ひそやかな痛み
ひそやかな痛み
自分が何を探しているのかも分からぬまま、ずっと何かを探し続けていた。この御方に会うまでは。
ようやく探していたものを見つけたのに、私は手を伸ばすことができないでいる。
私は少しぼんやりしていたのだろう。音もなく誰かが近づいてくるのに気付かなかった。
「しけた顔してるな、趙子龍」
ばーん、と音がするほど背中をどやされてしまった。簡雍殿だった。この私が後ろを取られるなど何たる不覚。それというのも簡雍殿が気配を消すのが上手すぎるからである。
「美男はそんな顔してても美男でずるいねえ、色男。さては恋煩いか?」
「簡雍殿、仕事中では?」
「さっきまではね」
簡雍殿は大きく伸びをした。
「徹夜で仕上げた案件がやっと一段落さ。伊籍殿は気弱そうに見えるのに厳しいのなんの。参ったね」
参ったと言いながら簡雍殿はどこか楽しげである。
「子龍は玄ちゃんの警護?」
視線の先に劉備殿と諸葛亮殿がいた。池を臨んだ四阿で仲良く談笑している。ここから見ても二人の距離が近い。時折諸葛亮殿は声を潜めるように羽扇で口元を隠し、殿の耳に触れるほど顔を近づけている。楽し気な笑い声。触れ合う指先。
目の前で鯉が跳ね、ばちゃんと水しぶきを上げた。
「何だありゃ、付き合いたての恋人同士かよ」
簡雍殿は呆れたように言った。私も全く同じことを考えていたが黙っていた。
「子龍も大変だな。玄ちゃんを警護するといつもあんなのを見せられるわけだ」
「君臣が仲睦まじいのは良いことです」
「睦まじすぎだろ」
魚が水を得たようなものだ、と劉備殿は言っていた。殿という魚は、諸葛亮という水がなければ生きていけないというのだろうか。では私たちといた頃の殿は何だというのか。
ここまで言わせる諸葛亮という若者は何者なのだろう。つい最近まで隆中で農夫をしていたというが。
劉備殿の全身から喜びが溢れている。諸葛亮殿を得られた喜びが。言葉だけでなく態度の一つ一つから。あんな殿は見たことがなかった。
水と魚。これ以上の言葉があるだろうか。
私は殿から何も言われたことがない。
「俺なんて、小さい時から毎日失恋しているようなもんだよ」
不意に簡雍殿が言った。
「失恋、ですか?」
「そ。失恋のプロ。上には上がいるんだぜ、子龍」
簡雍殿の言うことはどこまで本気か分からない。励ましてくれている、のだろうか。
急に簡雍殿は大声を上げて四阿の二人に手を振った。
「玄ちゃーん、二人の世界に浸っていないで下界に下りて来いよー!」
いつの間にか簡雍殿の手には酒の徳利がある。劉備殿がこちらを見た。私と視線が合った。
ずきり。
黒目がちの瞳に私が映った瞬間、なぜか、胸の奥がどうしようもなく痛んだ。
何故その場から逃げてしまったのだろう。自分の心が分からない。
足早に回廊を行く私の後ろで、ぱたぱたと足音がした。
「趙将軍、簡雍殿を見ませんでしたか?」
振り返ると竹簡がいた。否、竹簡を山のように抱えた伊籍殿だった。
「簡雍殿なら、庭園に」
すると伊籍殿は憤慨したように嘆息した。
「やっぱり。あれほど言ったのにまた抜け出すなんて。ちょっと目を離すとあの人はもう」
私は絶句した。脱走していたのか。私には一段落したと言っていたのに。
「四阿で殿に酒を振舞っていましたから、今日は無理かもしれませんよ」
「えっ、殿に」
伊籍殿はやられた、という顔をした。
「まったく。殿を味方に引き込まれては、何も言えなくなるじゃありませんか」
「お察しします」
はあ、と情けないため息をついて竹簡を抱え直した伊籍殿は、ふと顔を上げて私を見た。
「胸が痛いのですか?」
言われるまで私は自分が胸を押さえていたことに気づかなかった。
「顔色も悪いです。どこかお悪いのでは?」
「いいえ、なんでもありません」
思えばこの痛みは私の中にずっとあったのだ。ふさわしい言葉を与えられていなかっただけで。簡雍殿が言葉を与えてしまうまで。
仲睦まじい二人を見るたびに少しずつ降り積もっていく、少しずつ私の心を蝕んでいく、ひそやかな痛み。
「やはり医者を呼びましょう。趙将軍に何かあったら一大事です」
「本当に、病ではないのですよ」
こんなに苦しくて切なくて息をするたびに胸が痛んで仕方ないのに、病ではない。だから誰も治せない。
同じ痛みを、簡雍殿はずっと抱えてきたのだろうか。
失恋。認めたくはないが、言われてみればそれが一番近い気がする。
「…俗にいう失恋というやつです」
「は?」
伊籍殿は目をぱちくりさせた。
私は笑った。言葉にしてみたらすっきりするかもしれないと思ったが、全然すっきりしなかった。
(了)