王妃様は今日も私に催眠をしかけてくる
それは私が第一王子のセドリック様の婚約者に選ばれ、王妃殿下にお呼ばれしたお茶会の席で起こった。
しばらく談笑していた王妃様はおもむろに私の前に水晶玉を取り出し、手のひらに乗せたそれを左右に揺らしたのである。
なんでもとても貴重な水晶玉らしく、わざわざ東の国から取り寄せた逸品だという。左右に揺らして光の受ける角度を変えることで様々な色合いが覗けると。その美しさを私に見せたいと言い出したのだ。
「どうかしら、とても綺麗でしょう?」
「…………えぇ、とても綺麗です」
このとき齢六歳の子供の私にも分かることだが、王妃様の突然の行動に戸惑いつつも肯定しなければ不敬に当たる。というか、さすがに子供でも空気を読んだというか。ともあれ歯切れの悪い返事をしたあと、王妃様はいつもの気品はどこ吹く風で、ぐっと拳を握ったのである。
それも「よっしゃ!」とよく分からない声を上げて。
「あぁ~、よかったわぁ! はじめての催眠術だけどやっぱりこの水晶が効いたのね。高かったけどひと月のお菓子を我慢する代わりに買ってよかったわ~」
……えーと?
このときの私の気持ちを誰か理解して欲しい。
婚約者に選ばれ、はじめて王妃様と二人で会うお茶会の席。
不敬にならないよう緊張で強張る身体を叱咤して、精一杯お利口にしていた子供の前で突然の奇行……いえ、突然の行動に目を点にして言葉を失うことはなにも可笑しなことではないだろう。
いや、というか、え? 催眠術?
王妃様は私に催眠術をかけようとしてるの?
え? 意識ありますけれど?
いやいや、それを王妃様に悟られるのはなんというか、すごく申し訳ない気持ちになったものだから私は催眠術が効いた振りをした。齢六歳の子供にしては良く出来た機転だと思う。いいえ、嘘です。純粋に驚いて固まっておりました。
「それでねアシェリーちゃん、驚かないで欲しいのだけれど……実は十二年後の未来、貴女は悪役令嬢として学園の卒業式に私の愚息に婚約破棄されてしまうの!」
……えーと……?
「ヒロイン……いえ、男爵令嬢のマリアンヌ・オッドレイが貴女と愚息の仲を邪魔して愚息はヒロ……じゃなくて男爵令嬢に惚れたあげくに、それまで王妃教育を頑張ってきたアシェリーちゃんの努力や苦労も忘れて、あろうことか卒業式という祝いの席で婚約破棄を突き付けるのよ! そのうえ婚約破棄されたアシェリーちゃんはヒロ……男爵令嬢をイジメていたとされて国外追放されるのよ!!」
……えぇ~……と……?
「けれど安心してね、アシェリーちゃん! 私はアシェリーちゃん推しだからそんな未来は回避してみせるわ! とはいえこんな話を素直に明かしたところで信じて貰えるとは思えないし、不本意ながら催眠術をかけて今後の方針を潜在意識に刷り込もうと思うのだけど……ていうか六歳でもう美少女のアシェリーちゃんマジ天使……尊い……」
正直、もうポカンである。
とにもかくにも王妃様から敵意は感じられないし、言っていることのほぼほぼ全てが理解できないけれど私の身を案じてくれているのは確かなのだろう。と、思いたい。
「おっと、いけないわ……アシェリーちゃんの天使すぎる可愛さにやられている場合じゃないわね……それでね、アシェリーちゃん。これから起こることの大まかな流れを説明していくわね。それを基に今後は敵の出方次第や息子の態度次第で作戦を練りましょう! そのためには王妃教育として王城に通ってもらいながら、こうして私との時間も作ってもらわないといけないのだけど……そのぶん美味しいお菓子を用意するからね!」
と、そんな感じで茫然としている私が催眠術にかかっていると信じて疑わない王妃様が語りだした話を要約すると。
セドリック様の婚約者に選ばれた私だが、セドリック様は自分よりも優秀に育つらしい私を気に食わず、婚約者として私たちの仲は険悪なものとなるらしい。けれどセドリック様を愛する私はあの手この手で気を引こうとするがそれもすべてが逆効果。
そうこうしているうちにセドリック様はオッドレイ男爵の隠し子である平民上がりの令嬢と学園で出会い、恋に落ちるらしい。そんな二人を許せず嫌がらせを繰り返す私は卒業式の日、公衆の面前で婚約破棄を突き付けられた挙句、そのまま国外追放されてしまうのだとか。
それを阻止するために助力したい。私はアシェリーちゃんの味方だから! というか推しだから! 推し万歳! と申し出てくれる王妃様には言えないけれど、相変わらずポカンである。
「一度にこれだけの情報を聞かされてもアシェリーちゃんも混乱してしまうわよね……とりあえず直近で起こること……そうね、また驚かせしまうかもしれないけれど、近いうちに貴女のお父様がとある男の子を家に連れてくるはずよ。おめでとう、貴女には義弟ができるのよ。彼を味方につけることで貴女の今後は大きく変わるはずだわ。仲良くしてあげてね! ――それをはじめとして、目指せ! 断罪回避よ!」
またも拳をぐっと握りしめ、えいえいおー! と拳を振り上げた王妃様が咳払いをしたあと、もう一度水晶玉を揺らして「この光を見ていると貴女の意識はだんだんもどーる」と言うので、私は慌てて何事もなかったかのように振舞った。ちなみにいつものように気品に溢れる王妃様の姿からは、先ほどの奇行のきの字も感じられなかった。
そんなお茶会を終えて、半信半疑ながらも……というか正直王妃様の行動の意味が分からなくてポカーンとしたままの私が家に戻って聞かされたのは、王妃様の言う通り遠縁の男の子を跡取りとして養子に迎え入れるという報せだった。後日、お父様に連れられた女の子のように愛らしい義弟――アンセルを見たその時から、私は王妃様の奇行を信じることにしたのだった。
それから早いもので現在の私は十六歳にまで育った。
王妃様の催眠術は相変わらず効く気配もないので効いている振りをするのがすっかり板についた頃。
さらに言うならば、件の男爵令嬢マリアンヌ・オッドレイがセドリック様と入学式イベントを終えた時分である。
「いよいよゲーム開始ねアシェリーちゃん……けれど安心してね、これまで私の言葉を信じて行動してきた今の貴女にはたくさんの味方がいるわ!」
今日も元気よく効かない催眠術を信じ込んでいる王妃様は、見慣れたガッツポーズと共に私に頷いている。
普段の気品に溢れた淑女の見本である王妃殿下の姿には今も憧れを抱いているが、催眠術を信じて親しげに接してくれる王妃様の姿も好ましい。しかも少し抜けているようなこのお姿を拝見できる特別感から愛おしさすら感じてしまう。
もちろん、王妃様の尊厳の為に効いていないことは墓場まで持っていく秘密だが。
王妃様の言う通り、助言を信じて行動してきた私は自分で言うのもあれだが、とても恵まれた環境にあると思う。
あるときは義弟の女性に対するトラウマを払拭し、公爵家として家族の絆を強めたり。
あるときは騎士団長のご子息が抱える甘いものが大好きという秘密を共有したり。
あるときは宰相を父に持つ伯爵令息と勉学を競い合ったり。
王妃様いわく攻略対象者と呼ばれる殿方と家族・友人として親しくなったのはもちろん、なにも知らなければ高飛車で人を見下すワガママ令嬢に育っていた私は彼らとの交流を経て、自己中心的な考えや態度を覚えることもなくたくさんの友人にも恵まれている。
中でも特別親しいのは攻略対象者たちの婚約者の皆さまだ。王妃様の助言を得て、攻略対象者たちが抱える問題をその婚約者の皆さまと私とで協力して解決してきたのだ。当然のことではあるが、あくまでも解決したのは婚約者の皆さまであって私は王妃様のアドバイスを元にさらにアドバイスと手助けをしただけだ。
女性トラウマを持つ義弟が唯一手を握れる家族以外の女性は婚約者のミゼリー様だけ。
騎士として威厳にかかわると甘いものが大好きであることを隠していた騎士団長のご子息が、週一のお茶会でこっそりと一緒に楽しむのは婚約者のソフィア様。私は月一で参加させて頂くくらい。
将来宰相を目指して勉学に打ち込んできた少々頭の固い伯爵令息と最初に競い合ったのは私だが、婚約者のエレノア様に勉強を教えるうちに今では勉学の好敵手として互いに高めあっているのはお二人だ。
あくまでも私はアドバイスと手助けだけだが、婚約者の皆さまにはとても仲良くして頂いている。
「大丈夫ですよ母上、私がアシェリーを裏切ることなどあり得ませんから」
にっこり。私の隣で爽やかなスマイルを浮かべるセドリック様が特に一番親しい相手といえよう。
「そんなこと当り前よ! もしもアシェリーちゃんを裏切ったら息子といえども許さないわ!」
「ははは。実の息子である私よりもアシェリーが大切なようですが、アシェリーの婚約者であり未来の夫は私ですから」
「ぐぅう……っ!」
王妃様の催眠術情報で知ったことだが、とある条件を満たすことで第一王子として傲慢に育つセドリック様が実は腹黒のヤンデレとして開花する特定ルートがあるらしかった。私の隣で催眠術が効いている振りをしているこのセドリック様こそ、開花後のお姿である。
ちゃっかりテーブルの下で片手を繋ぎ、親指で手の甲を優しく撫でないで欲しい。
「さて、母上。アシェリーが大切ならば、接触してきたマリアンヌ嬢が今後どのような行動を取ってくるのか教えて頂けますか?」
「セドリック……いつも思うのだけれど、催眠術が効いているわりに意識がはっきりしすぎじゃない?」
「意識? 母上のおっしゃる意味がよく分かりませんね? 私の頭の中はアシェリーの断罪回避しかありませんよ」
「ん~……気になるけど、そうよねぇ……大丈夫よねぇ?」
最初の頃は催眠術が効いている振りをしている間はしっかり応答してはいけないと考えていたが、うっかりお返事をしたとき怪しんだものの「アシェリーちゃんと会話できるしまぁいっか!」という王妃様のお言葉を受けて以来、私は催眠術が効いている間も応答できることになっている。そういう設定である。その設定をちゃっかり物にしているセドリック様である。
「まぁいいわ! 話を戻すけれどね、影の情報によるとヒロインはセドリック以外の攻略対象者にも接触を終えたそうよ。そこから考えるに一番に攻略したい相手がいるけれど、攻略が上手くいかなかったとき用のキープを作った……もしくは逆ハールートだと思うの。どのルートにしろアシェリーちゃんは悪役令嬢として国外追放待ったなしよ。とりあえず次は中庭で木に引っかかった髪飾りをセドリックが取ってあげることで仲が進展するから、中庭には近づいちゃダメよ」
「なるほど、分かりました。皆にも共有しておきたいので、他の情報もお聞きしても?」
「えぇもちろんよ!」
皆、とは他の攻略対象者たちのことだ。
腹黒セドリック様は私よりも催眠術情報を有効に活用し、断罪回避に余念がない。
それから情報を伝え終えた王妃様が「意識がだんだんもどーる」をしたところで、私とセドリック様は何事もなかったかのように振舞う。もちろん、王妃様自身もだ。
「二人が婚約者として問題ないようで安心したわ。それではアシェリーさん、また次のお茶会を楽しみにしているわね」
「はい、王妃様。私も王妃様と共に過ごす時間をとても楽しみにしております」
ふんわりと優しく微笑みを浮かべた王妃殿下がそっと席を立つ。催眠術お茶会場所としてすっかり馴染み深くなった、人払いされた王族専用のバラ園に建つ大きなガゼボから離れていく王妃様だが、小声で呟いた「アシェリーちゃんマジ天使……」が聞こえてしまうあたり本当に可愛らしい方だと思う。
「我が母ながら単純だね」
「けれど私は普段の王妃様も、今の王妃様も好ましいですわ」
「アシェリーもなんだかんだ、婚約者である私より母上が好きだよね」
それは……否定しない。うっかり顔に出ていたのか、未だ繋がれていた手が優しく解かれる。その手が今度は私の腕をのぼるように肌をさすれば、やがて耳まで到達した彼の手で耳たぶをそっと揉みこまれた。
「だめだよ。いくら相手が母上でも、アシェリーの"好き"は私以外に向けてはだめ」
そのまま耳の裏側を人差し指で撫で上げられると身体が勝手にぴくりと反応を示すが、私はこちらを見つめるセドリック様に負けじと見つめ返した。
「セドリック様こそ勘違いなさらないで。私はセドリック様だけを愛していますわ」
「……」
私の言葉に瞠目するセドリック様だったが、少しして自身の手で顔を覆うと「これだからアシェリーは……」と呟きながらも、嬉しそうに緩む口元は隠せていなかった。
そもそも、なぜこの場にセドリック様がいるかというと。
あれは王妃様の催眠術に慣れてきた頃、まだセドリック様が腹黒ヤンデレに開花する前だった。
王妃教育が始まり、セドリック様よりも優秀さを認められる私のことが疎ましかった頃だと思う。王妃様の言う通り、最初セドリック様は私のことを女のくせに生意気だ! と罵ったことがある。そこで終わるならば私も彼に失望したかもしれないが、そのあと彼は隠れて人一倍の努力を重ねていた。その努力がすぐ私を追い越すことはなかったが、婚約者として仲を深めるためのお茶会にもきちんと来てくださるし、私が好きだと言った茶葉や茶菓子を覚えて出してくれることもあった。
王妃様から聞いた予言ですっかりセドリック様に対して、この人はどうせ将来他の女性を愛する人……そんな先入観を抱いてしまった私にとって、セドリック様の行動は妙に心をざわつかせるものだった。
信じたいけれど信じきれない。彼なりに婚約者として向き合ってくれる現実を、幼い私はどう受け止めればいいのか分からなかったのだ。
だから、私はある日セドリック様に聞いたのだ。
『私、セドリック様を愛してもいいですか?』 ――と。
その質問をしたとき、セドリック様は目を見開いて心底驚いていた。今にして思えば突然そんなことを言われたのだから驚くのも当然のことだけれど。
しかし、幼い私は容赦なく追撃まで繰り出した。
『公爵令嬢だからと第一王子であるセドリック様の婚約者に選ばれましたが、私は将来夫となる男性には愛されたいし、愛したいと思っています。けれど私、その愛が裏切られるならば初めからセドリック様を愛したくはありません。セドリック様はいずれ王様になられる方……でも、私きっと側妃も許せないと思うんです。セドリック様から愛されるなら、私だけがいいから……だから、それでもセドリック様、私はあなたを愛してもいいですか?』
子供にしては随分と可愛げのないことを言ったと思うが、王妃様の予言が本当であると知ってしまった幼い私は必死だったのだ。いつか訪れる未来で傷つきたくはない。だから先に知りたい。
しかし、結果的に私の幼稚さたっぷりの質問はセドリック様の特定ルートを解放してしまった。
特定の条件……他者から先に向けられる深い情によって。
それからというもの、腹黒ヤンデレに開花されたセドリック様を本当に愛してしまった私。さらに愛が深くなり、こっそり王妃様とのお茶会にまで私の姿を見に来てしまった彼が予言を聞いてしまったことで現在に至る。
王妃様とは違う形ではあるものの、二人の愛はとても深いと思う。
とはいえ、セドリック様との一件で私は予言を聞いても先入観で人を見てはいけないことを学んだ。それを教えてくれたセドリック様、そして私を導いてくれる王妃様には感謝してもし足りない。
なにより……セドリック様には言えないけれど、やはり砕けた口調で接してくださる王妃様の姿も愛おしいのだ。そんな私の考えが透けて見えてでもいるのか、顔を覗き込んできたセドリック様が耳元で「妬けるな。閉じ込めてしまおうか?」なんて囁いてくる。そんな愛を向けられることを喜ぶ私だと知って、本当にずるいと思う。
ちょっとだけ、ほんの少しだけやり返したくなった。
「閉じ込められたら私……セドリック様に催眠術をかけてその場にずっと引き止めてしまうかもしれませんわよ?」
「……」
なにそれ最高……と呟くセドリック様は間違いなく王妃様のご子息だと思う。
もはや断罪の心配もないとは思うが、卒業式を迎えるまでは油断しないわよ! と意気込む王妃様と、私が愛おしくて仕方がないセドリック様にやり返したとき覗ける照れたお顔が見たいから――だから私は、明日もこれからも王妃様に催眠術をかけられたいと思う。
もちろん余裕で断罪回避しましたが、王妃様の姿が可愛いので卒業式のあとも催眠をかけられるアシェリーと付き添うセドリックの二人です。
文中で王妃殿下と王妃様と使い分けているのは故意です。
ご覧いただきありがとうございました。