第三話:夏休みの始まり
「といったようにこの時期は皆、中だるみが目立つ。来年には公立の生徒は高校受験を控えているんだ。私立の中高一貫校にいるからといって甘えていては、中学受験をした意味がない。だから――」
ここは教室、頃は夏。
冷房のそよそよしたやわ風が毛並みの海をかき分け、やさしく通り抜けていく。
遠く真正面よりおよそ誰の興味もそそらないだろう御託を水牛獣人の担任が教卓でペラペラと熱弁しているのが聞こえる。本人としてはやる気のない中学二年生どもに発破をかけているつもりなのだろうけど、残念ながらここの陽気な連中の脳内は今朝から心待ちにしていることでいっぱいで、ありがた迷惑な説法もただ耳を通り抜けるだけというのが実状だ。
僕みたいな日陰者だって机にひじを乗っけ、先ほどから肉球をいじって爪を出し入れしたり飛行機雲を追ってカーテンの隙間を眺めたりと手持ち無沙汰に過ごしている。どうして教師の話というのはこうも長くてつまらないのか。発言の節々からして勉強を習慣でなく義務として刷り込ませたいという魂胆があからさまで心底うんざりする。好きなふうにやらせてほどほどの成績を納めさせれば、それでいいだろうに。
「なあなあ」
(……またか)
担任にバレないようにか、後方の席からひどくかそけき声で僕を振り向かせようとしてくる“ヤツ”がいる。九割九分九厘、正体は例の阿呆だ。どうせまたロクでもないお誘いだろう、それに乗ってマトモな目にあった試しがない。ここは無視を決め込むのが一番だ。狸寝入りでやり過ごそうと居眠りの体勢に入る。窓際の末尾から三番目の席なので特に見つかるおそれはないけれど、カーテンから漏れる昼間の日射しが強くすこし汗ばむ。反応したら負けなのでここはひたすら耐える。
「おーい起きてんだろ、こっち向けよー」
ほんのりと鼻息を感じるばかりに先ほどよりつめ寄られるものの、相も変わらず聞こえるか聞こえないかの撫でるような声で、アホは訴えかけてきた。ちょっとばかしウザさが目立ってイライラとする。耳が無意識に後ろを向こうとするのを勘づかれまいと、必死にこらえた。
ああ――早くこの時間から解放されないだろうか。ちょうどお腹が空いてきたし、寒すぎる教室からもとっとと抜け出したい。
「なるほど、無視するとはいい度胸じゃねーか。ならばこちらは手段を選ばないまで……!」
突如として静かな啖呵みたいなものを切られなんだろと思った次の瞬間――いきなり尻尾をぐゎしと握られた。前触れも遠慮もなく勢い強くつかまれたせいで人目もはばからずギニャッと情けない声をあげ、ガバッと起き上がってしまう。とたんに教室内の視線がこちらへと集中してアホを怒ることも忘れ、僕はオドオドとたじろいだ。そんな僕よそにヤツは立ち上がり、
「せんせーい、骨躙くんが居眠りしてたので尻尾つかんで起こしてあげましたー」
と白々しく手をかかげ、いけしゃあしゃあと言ってのけた。己の目論見がすべて裏目に出た気がして顔から火が出そうになる。周囲のせせら笑いになにも言い返せずうなだれていると、
「おう眠いなら顔洗ってくるか? 休みのあいだも生活習慣に気をつけていないと今の骨躙みたいに話に集中できなくなるから気をつけるんだぞ。それと人行潟、尻尾を引っ張るのはやりすぎだ」
と担任に軽くたしなめられた。
「へーい、合点です」
「……すみませんでした」
阿呆こと白い狼の人行潟三八が生返事なのに対して僕こと黒猫の骨躙一朔はいかにもバツが悪そうに謝る他なかった。クソが――なんでいつも三八が絡むとこうもしっぺ返しを食らうというか、巻き添えにされるうえにいちだんと恥ずかしい仕打ちを受ける羽目になるのか。
幼なじみの悪友って間柄だから今までしぶしぶ面倒なことに付き合ってきたけれど、こうも一方的に不利益をこうむるのはなんであれ我慢ならない。……せめて夏休みのあいだぐらいは縁をキッパリと断つのも、手の一つか。
そんな企みを一人もぞもぞ考えていると三八は席に座る間際、一枚の紙切れをサッと机に差し出してきた。見るになにかメモみたいで、とりあえず目を通すと『さっきはゴメン。突然だけど稲根川駅に昼過ぎ集合な。新しい廃墟見つけたからそこで探検しようぜ!』と走り書きで一言。やっこさんが尻尾ぶん回しながら生あたたかい眼差しをこちらに向けている様子が、背中からありありと伝わってくる。……まったくと辟易しきった僕の大きなため息で、紙片がすこしだけ浮かんだような気がした。
コンクリ剥き出しの内装に木目が張り巡らされた六角形を基調とする古い校舎は、隣接する増改築が何度も繰り返され迷路状になった直方体の集合のような高校棟に比べると、訪れた人にどこか有機的な印象を与えるかもしれない。実際、前者は有機物であふれている――住宅街の動物や昆虫の主要な住処という意味合いで。かつて宿直が行われていた時代、見回りの際に懐中電灯であたりを照らせば夜闇にうごめく得体の知れない生物の群れが確認できたと聞く。また校舎裏手の人気がない通路はむかし野良犬たちの主要な動線となっており、ときたま生徒教員構わずスネをかじって回る狂犬が出没していたという伝承がひそかにささやかれている。現代においても自由気ままな生き物たちの動向を把握するのは困難らしく、衣替えの季節空調が点検される段に内部からコウモリ一家が元気よく飛び出し教室中が大パニックになるという事件が起こってからしばらく経つ。
「よってすなわち中学棟は中途半端に管理された廃墟と見なすことが可能であり、怪現象やらナニやら穏やかならざる出来事が起こってもなんら不思議じゃない。な、証明終了」
――というのが入学当初聞いちゃいないのに三八が語り出した持論だ。正直なにが証明終了したのか現在においても僕にはちっとも理解できない。くわえてやたらもったいぶって話していた理由もてんでわからないのだけれど、都内から郊外の学校までを往復一時間半かけて通学してまで幽霊が見たいという謎の根性だけはつくづく尊敬に値するのだった。
「おーし、通知表も配ったことだしここらで解散とするか。日直、よろしく頼む」
今学期最後の号令がかかる。一学期はあっけなかった。中学二年生ともなれば、案外こんなものなんだろうか。
「きりーつ。きょーつけ、礼。ありがとうございました」
「「「ありがとうございましたー」」」
椅子のガラガラに引きずられて大掃除で取り切れなかったホコリが舞い、気の抜けた挨拶が響く。いよいよ待ちに待った夏休みの始まりだ。
「お前ら遊びすぎるなよ?、また九月になったら会おうな!」
ニカッと歯を見せた担任はそういい颯爽と去ってゆく。と同時にドッと和気あいあいとした空気が教室中にあふれ出した。皆こぞって口々にどこそこへ遊びに行こうやら、今日の帰りにどっかで集まろうやら、これから一ヵ月あまり続く長い休みをどうやって過ごすつもりなのか思い思いのまま楽しげに語らっている。一方で僕はといえば荷物の整理を事前にやらなかったツケが回って、持って帰るものが大量に残されているってので、自身の計画性のなさを否応もなく痛感させられている。これは困った。このあと図書室に寄り長期で借りる本もあるというのにこのままじゃ潰れてしまう。あたふたしてなにから手をつけようかこれといい考えもなく、とりあえず手当たりしだいに学校指定のカバンへと教科書を詰め込んでいると、不意に右肩をポンと叩かれた。まんまと無意識に振り返ってしまった僕は頬をぽふっとつままれる。
「うわちょ……て、てめッ。三八 !! さっきといいふざけんなっての !!」
「へへぇ、案外モチモチしてんのな」
ふざけた腕をふり払って目の前のニヤニヤ野郎を睨めつける。半袖ワイシャツを着た、同じくらい小さな背丈の白いオオカミ。明らかに三八は調子に乗っているであろう浮ついた表情で馴れ馴れしく僕に迫ってきた。
いったいぜんたいなんなんだコイツは。例によってボディータッチがはなはだしい。
「お前、小学生の頃とは違うんだからもうすこしキョリカンっていうのを覚えろよ !! そんでいきなり尻尾を握るなんてサイテーがすぎるんだよ……ったく」
「あーあれはな。イッサに後ろを向いてほしくてつい、さ。悪かったと思っている。たぶん」
「つい? 悪いと思うなら始めからするなよ、こちとら大恥かいたじゃねぇかアホ !!」
あらぬ方向を向いてごまかそうとする三八がいちだんと癪に障って、心の中だけに抑えていた罵倒がつい表に出てきてしまう。尻尾が教室の床を強く打ちつけ、明確に抗議の意を示す。
「大丈夫大丈夫。皆そんな気にしてないだろうしお詫びとして廃墟に連れていくし」
「まったく埋め合わせになってねーよ !! なに屁理屈こいてつくろった気になってんだこのッ、……はぁ」
怒りのボルテージが次なる段階へと移行する前にむくれていた自分がバカバカしくなって、感情が一気に冷めてゆき、結局いつもの呆れ顔に落ち着いた。はたから見ればこんなのコントそのものじゃないか。小っ恥ずかしいことこのうえない……まあ、いまさらだけど。
「さっきから謝ってんじゃん、そうむかっ腹ばかり立ててんと健康に悪いぜ?」
「あーザッパにだけは諭されたくなかったわ。――で、何用?」
いまだ煮えきらないものに蓋をして、ジトーッと冷ややかな視線を送る。ホントにまったくなんだってんだ。
「いや、探検の件もそうなんだけど恒例の“アレ”をやりたくてさ。アレだよアレ」
「あ……、思えばすっかり忘れていた。ちょっと待ってて」
パンパンになったカバンの中からクリアファイルを探し出し、そこから折り畳まれた一枚の厚紙を引っぱり出す。小学校でも配られていた通知表、それは学期ごとの成績の総決算という意味以上に、中学生になった僕たちにとってより大事な存在となっていた。とどのつまり僕と三八は買い食いでどちらが奢るかを賭けて毎度のごとく評定の合計値を比較しては競い合っているのだ。
「さてさて、ここまでのところ一勝一敗一引き分け。ブツはフォーティーワンでいいでしょ」
「ああ十二分さ。……前置きはこのへんにして。いざ、尋常に」
「「せーの !!!」」
キーンコーンカーンコーン
僕らは勢い同じタイミングで、通知表の中身をぶちまけた。それと同時にチャイムも鳴る。
真剣な表情のまま固まった僕らクロネコとオオカミには、放課を知らせる鐘の音は自分たちの雌雄を決する神の啓示のごとく感じられたのだった。




