第二十一話:片南研究所
「――んで、どういった形でその知らないヤツってやらにつきまとわれているんだ? 本当に思い当たる節はないのか」
三八がことの次第に切り込もうとして、陸斗に質問を投げかける。
正直ここでするべきではないと僕は思う。思い当たる節を聞き出す以前に、保健室の前から場所を移したほうがいいという考えが二人にはないのだろうか。
「いわゆるネットストーカーからの被害に該当すると思います。具体的には、SNSでBotと思しきアカウントからダイレクトメッセージで意味不明な文章や、不快な画像が送信されてくるんです」
「ほーん? どんなものか見せてもらえないか」
「ええっと、……ちょっと待っていてください」
そういって陸斗はスボンのポケットからスマホを取り出す。先日のヤツといい校則に対していくらなんでもひるまなさすぎだろ、とツッコミを入れたくなる衝動をこらえる。
「ああ、これです。昨日の夜もこんなふうに怖いものが大量に送られてきまして」
「どれどれ……あー、こりゃたぶん拾い物だろうな」
三八は陸斗のスマホを見ると、辟易としたような合点がいったような表情を浮かべた。僕も気になって思わずスクリーンを覗き込む。人間の赤ん坊の剥製らしき物体やウジがわいた動物の写真、GIF形式のファイルや“Maxwell's God will be dead but dreaming.”といった具合に、典型的な怪文書やグロテスクな画像がそこには連なっていた。なるほど――いかにも荒らしっぽい荒らしだ。
「けっこう昔からこういった類の嫌がらせは受けていたのか? それと、SNSの運営へは通報したのか?」
「いいえ。ここ二日三日でいきなりDM荒らしが始まりました……もちろん運営には連絡済みで対処してもらっているはずなのですが、向こうは複数の端末やアドレスを所持しているのかアカウントを代わる代わる切り替えてくるため、ブロックすら間に合わず現在はこうして放置しています」
「うーむ……、動機がわからないのも奇妙なうえにそうとう手口が悪質だな」
ヤツは腕を組み耳をピコピコとさせる。思えば常にどこか怯えきっている陸斗の面持ちは、よくよく見てみると疲れているというより悄然としており目の周りに深いクマができていた。
「もしかして事件が起こって以来ずっと眠れていないの?」
僕は陸斗にそう問いかける。――と同時に言わないほうが良かったかとすぐさま後悔した。
僕たち二人が陸斗の父親の失踪と母親の怪死について保健室にいたとき聞いたということを本人にはまだ話していない。だとすれば事件のことをなぜ僕と三八が知っているのか、きっと不審に感じるだろう。
しかしそんな不安とは裏腹に、陸斗はかわいた笑みを無理に作りこう答えた。
「ああ――西宮先生は、お二人に僕がとある事件に巻き込まれている事情をお話しされたのですね……事件について知られることに関してはあまり気にしていないのでそう気になさらずともけっこうです。僕は極度の心配性でして……DMでつきまとわれている事実と先日あった事件とを勝手に結びつけてしまい、いずれ自分自身が危険に曝されるのではないかと想像してしまって怖くて怖くて……ロクに眠れないんです」
悲愴な胸のうちを吐露した陸斗は静かにうつむき、ギュッと目を閉じる。為す術なく聞いているだけの己がとても情けなく思えてきて、なにか助けられる方法はないかと必死に回らない頭を回転させた。
「うーん……その場しのぎかもしれないけれど、DMを閉じるのはどう? SNSから距離を置けばすこしは嫌な想像も振り払えると思うよ」
――とは述べてみたはいいものの、端的な手段がすぎやしないかとやや恥ずかしくなる。
もっと抜本的な解決策はないものか。普段こういった事例にあまり脳ミソを使わないせいで陳腐な物言いしかできそうにない。
「そうですよね、病は気からともいいますし……まずは考えないことに尽力してみます」
「諦めんのはまだ早いぜ。イッサとリクト」
そういう三八は気がつけばスマホを指でスクロールして、なにやら調べ物をしているみたいだった。てっきりネットで対策案を探しているかと思いきや、ヤツは自分の端末ではなく陸斗の端末を操作している。……いつの間に奪い取ったのか、というか他人のSNSを同意もなくいじくり回すってどういう根性しているんだ。
「ええちょっ ?! あの、勝手に触らないでください !!」
「いいじゃねぇか。ちょいとばかし借りるだけだって」
「全然良くないです、返してくださいよ !!」
慌てふためいて自分のスマホを取り返そうとする陸斗をチョチョイと身軽にかわす三八。
ああ――ここにもやっこさんに振り回される新たな犠牲者が。好奇心旺盛な“悪魔”の化身といってもたぶん過言ではないと感じる。
「事後報告でべつにいいだろ。それよりか、よーやっと手がかりがつかめたぞ」
「えっ! それは本当ですか?」
その言葉一つで陸斗はコロッとその顔色を明るく変えた。なんだろう……ヤツ以上に機嫌がわかりやすい気がする。
「これをよく見てみろ。一見するとDMの内容以外はなんら同じものがない複数のアカウントだが、実はある部分が共通しているんだ」
三八は陸斗のスマホに映されたダイレクトメッセージのタブを開いてみせた。アカウントのアイコンはどれもデフォルトのもので、俗にいうスパムを髣髴させる。
「確かにアイコンは一緒ですけど、これだとヒントにはならないんじゃ」
「オレが発見した共通項はそれじゃない、なにか違和感を覚えないか?」
「違和感、ね」
つぎにそれぞれのアカウントプロフィールの詳細を表示させた。フォロー数は当然のごとく0、フォロワー数は……おや。
「あれ? なんでこんなアカウントにフォロワーがいるんですかね」
「そう。どのアカウントにもフォロワーが1以上、かならず存在していることに気がついた。さらに詳しく調べてみると面白い事実が判明する」
「三八、変にもったいぶらないでわかったことについて簡潔に教えてよ」
ヤツの演技がかった口ぶりに表向きウンザリとしながらも、一緒に謎解きをしているようで内心興奮している自分を確かに感じていた。三八はフォロワー欄をタップして、してやったりと言わんばかりにニヤッとした笑みをこちらに向ける。
「十中八九ストーカーの一件の黒幕は――このアカウントに違いない」
なぜか僕へと手渡された端末の画面には、まったくもって予想外の内容が提示されていた。
『片南研究所』
とある研究所のアカウント、そうとしか言い表せない情報が目に飛び込んでくる。
プロフィールには『こちら公益財団法人片南研究所の広報アカウントです。日々の研究活動について更新していきます。』としっかり書かれてあるのだからもう訳がわからない。こんなオチじゃ、陸斗も困惑する他ないだろうと視線を戻すと意外な反応が待っていた。
「三八さん大手柄です! 僕、感心しちゃいました!」
「えへへ。そんな褒められても何もあげらんねぇぜ?」
……コイツら、呑気か。ヤツに至っては猛烈に尻尾を振っている。
この際、能天気どもは放っておいて一度自分で考えをまとめ上げることにした。
常識的に考えれば公益財団が運営しているであろう研究機関が一個人に対し嫌がらせみたいな干渉をしてくる事例は、そもそも様々な法律に抵触するため絶対に起こり得ないはずだ。
ならば……これはいったいなんなのか? やけに腑に落ちない。妙な胸さわぎがする。
――その予感は、ほとんど的中に近かった。
ブルル
陸斗のスマホが突如として不可解な動作を起こし出す。
画面に触れていないにもかかわらず地図アプリが勝手に展開して、ある一点を指し示した。バイブレーションが断続的に繰り返され、みるみるうちに操作が利かなくなってしまう。
二人に異常を伝える間もなくスピーカーからノイズ混じりの、怪しい音声が発せられる。
『ジー、ジジジ……諸君、よくぞわざわざみずから尻尾をつかんでくれた! 我々は君たちを歓迎するとしよう。そちら側にはこちらの所在地が示されているだろう? ぜひ、足を運んでくれたまえ。そしておぞましい恐怖におののくがいい! アハハハハ!』
スマホが力なく僕の手を滑り落ちて、廊下の床に叩きつけられた。それでも音声は鳴り止む気配を見せない。おそるおそる陸斗に目を向けてみれば今日一番と思われる青ざめた顔色で、ガチガチと歯を鳴らしていた。ふと――三八が僕に強い眼差しを向けていることに気がつく。
「ザッパ、警察に行くって手は考えていない?」
「愚問だな。オレがどう動くかぐらい、イッサならもうわかっているんだろ」
はぁ……どうしてこうなるのだか。残念ながらこれ以上お互い言葉を交わさずとも僕たちがなにをするべきなのか、とうに心の中で結論がついていた。
「行こう陸斗を守るために。この声の主の待つ、研究所へ」
ピンポーン ピンポーン ガチャ ……プシュー
反対側のホームから、山際行きが駅を発車しようとしている。
「なあイッサ。オレら三人が乗る六姫行きはまだ来ないのか?」
「さっきも聞いたじゃんかそれ。あと十数分は待つ必要があるって言っているでしょ」
「げー、首都圏にあるくせに三十分に一本しかないダイヤってどんだけ不便がすぎるんだよ」
「三八さんは沼堤すこし手前にお住まいみたいですね。田舎列車なんて、こんなもんです」
東米才へと歩く道すがら、曇り空はひどくドンヨリとし始め、小雨をまき散らしていた。
できれば本降りにはならないでほしい。こういうときに傘を持ち歩いているほど、僕たちは殊勝ではなかった。
「そういえばそのヘッドフォン……なのですかね? すごく一朔さんらしくって、オシャレで素敵です。製造元はどちらなのですか?」
「ああ、ありがとう。実はどこのメーカーのものだかわからないんだ」
ヘッドフォンは雨に濡れ、ケーブルを伝って水滴がしたたり落ちる。
陸斗の端末に映し出された地図情報。それは紛れもなく、アカウントに記載された研究所の住所の座標と一致していた。しかし地図アプリで肝心の施設名を検索しても、ことごとく結果には引っかからない。
となればそこへ赴くにはこの座標のみが、唯一の手がかりとなる。仮に片南研究所とやらが架空の機関だったとしても、そこに何者か待ち構えているのは確実であると考えられた。
「しっかし最寄りが大造……だっけか? 念嶋からより奥の西のほうに研究用の施設があるだなんて、普通ならとうてい考えられないぜ。オレが見つけておいてなんだけど、これが壮大な出まかせだったら若干笑えるよな」
ヤツはそういってくれるけれど、他人のスマホをジャックするような輩がたんなる愉快犯だったなら、笑いが漏れるより怒り狂うほうが常人の反応だと思う。
「いや――おそらくこれは出まかせじゃないよ。明らかにあの声の正体は陸斗に狙いを定めてこっちにコンタクトを取ってきたと思う、あくまで自分の直感だけれどね」
「僕にいったいなんの用があるのでしょうか……やっぱり、事件の犯人かわかりませんけど、関係のある人であれば真相を聞き出したいです」
陸斗はやはり二つのことの関連性が気がかりみたいだ。どうにも引っかかってしまう気持ちは共感できるけれど、下手に先走ってはあとが保たないのは明白だ。
「SNSの一件と先日の事件との因果関係を断定するのは難しいんじゃないかな。その捜査については警察に任せるとして、今はスマホをジャックしてきた輩がご丁寧に教えてくれた場所へ向かおうか」
研究所へのアクセス自体は単純なのだけれどやたら遠回りを要するルートを経由しなければならない。東米才を出て六姫線の小ターミナル駅である念嶋を降り、そこからは蒼檎線というこれまたローカルな路線に乗り換え大造に向かう。駅に着いたら研究所までは徒歩で約二十分かかるとのことだ。
直線距離ならば十キロメートルもない区間なのに一時間のあいだ電車に揺られっぱなしなる非効率性はいくら足のない中学生の身分とはいえど、いささか目にあまる部分があった。
せめてバスの一つぐらい通っていないものか……あ。
「――あっ」
「ん? どうしたイッサ。急に声をあげて」
「いやたいしたことじゃないけど、ちょっと気がついたことがあってさ」
「なにか手がかりがわかったのですか? どんなささいなことでもいいので教えてください」
三八と陸斗が僕に目をやる。遠く米才駅のほうより特急の通過する音が響く。
「えっと、ほら大造ってたしかスクールバスの巡回ルートに入っていたでしょ。もしかしたら声の主の正体は学校関係者、もっといえば自分たちと同じ生徒ってパターンがあり得ると思いついたんだ。それによく思い出したらスマホから聞こえた声、加工されていたけど少なくとも若そうだったし」
僕の推理に二人は一度納得したあとすぐに顔を曇らせた。自分で言ってみてもかなり際どい線に踏み込んでしまったと思う。
僕たちの通う学校の内側に犯人がいる――それすなわち身近で意外な人物が事件に関与している可能性を示唆するものだ。 “容疑者をしぼれる”という意味合いにおいて重要ではあるもののDM荒らしどころか陸斗の父親と母親の不幸にまでその一生徒が絡んでいたとしたら、どれほどおそろしいことか想像にかたくない。
ヤツは見るからに焦った様子で陸斗に詰め寄りふたたび問いかけた。
「お、おい。本当の本当に心当たりはないんだよな……? もしやイジメなんかに巻き込まれちゃいないか、リクト?」
「ぜ……絶対に誰かの恨みを買うようなことはしていません !! そりゃ実際に僕には友だちがほとんどいませんけど、かといって不特定多数に無視された経験も暴力を振るわれた経験も、ないです !!」
ピロピロリーン
そこに接近放送が鳴り出す。ようやく六姫方面の電車がやって来たみたいだ。三八と陸斗は話が尻切れトンボになってしまったことへ苦々しい表情を露わにして、黄色いラインの内側に立ち並んだ。ホームに列車が入る直前、僕は二人に聞こえるか聞こえないかわからない程度の声量で、ひとりごとをポツリとつぶやく。
「なにがあっても大丈夫。かならず爪が二人を守るから――あのときと同じように」
僕ら三人はあの声が待つ所在地へ、ゆっくり前進し始めた。
米才すら首都圏にあるのが疑わしくなる田舎っぷりなのに、大造ときたら駅前の寂れ具合はもはやすこし安心感さえ覚えてしまう。線路沿いに岩肌が迫っているにもかかわらず都心へは直通で一時間足らずというのは、いったいどんな需要を見越しての編成なのだろうか。どこをどうひねっても車社会であろうこの地域に、都上りの電車があることへ若干のひいきを感じてしまう自分がいる。
「ホントすんげー田舎なこった。イッサ、ナビを担当してもらってもいいか?」
「わかったよ。もうちょっとだけスマホを借りるね」
「一朔さんになら大丈夫です、案内よろしくお願いします」
陸斗の端末には現在、学校で見たときより詳しい位置情報が示されていた。片南研究所なる施設はどうやら山の入り口付近にあるとのことだ。山道で時間がかからなければいいなと思う反面、一刻も早く目的地にたどり着いてスマホをジャックしてきた輩の正体を暴いてやりたいという感情がフツフツと煮え始めていた。
僕のあとにヤツが続いて、その後ろを陸斗がついてゆくといった順番で場所を移動する。
駅前を抜ければ木々の間より民家や畑がチラホラ垣間見える、いかにも日本らしい田舎道が広がっており、夏なのにどこか寒々しさにあふれた景色のなかをすこし進むと、とある標識が目に飛び込んできた。
『この先→片南研究所』
「わぁ、これはずいぶんと親切な目印ですね」
「「…………」」
いや露骨なのにもほどがあるってもんだろうに。これで検索に引っかからなかったことが、実に不可解だった。こんなに大っぴらにされているとなれば公の施設であることには間違いはないみたいだけれど、それがなおのこと陸斗への嫌がらせの内容とまったく結びつかなくて、懐疑的にならざるを得ない。
舗装が徐々に剥げ出した道路を歩むにつれて点々と散らばっていた生活の痕跡は薄くなってゆき車が一台ギリギリ通れる幅になると入れ替わるようにして夏木立の緑が色濃く密集する。
小雨から移り変わった霧雨は依然として降り止む兆しを見せないせいかまだ昼下がりのはずがあたり一帯は不気味な雰囲気を漂わせて、おどろおどろしさと心細さに身がすくむ。二人の足音だけが、言い知れぬ孤独を和らげてくれる。
こんなときは昔の記憶でも思い出して気を紛らわそう。今じゃ怖いもの知らずのやっこさんも、小学生の頃は案外ビビりなところがあったんだっけ。あれは四年生の林間学校で先生たちがお化けに扮する恒例の肝試しでのこと。運よく幼なじみ同士のペアが組めて、終始意気揚々としていた三八だったけれど、思わぬ仕掛けに引っかかり僕に抱きついてそのまま離れてくれなかった記憶が――。
「お、ひょっとしてこの建物じゃねーか?」
おのずと脳内で再生されたエピソードの、成長したけど根っこと容姿は変わらない張本人が声をあげる。思わずスマホに集中していた目を真正面に戻すとそこには予想していたものとは違う、具体的には非常にコンパクトでありながらそれでもいくつか棟を有した建物が現れた。
「まるで小規模な大学……みたいですね。一朔さん、この場所で合っているんでしょうか?」
これが僕たちが呼び出された片南研究所という施設なのか。ここに至るまでの道のりに分岐はなく、確実に一本しかなかったはずだ。GPSが指す座標と僕ら三人のいる地点が一致しているのか、再度確認する。くわえて周囲の林、三方の高い塀、用地の広さ……。
「うん――間違いない。目の前に建っているのが探していた片南研究所だよ」
「すげー。まさかホントにあるとは思っていなかった!」
だけどしかし、奇妙な感覚を覚えるのもまた事実だった。門があるのに警備員と思しき姿はどこにも見当たらず、どうぞご自由にお入りくださいとばかりに開かれている。
一般の研究所を知らない自分でも昨今の機密漏洩やテロなど穏やかならぬ事態を未然に防ぐために、そこらへんのセキリュティはとても厳重に敷かれていると聞いたことがあった。一方これでは難なく正面突破ができてしまう。
「イッサ、リクト。……準備はいいか?」
ヤツはそう息巻いてくれるけれどやはり罠なのではないか。でもこんなところまで来といて尻尾を巻いて帰るのはみっともないし、なによりも入ってみなければ中身はわかりっこない。
「僕は問題ないです、一朔さんは――大丈夫そうですか?」
うん、わかりっこないさ。行く以外の選択肢はいまさらなくて十分なんだ。
「全然平気。さっさと嫌がらせを繰り返す野郎の正体を暴いて、とっちめてやろう」
「おーしッ、そうこなくっちゃ面白くないぜ! 首を洗って待っていろよ狼藉者 !!!」
……自分がオオカミのくせして“狼藉者”なんて単語を使うだろうか、普通。
こうして僕と三八と陸斗は片南研究所の門をくぐった。敷地内部には六つ七つほどの建築が集まっているけれど、遠目に窓から光が漏れている棟は一つしかない。
目指すべきところは、陸斗を悩ませる輩の本拠地はあそこだ。自然にか、ただひたすら息を殺して足音を立てないよう努めて走った。鈍色の空より雨粒がしとしと降り注ぎ、熱った体温を冷ます。自動扉の手前で立ち止まった獣三匹は無事、研究所への侵入を果たしたのだった。
ひどくこじんまりとしたホール状のエントランスと、人影のない中央の受付。そして空間を支配する大きな静寂。されど荒廃しているわけではなく、むしろ“病的”といった表現を漠然とイメージさせてくる使われた形跡のない、無菌室みたいな潔癖さは無断に立ち入ったことを咎めてくるかのように感じさせた。
「閉館日、なんですかね? 耳が痛いくらいシーンとしています」
「んなわけあるか。明かりが点いているのはこの棟だけなんだぞ、声出してきやがったヤツの居場所は上か? でもやけにここは薄暗くて階段が見当たらないな」
僕はとてもじゃないけどここで声を発しようとは思えない。この不自然な静けさを隠れ蓑に動向を見張られているかもしれない状況を慮ると、みだりに息することさえためらわれた。
目を見開き耳と鼻を極限まで研ぎ澄ませ、尻尾をアンテナのごとく立てわずかな空気の振動も捉えられるようスタンバイの態勢に入る。二人は所在なさそうに壁際のポスター展示や天井に吊るされた珍妙なオブジェを眺めているけれど、それどころではない。
ガチャッ
!!
来た。吹き抜けになった上からだ。明らかにドアを開いた音だろう、こちらに降りてくる。
ヤツも音に気がついたのか僕の警戒している様子を察したのか、身を硬くするポーズを取り相手の出方をうかがう。
そんな僕たち二人の変化に戸惑って、陸斗はアワワアワワとたじろいでいる。本来であればアホかとツッコミたいところだけれど、今はそうもしていられなかった。申し訳程度に退路を確保しておく、いざというときのためだ。向こうがなにを仕掛けてくるかまったく予測できたものではない。
『フンフフンフンフフーン~♪』
…………、? 鼻歌、なのだろうか。それも上機嫌なふうに聞こえてくる。いやに耳さわりのいいメロディー。あたかもこの緊張をからかっているような恐怖に縮こまった心臓を逆撫でしてくるような。声質としては女性のそれに近い……ものの、やや男性の裏声にも似ている。
なんだ、いったいぜんたいなんなんだ。
ピッ ウィーン ガコッ
今まで白亜色の壁だと思っていた奥の一部が陥没して、一筋の溝が形成される。それが戸となりエレベーターみたいにスライドするといった予想は外れ、パカッと観音開きに双対のドアが開け放たれた。内部の照明が逆光となって眩しく、中の人物はうかがい知れない。
一歩二歩、鼻歌の主は足を前へと動かす。その姿形がシルエットから抜け出したとたん――僕たち三人の脳内に驚愕と当惑の嵐が吹き荒れたのだった。
「え?」
「は?」
「へ?」
「ちーっす、ようこそ片南研究所へ! 私がじきじきに案内を務めさせていただくっすよ~」
メガネをかけた人間種の女性を素体にネコの耳を生やし、シカと推定される雄々しきツノを携え、ついでにサソリの尾かサカナの椎骨かを模したかのような金属製の尻尾が白衣の裾を、持ち上げている。
そんな“キメラ”が、今目の前に立っていた。




