第十四話:学校にて
ヤツがふと、足を止める。振り向けば目を閉じ、なにかの残り香を追う仕草をとっていた。
「んー? さっきからすんげー甘いニオイがすんだけど……イッサのほうから匂わないか?」
「あー、それはきっと自分の昼ご飯だと思う。今朝はバナナ・スプレッドを作ってきたんだ」
「ば、バナナスプレッド……。朝っぱらからよくもまあそんな手間のかかりそうなもんを作る気になったな」
三八はすこし驚いたような呆れたふうな表情で、興味深そうに僕の弁当袋を見つめてくる。
「昔読んだ小説にレシピが載っていてね、思ったよりこしらえるのは簡単だったよ」
「ほーん。なんかシャレていていいな、そういう即興料理って」
僕が自転車を押しふたたび歩き始めた横を、ヤツはわざとらしい大股でついてくる。見れば口の端にヨダレがあふれ出そうになっていて、ときおりジュルリと音を立てんばかりに唾液を飲み込んでいるみたいだった。さてはコイツ、朝ご飯を食べていないな。
「三八がよければなんだけど、学校に着いたらすこし分けてあげようか?」
「えっ、本当か !!? 気持ちはめちゃくちゃ嬉しいんだが、イッサのほうこそいいのか?」
「大丈夫だよ。食パンを六枚も使ったから、むしろ余るくらいなんだ」
実際、三八におすそ分けする可能性を想定したうえですこし多めに作っておいた。拝借したバナナもシュガースポットが黒々として房が立派なものを選んだので味に関して自信はある。
「じゃあオレのほうも昼飯をちょっとばかし譲らないとな。あ?、腹へって今にも胃袋と背中が張りついちまいそうだ」
「そんな大げさな。べつにいいよ、こうやってわざわざ一時間早い登校に付き合ってもらっているだけありがたいしさ」
夏期講習の期間、登校時刻は平時の授業と変わらず八時半となっている。ではなぜ朝練なる活動もないような、暇人である僕たちがこんな早く通学しているのかというと、それはおもに黒猫の自分が日中の強烈な日照りをすこしでも避けるために他ならなかった。ひとたび太陽が昇れば、気温も湿度もおそろしく高くなってしまう。朝方は一時間くらい早いほうが涼しい。くわえて遅刻ギリギリに急いで一緒に校門へ駆け込むのもなんだか慌ただしく嫌だったので、午前七時前後に駅前でヤツと落ち合い学校に向かうことを、あらかじめ提案しておいたのだ。
三八にとってこの時間差登校は利点がほとんどないと考えられたがゆえに、当初は断られるのではないかと危惧していたものの、そんな憶測とは裏腹にかなり乗り気でうなずいてくれたため、今日も二人でいつもと異なる通学路を歩いている。
「んなこと気にするなって。確かにオレはこうも連日早起きすんのは苦手だけど、満員電車を避けられるってのは意外と悪かぁないもんだ。それにやっぱ、イッサとこうやって登校できんのは気分がいいしな」
「ならよかった。けど、自分がいなくても遅刻しないようにね?」
「わかっているっての。――ただ朝から嬉しいだけさ」
照れ隠しのつもりなのか、やっこさんの尻尾がゆらゆらと揺れ動いているのがわかって若干ほほ笑んでしまう自分がいた。
僕と三八は幼なじみの親友同士だ。
少なくとも幼稚園児の頃には出会い、同じ小学校に入ってからはずっと一緒だった。
まさか中学まで同じであるとは思っていなかったけれど、今こうして同じ時を過ごせて僕も幸せを感じている。叶うのならば、いつまでもこんなふうに二人で一緒にいたい。
「おーし。オンユァマーク、ゲットセッ――」
? はて。
聞いた覚えのない言葉の羅列。ヤツは妙に発音よくなにか口にした。響きから察するに英語……なんだろうか。気がつけば背後でクラウチングポーズと思しきものを取って伏せている。
「ゴー! 競争だー !!!」
ピストルの空砲を思い起こさせるかのような鋭い一匹きりの鬨が発せられ、あたかも弾丸のごとく三八は一直線に走り出した。みるみるうちに距離は離れヤツの姿は小さくなる。なにがなんだかわからないけれどもとりあえず自転車にまたがってあとを追う。いくらオオカミとはいえど立ち漕ぎのスピードには敵わない。あっという間に追いつき、僕らは並走した。
「うわっ、ちょっ……いくらなんでも文明の利器は反則だろぉー !!」
「そっちこそいきなり走り出してどうしたってのー」
向かい風の吹きつける速度で互いの声と声が間延びする。はたから見たらなんともシュールな光景に違いない。
「イッサが水臭い顔してっから驚かせようと思ったんだよー!」
「それはけっこうだけど足元に注意しないと……」
「え……うおっ ?! がぁああああああー !!!!」
この手の流れにおけるテンプレをなぞるみたいにアホはつまずき、弾みで宙に身を躍らせ、すってんころりん河川敷をど派手にすっ転んでいった。ドリフトぎみに急ブレーキをかけ――おそるおそる遊歩道の下方を覗いてみる。三八はグルグル目に舌を出して、野原の上でもののみごとにへばっていた。
本来ならばこんなときすぐにでも助けに行くべきだ。それはわかっている――わかりきっているけれど僕はといえばおかしくておかしくってそれどころではなくて、気がつけば思うままに大きく腹をよじらせそこら中に吹き散らしていた。こんなに笑えたのは久しぶりだ。
七月の終わり際の朝に、一匹の黒猫の下手っぴな笑い声が響き渡る。それはまさしくなにか起こるであろう、一日の始まりを告げるものだった。
「かー、まだ頭がズキズキしてやがる」
「保健室行かなくても平気?」
「いいや。これしきの打撲とすり傷なんざなんとでもねぇ。それにまだ保健室は開いていないだろうし」
「まあ、それもそっか」
七時半前の中学棟にはすでにクーラーが稼働していて、昇降口からオアシスを思わせる冷風が僕たちを歓迎していた。僕はローファーを、ヤツはスニーカーを上履きにはき替え、涼気の支配する地帯に足を踏み入れる。さながら焦熱地獄から浄土へいきなり引っ張り上げられた罪人のようだ。
「「 あ゛ー、生き返る~」」
さんざん強烈な日射しを浴びて毛皮にこもった熱を追い出すために、二人揃ってワイシャツの第二ボタンをつかんでパタパタさせる動作がシンクロする。僕と三八が授業を受ける教室は二階にあるため階段に行けばすぐそこなのだけれど、もうすこしここで休んでから移動したい気分だった。それはヤツも同じ様子で一階中心に設けられた集会場の段差に腰かけ一息つく。
「いやぁ、やっぱたまんねぇな」
「そうだね。銭湯でサウナと水風呂を行き来するおじさんたちの気持ちがわかる気がするよ」
「世間でいうところの“ととのう”って感覚か。あれさ、冷静に考えるとめっちゃ心臓に負担かけているよな。オッサンたちって大丈夫なんだろうか?」
「どうなんだろう……寿命を削っているのは確かだと思う」
登校と変わらない調子でヤツと至極どうでもいい話に花を咲かせる。真面目な中学生ならば教室で静かに予習や自習でもしていればいいのだろうけど、あいにくそんな殊勝さなんて僕らに存在しているわけもない。悪童だなんだといわれてもいまさら知ったこっちゃなかった。
「へくしゅっ」
「お、くしゃみか。冷えすぎた感じだな?」
「うん。流石に気温差があってね」
これは中学棟に限った話ではない。学校の空調設備にはおそろしく温度管理がずさんな部分があって、夏期は寒すぎるし冬期は暖かいを通り越してかったるいくらいに暑くて乾燥する、といった声が中高を問わず頻繁にあがるのが恒例だ。
まず考えられる要因として単純に施設の老朽化が指摘されてはいるものの、迷路状になった校舎においてこれ以上の工事を施工することは困難に思われた。
「ちょっくら身体をあたために先、教室へ向かうね」
「いや――ここはオレに任せろ」
そういって三八は後ろから僕に抱きついてくる。――もう慣れたものだ。特に抵抗する気も起きないので、ヤツに身を任せその体温を背中の全体で感じ取る。
「へへっ、イッサってあったけーのな」
「それはこっちのセリフ。ザッパは熱いくらいだよ」
その言葉に反応してか抱き締める力がますます強まった。心臓の強い鼓動が伝わってくる。
「そりゃどーも。どうだ、すこしは寒くなくなっただろ?」
「まあ、暖をとるのにはちょうどいいかもね」
あの一件以降、三八はしきりに僕とのハグを求めるようになった。公衆の面前でされるのは恥じらいがあり遠慮してもらっているけれど、人目のない強く冷房の効いた場所でせがまれたときにはできるだけヤツの要望に応えるようにしている。
こうして二人きりでいると、まったく嫌な感じがしない。心なしか、安心している自分すらいるふうにさえ思える。
「そうだ。 “あれ”って今できるか?」
やっこさんは唐突になにかを思いついた素振りで、僕の耳元に話しかけてきた。
「あれ、って突然いわれてもわかんないんだけど」
「イッサの尻尾使ってオレの尻尾ぐるぐる巻きにしてほしいんだ。やってみてくれないか?」
(なんじゃその提案……)
ネコの尻尾は細く長い。腰から生え膝に触れるか否かぐらいが大体の平均なのだけど、僕のそれは地面に着かないよう注意を払わなければならないほどにあり余る丈があった。そのうえ手先の不器用さをおぎなえるくらいにはコントロールが利いて、ドアノブを軽くひねることもたやすい第三の腕としての機能も持ち合わせている。
僕にとっては爪に次ぐ特異な部位といっても過言ではなかった。
「相変わらずムチャ言うじゃんか……、わかった。特別にやるよ」
「ありがとな、よろしく頼むぜ!」
正直誰かの尻尾に自分の尻尾を巻きつけるなど、たいして難しくはない。けど、文字どおり尻軽にどうこうすることへいささか抵抗があるというのもまた事実だ。コンプレックスの筆頭である爪のように思い出したくない記憶はそこまでないけれど、やはり他の獣人と違うということもあり本来ならば見せたくない部分である事実に変わりはない。
しかし相手は三八だ。まずは警戒心を解して、ヤツの尻尾を探る。
「んッ」
どうやら三八の尻尾の位置はここみたいだ。あえて後ろは見ないで、己の尻尾をアンテナのごとく感覚を張り巡らせ、背骨と地続きである付け根に触れたことを確かめて、一巻き一巻きじっくり螺旋状に変形させやわらかい真綿を包み込むかのようなイメージで、ゆっくり着実に締め上げてゆく。
「あッ――」
三周ほど巻き上げただろうか。
イヌ科獣人に特有である形状をした真っ白な尾っぽにちょうど幅が均一の黒線が絡みつき、カギのかかった僕の先っちょが空を遊んでいる状態が完成した。ヤツの心拍が跳ね上がりややうるさく聞こえる。肩に頭を乗っけたまま体を小刻みに震わせ、呼吸すらおぼつかない調子ですこし心配になった。
「ひょっとしてだけど、これって痛い?」
実際尻尾に触れられるのを嫌がる獣人は多く、中には逆鱗なのではないかというほど激しく拒絶を示される場合もある。かくいう僕も不用意に尻尾を触られたときには不機嫌にならないほうがおかしいもので、不注意な誰かに踏みつけられでもすれば思わず殴りかかりたい衝動に駆られるケースがたびたびあった。
しかし現在は尻尾を一方的に触られているのではなく、お互い尻尾が尻尾に触れ合っているというあまりお目にかかれない奇妙な状況だ。なおかつ向こうのほうから頼んできたとなればわざわざ自分の弱点をいじってほしい、だなんてひどく矛盾した要求をしてくるはずもない。
いったいコイツは、僕になにをさせたいんだ?
「はぁ、ハー……すげーイイ。しばらく、このままでいてくれないか?」
「えぇ。苦しそうだけど本当に大丈夫なの……?」
「苦しいわけがあるか。オレは、これがいいんだ」
横にある三八の顔へと目を向ければ、ほてった頬に瞳をトロンとさせ、舌をダラリと垂らし興奮していることが見て取れた。ちょっと前にも目にした表情だ。
なんというか……『気持ちいい』と感じていることは、僕にも伝わってくる。けど、なにがそこまでヤツを昂らせるのかまでは、理解が及ばない。
チリチリと、心の中でドス黒い感情の火の粉が散り始めた。
尻尾を巻きつけるだけでこのザマだ、もっとメチャクチャにしてやりたい。とっぴで邪な思いつきは滞りを知らず、渦を成して徐々に加速してゆく。
手始めに、包むように巻いていた尻尾を前触れもなく強引に締めつける。
「ヒャンッ ?!!!」
巻きつく力をナメてかかっていたのが運の尽きだ。サラサラの夏毛に覆われた美しい流線形の尾がぎちぎちと悲鳴をあげる。凄惨な有様の自分の一部に同期してか、三八は腰をガクガクさせて聞いたこともないような甘い声を漏らす。
ヤツはいつの間にか涙目を浮かべていて、これ以上は勘弁してほしいとばかりに訴えていると同時に、これからなにが行われようとしているのか期待して待ち望んでいるふうな面持ちをしていた。
焦らすのも悪くないとは思いつつイタズラな心に火が点きつつ、まだ見たことのない表情が気になって僕は次なる行動へ移る。
しゅりしゅりしゅり
「……ッ、…… !!!」
締める力はそのままに、黒線を前後させて三八の尻尾をもてあそぶ。螺旋が動くたびに根元から先端まで搾り取るように強い圧をかける。僕の尻尾は絡んだ対象の芯にあるゴツゴツした骨を捉えた。毛皮同士がこすれる音に交ざりヤツの声にならない喘ぎが、ピクピクと悶絶する身体に合わせてときおり弾む。
実にいい気分だ。ふだんあんなに飄々としている三八が、今じゃあられもない姿を臆面もなく曝している。どうしてだろう。こんな目に遭わされてコイツはきっと嫌なはずに違いないのに、僕の背後では心の底から喜びを噛み締めているふうにしか思えなかった。
なぜだか、突然胸が苦しくなる。
「い、イッサぁ……」
気がつけば尻尾はつながったまま真横に三八の頭が来ていた。僕の首元に右手を回し不安定な体勢で片足だけ立てている。ヤツは赤面を通り越してとろけきった顔で、ゆるんだ口元には唾液にまみれた長い舌が垂れていた。自分の腰に熱いものが当たっているけれど、その正体がなんなのか考えたくもない。なんのついでか鼻ちょうちんまでついている。
「なあ。ちゅー、しようぜ」
「ちょっ――いったん落ち着いてよ。ここじゃマズいって」
流石にここでのキスがよくないことは、冷静に考えるならば真っ当な結論に違いない。でもこのふるまいより察するに、三八は平常時の冴えた頭の回転をしていないみたいだ。明らかに変なスイッチが入ってしまった以前に我を忘れている様子でどう対処するべきか非常に悩む。
「んなことぬかしたってよォイッサが悪いんだぜぇ?? オレ、お前のこと大好きだからさ」
「ああもう、……我慢してよ、まるで酔っぱらいじゃんか」
尻尾をほどこうとしても歪曲させられ、今度はヤツがそれを許さない。こりゃ参りました参りましたと、ほとほと仕方がないので無理やり肩を担ぎとりあえず場所を移そうとする。
そのときだった。
「…………」
やけに鋭い視線がこちらへと送られてきていることに気がついた。こんな押し黙った感覚は初めてだ。まさか先生か? いやでもそれなら真っ先に声をかけてくるはずだ。
相手はただおそろしく尖った眼を向けて、こちら側をじーっと観察しているように思えた。誰だろうか。なんだか怖くなり、視線の主をあらゆる方向に探す。
“それ”と思しき人物は案外早く見つかった。集会場を挟んで僕らとほぼ対称となる場所に置かれたピアノの陰に、隠れるようにして立っている。
夏だというのにマントを肩にかけ、ここのものとは思えない学帽をかぶり、学ランの胸部を開けて腹にはサラシと推測される包帯が巻かれており、とんでもない眼光でこちらを凝視している、オスのレッサーパンダ獣人。
……バンカラ ???
「イッサぁ、好きだ?!」
メシャアッ
「ぐはっ」
僕は裏拳で三八を黙らせた。死ぬほど痛いだろうけど今は耐えてもらいたい。
そのレッサーパンダ獣人が僕たちに敵意を向けていないことはすぐさま理解した。おそらく追って来すらしないだろう。――けどあの目に見られているうちは、生きた心地がしないことが肌でわかった。否、 “わからされた”という表現が正しい。
「…………」
階段に向かってヤツを引きずる僕が視野より漏れないようになのか、レッサーパンダ獣人はゆっくりと体を回転させていた。とうとう視界から離れる瞬間にもかかわらず、ソイツは表情一つ崩さずまばたき一つすらしなかった。
あれは――何者なんだ? 己を見失わないよう必死に頭を整理しながら、僕はコンクリ造りの階段に一歩、また一歩と足をかけた。




