第十三話:朝
チュンチュン ミーン ミーン
外より鳥の鳴き声と蟬の合唱が聞こえてくる。今、何時だろうか。
カチ カチ
規則正しく刻まれる秒針の音に腕を伸ばす。
朝の薄暗がりのなかよく目をこらし目覚まし時計の表示を見ると時針と分針は五時二十八分を指していた。アラームが鳴る時間は二分後の五時半に設定されている。またか。ここ最近は早起きにも慣れて、爆音が叩き鳴らされる数分前には目を覚ますようになっていた。
夏仕様の毛布とせんべい布団に挟まれた上半身を起こして、しばらくぼけーッとして意識の覚醒を待つ。昨晩もなにか変な夢を見たような気がする。内容を思い出そうにも寝ぼけた頭にそれは困難であるみたいで、どんどん夢での記憶は薄れていく。その代わり徐々に意識が鮮明となってきて、朝の支度をしなければならないことを思い出す。まだ眠り足りない鉛のように重たい身体を引きずり、まずはジャージから着替えようとあくびを噛み殺しながらおもむろに立ち上がった。
リビングへ向かうと明かりが点いていないことから、まだ僕以外の家族の誰も起きていないことがわかりすこしモヤッとしてしまう自分がいる。よく早起きは三文の徳だなんていわれるけれど、結局は親が自分の子の面倒をみたくないことをそれっぽい言い回しでごまかしているだけじゃないかって、なにやら勘ぐってしまう。
されど朝早く起きるという行為が健康に悪くはない事実は確からしいうえ、学校の夏期講習の期間だけは自分でお弁当を作る約束をしてしまった手前あとに引けないこともあり、さして苦ではないと己に言い聞かせ朝の時間を満喫しようとなんとか試み続ける日々を送っていた。
正直クソ面倒、という感情はいっさい否定できないのだけれど。
冷蔵庫に保存しておいた昨晩の残りの野菜炒めを電子レンジにかけて、温めているあいだに洗面所で顔を洗って身だしなみを整えようとする。鏡の前に立つなりいまだぼんやり冴えない表情を浮かべる僕が映し出された。可もなく不可もない、実にありきたりな黒猫の顔。強いていえば少年のうちからヒゲまで真っ黒なのはけっこう珍しいらしい。
根っから社交的ではない僕は他人に己がどんなふうに見られているのか――そこまで意識を向けた覚えがなかったものの、どうやらカッコいいというよりかわいいという印象があるとのことだ。健全な男子中学生としてこの評価は致命的な気がしなくもないのだけれど、いまさら無理に着飾ったとてどうにかなるものではない現状は把握していた。くわえて学校には校則が存在している以上、面倒な事態はゴメンであるため無難な格好より抜け出せないままそのまま現在に至る。こんな体たらくだからモテる好機のほうから逃げてゆくのかもしれない。彼女を作るなんて夢のまた夢と、今や納得しきっていた。
顔を洗い終えた僕はタオルを首にかけピーピーと電子音を奏でる電子レンジに足を向ける。湿ったヒゲをちょちょいっとこすりつつ洗いつつ中の皿に手を伸ばし、残っていたご飯を茶碗によそいダイニングテーブルの椅子に座って、寂しくしょっぱい朝食をとることにした。体が糖を欲しているのか甘い物が食べたい。リモコンでテレビの電源を点けて、朝方の情報番組を眺める。ビーバー獣人の気象予報士が今日の天気を伝えるコーナーに差しかかった。
『本日は全国的に強い高気圧に覆われ、晴れとなるところが多いでしょう。にわか雨の心配もなさそうです。昼頃を過ぎたあたりで気温は三十六度になると予想されます。熱中症には警戒が必要です』
あと六日で八月を迎えるせいか、いよいよ夏本番という最高気温の数値にいささかゲンナリとしてしまう。これだから夏は嫌いなんだ。こんな気候じゃ黒毛の獣人を殺しにかかっているのではないのかと、あらぬことを考えずにはいられない。夏期講習は午前中に終わるので爆速で帰宅すれば暑さに身を焼かれる心配もないだろう。しかし三八のヤローが例のごとく遊びに誘ってくると推測ができるため、声をかけられる前に早いところ退散しなければならない。
……とはいえ、幼なじみであるヤツは唯一無二の親友といって過言ではないこともまた事実みたいだ。せっかく連れ出してくれる三八を断り続けるのもなんだか引け目を感じてしまい、常に後ろめたい思いに悩まされている自分がいた。
天気予報は快晴、けれど心はどこか曇って見通しがきかないでいる。今日はどうやって一日を過ごせばいいのやら。熱湯を張り洗剤を溶かしたシンクに、空になった食器を浸けおいた。
弁当を作るというのは、男子中学生にとって案外難しいことだ。
第一に日頃料理をしていない事実も相まって、レシピが思いつかない。こればかりは経験がものをいうのだろうけど、第二にレシピ本どおりに作ってもうまくいかないことが多々ある。
さて、なにをこしらえようか……。
ピンッ
はたとひらめいた。甘い物が食べたい、となれば“あれ”を試してみる他あるまい。いつかとある小説で見かけた、ある料理を思い起こした。一度はやってみたかったそれに今回は挑戦してみよう。早速材料が揃っているか確認しにかかる。
ええっと、バナナを三房と牛乳とバターを一欠片とマシュマロと――。
――できた。バナナ・スプレッドの完成だ。
あとはこれをトースターにかけた食パンに塗りたくって挟んでカットして、扇風機で荒熱をとりラップをかけ、保冷剤を詰めたバッグ内に入れる。さっき朝ご飯を食べたばかりなのに、かぐわしい匂いにつられお腹が空いてきた。お昼が楽しみで仕方ない。
ゴキゲンなお弁当を作るのに使った鍋やらミキサーやらを浸けおきにしていた食器と一緒に洗い、元に戻しておく。家に帰ってから文句を言われるのは勘弁だ、こういうところに抜かりがあってはならない。これで一通り学校へ向かう準備は整った……はずだ。いざ出発する段になるとなにか忘れているんじゃないか不安に駆られる。カバンの中身は大丈夫、特にゴミ出しをする曜日でもない、あとは――あっ。
そうだ――アレを忘れていた。慌てて自室に引き返し“アレ”を回収する。
枕元に転がっている、不思議な形状をしたヘッドフォン。ひとたび肩にかければ自分の身体の一部だったかのようになじんでくれる、製造元が結局わからずじまいの小さな相棒。数日間コイツで音楽を聴いてみた感想としては、率直に音質はそれほど良くないもののナチュラルに鳴ってくれるのがすごく安心するってことくらいだ。
むろん校則でこういった代物を学校に持ち込むのは禁止なのだけれど、置いて行くとやけに寂しくていつも携帯していた。せいぜい登校するときに肩にかける程度ならば、教師の監視の目に届かなければバチは当たりやしないだろう。靴箱からローファーを取り出し、そそくさと家より脱出しようとする僕をある一つの声が引き止める。
「おはよう一朔、もう出るの?」
「あー……母さん、おはよう」
支度前であろうボサボサの毛並みとパジャマ姿で、サバトラ柄の母親が起きてきた。
息子としてこういってはひどいけれども、極力こういうときに顔を合わせたくない人物だ。
「台所からすごく甘いにおいがしたんだけど……アンタなにを作ったの?」
ほら。こういうことを平気で聞いてくる。お昼ご飯を作ることをあえて子供に任せているのだから、なにを作ったところで文句をいう資格はないだろうに。けど自分が気に食わなければ常識外れだと叱責して平然と作り直させる――母親はそういう猫獣人だ。
つまるところ、子供を自分の操り人形のようにしか見ていないのだと考えられる。できれば朝から嫌な思いはしたくなかった。
「冷蔵庫にバナナが余っていたから、ちょっと使わせてもらっただけだよ」
物言いが曖昧なだけですぐ怒鳴りつけてくるので、いちいち機嫌取りをしなければならないのがなんとも歯がゆい。
こっちは急いでいるというのに、早くご自分の準備に戻ってくれないものか。
「そう。なら使った分のバナナはアンタのお小遣いから出して補充しなさい。中学生の分際でなに小洒落たもの作ったのか知らないけど、今度またおかしなことしでかしたら蹴りを入れるからね?」
「はいはい、わかりましたよ……」
相変わらずどうしてこんなに脅迫じみているのか理解できないし理解したくもない。自分もいつかこんな大人になってしまうのかと考えると、とても胸が苦しくなった。
「ああ、それと」
不毛な会話も終えたことだし長居もしたくないのでさっさと自転車にまたがろうとする僕にまだ聞かせ足りないことがあるのか、母親はまたなにか言おうとしてくる。今度はなんだ。
「夏期講習が終わったらできるかぎり早く帰ってきなさい。最近はこのあたりも物騒だから、心配なのよ」
けっ。なにが“心配”だっての。確かにあんな事件が起こったということもあって、普通の親ならば子を心配するのはそりゃ当然だろう。でもあんたが本当にしたいことは神経症気質な父親と夜な夜な口喧嘩するにあたって、世間体を気にして表立って言い争えないから実の子をサンドバッグ代わりにストレス発散したいだけだってことくらいわかっているんだよ。
ホントもう、ウンザリだ。なんでこんな家に生まれたんだろう。
「ああ、うん……。それじゃ行ってきます」
いくら心の中で毒づいたとて状況は変わらない。けどそれを親の前で口にする度胸もない。
ないない尽くしの僕が自転車を漕ぐ。一刻も早くここから逃げたくて、仕方なくって。
午前七時前の道路はまだ車通りも少なく、なにより気温がそこまで高くはないため、比較的新鮮な風を受けて涼しいままに移動することができる。もっとも、一度は学校を通りすぎるのだけれど。このやたら早い登校には別の目的があった。
駅前まで着いて、いったん自転車から降りる――そろそろか。
米才駅の出入り口の階段よりカツカツ降りてくる、よく見知ったシルエット。それに思わず手を振らずにはいられなかった。三八だ。
向こうもこちらに気がついたのか、手を振り返してきた。
僕の尻尾はビンビンに伸び、ヤツの尻尾はブンブンと揺れ動いている。
ここ数日はこれが朝の日常風景と化していた。親しい輩にはありがちな、言葉を介さない一種の挨拶の符号の一致。
「よっ。待たせたな、イッサ」
「全然大丈夫だよ、ザッパ」
「んじゃ――行こうぜ!」
「うん。一緒に行こう!」
僕と三八は駅前を抜け、河川敷沿いの遊歩道に入る。
学校への最短経路ではない通学路。でも朝のゆったりした時間を過ごすにはもってこいの、水辺より吹くやわ風がなんとも心地よい夏の道。太陽もまだカンカン照りではなく、ちょっと眩しいくらいだ。生い茂った草花はあたり一面に日の匂いを漂わせ、鼻腔をくすぐってくる。
僕らは今、わた雲が浮かぶ青空の中を歩いていた。




