籠大学に近い、琴桜女子短大のようである。
この短大は人気がなく、女子学生だけで酒を飲んでいても面白いはずがない。
女子学生がいないので、男子校のクラス会だということはわかったようだが、伊藤先生を担任と勘違いしたようだ。
伊藤先生が立ち上があげると、「先生」と琴桜短大の女が声をあげた。
久保が立ち上がると、斉田が「4年で2年になった男」と叫ぶと、彼女らが拍手した。
久保はピースサインで答えた。
3.
安藤詩織は高校で勉強を怠けたために一流大学には当然行けなかった。
当時は2流の4年制大学に行くと、女子は就職が極めて困難な時代であった。
彼女は有名短大を受験したものの全て滑ってしまい、琴桜短大に入学した。
彼女も和歌子も2年に進級したが、ボーイフレンドはできなかった。
詩織はクラスの仲間を誘って、黒江馬場駅の近くで酒を飲んでいた。
「本当につまらないわねえ」
「花籠大学には女子学生が少ないと思ったのに、大日女子大との共同サークルが多いじゃない」
「それ以外の男子学生は、青島短大に合コンの申込みをしているみたいよ」
「頭に来るわねえ」
隣の開いたスペースに男子学生だけが集まってきた。
「あれ?女子学生がいないわよ」
「あれは先生じゃないの?」
「何かしら?」
「あれは男子校のクラス会なんじゃないかしら」
「だったら、私達にもチャンスじゃない」
安藤詩織は男子学生だけのクラス会が終るのを見定めると、「4年で2年になった男」と呼ばれていた男に声をかけた。
「あのー。わたし、琴桜短大の安藤と申します。これから2次会に行くなら、私達を入れてくれませんか?」
男たちは顔を見合わせた。
「いいですよ」
「でも予約してないからマクドくらいしか場所がないんですけど、そこでもいいですか?」
「一緒に行きましょう」
安藤詩織はクラスの仲間を引き連れて、花籠大学の大学生と一緒にマクドに入った。
こうして臨時の合コンが始まった。
安藤詩織、酒井和歌子は自己紹介した。
男たちも自己紹介した。
一人は久保清と名乗り、もう一人は斉田春夫と名乗った。
「わたしたち、一応英文科なんですけど、やっぱり花籠大学の人はすごいでしょう」
「それが、付属の劣等生だったものであまり・・・」
「さっき、4年で2年になったって言ってましたけど、それってどういう意味ですか?」と和歌子が尋ねた。
久保が黙っているので、斉田が説明した。
「花籠大学の文学部は教養科目の単位を全部取らないと、専門課程に進めないからです。つまり、こいつは1年の単位を3年かかって取得したという意味です」
「そんなに大変なんですか?」
「普通はそうでもないんですけど、僕らは付属で遊んでいたもので」
「付属で遊んでいても、入学できるんですか?」
「全員無試験ですから」
斉田と名乗る男はそんな話はつまらないと思ったのか、自慢話を始めた。
「僕はアメフト部で全国優勝したんですよ」
「全国ですか?」
「そうです」
「すごーい」
琴桜短大の女たちは、彼の胸板の厚さを見て感心した。
だが詩織は彼が目つきの悪い凶相で、気持ち悪く感じた。
斉田は夢みたいなことを話し始めた。
「僕は政治家になりたいんです。それで松山政経塾を志望しているんです」
「そうなんですか。すごいですね」
詩織は自慢話ばかりして大口を叩き、目つきの悪い斉田を警戒した。
むしろ寡黙な久保に惹かれた。
「久保さんは卒業したら、どうなさるんですか?」
「出版社に就職するつもりです」
「あら?もう10時だわ。どうする和歌子は?」
「わたしたち、今日はこれで帰ります。連絡先を交換しましょう」
彼らは互いの手帳に住所と電話番号を記した。
4人は駅に向かって歩き出した。
詩織はわざと泥酔したふりをして、久保にもたれかかった。
「大丈夫ですか?」
「気分が悪くなって」
久保は詩織の手を握り、連れ込み旅館に入っていった。
4.
クラス会が終わったあと、麻雀をやっていた経済学科の山内浩司、法学部の松田、理工学部の橋川、政治学科の中島は、久保が琴桜短大の女を旅館に連れ込むのをみた。
「あれは久保じゃないか?」
「そうだ。あいつ、琴桜短大の女に手をつける気かよ」
「卒業もできないのによう」
「ちょっと女が可愛そうだな」
「まあ、いいじゃねえか」
彼らは無視して駅の階段を上っていった。
6月の生暖かい風が彼らの顔には、心地よかった。




