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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

鏡が見つめた、とある家族の秘密

作者: 真ん中 ふう

鏡は人を映し、人は鏡を見るもの。

しかし本当は人は、鏡に見つめられていた…。


1.「7歳の娘の、かわいい秘密」


郊外にある、一軒の普通の家。

そこには4人の家族が暮らしていた。


鈴木家の長女、美空(みく)は、小学二年生の女の子。

小学校も二年生ともなれば、小学校生活にも慣れ、友達も増え始め、自分にも少しずつ余裕ができる頃だ。

そして、自分の空想の世界観に身を置く事が、楽しいと感じる時期でもある。


日曜日の朝、父親は仕事に出掛ける。

美空の父親は、レストランでシェフをしている。

なので、日曜日と言えど、仕事があるのだ。

美空の10歳年上の兄は、「日曜日なのに。」と愚痴を溢しながらも、楽しそうに部活に行く。

家には、美空と母親がいた。


午前10時になると、美空はそわそわとし始める。

母親の動きが気になるからだ。

「美空ちゃん、お母さんちょっと買い物に行ってくるわね。」

キッチンの片付けを終えた母親が、美空のいるリビングに入りながら言った。

(やったー!)

母親の言葉に美空は、心の中でガッツポーズをする。

「わかった~」

美空は喜びを悟られないように、テレビに気を取られている振りをしながら、答えた。


外で、母親の車のエンジン音がすると、美空はリビングの窓から、こっそりと母親の車が出発するのを見届ける。

「よし!」

家に一人になった美空は、両親の寝室に向かう。

一人になったとは言え、どこかドキドキしながら、寝室のドアを開けた。

そして、ゆっくりと進み、ベッドの横にある、母親の鏡台の前に座った。

美空は鏡に微笑み掛ける。

今から始まる、秘密の時間が楽しみで仕方ないと言った表情だ。

そして、美空はゆっくりと鏡台の引き出しを開けた。

そこには母親の化粧品一式が入っていた。

美空はまるで、宝箱から宝石を取り出すかの様に、丁寧に口紅を取り出した。

「うふふっ。今日は口紅にしようっと。」

そう言うと美空は口紅のキャップを開け、底の部分を回し、リンゴの様に赤い口紅の先端を自分の唇に当てた。

そして、その口紅をゆっくりと左から右へ引いていく。

小さな唇が、存在感を増していく。

美空は鏡に映った自分の顔を見て、眉を寄せた。

「なんか、うまく出来ないな~。」

一旦近くにあった、ティッシュの箱に手を伸ばして、口元を拭いた。

唇はほんのりと違和感のあるピンク色になった。

美空は気を取り直して、もう一度、口紅を引いていく。

しかし、なかなかうまく引けない。

美空はまた、ティッシュの箱に手を伸ばす。

そんな事を繰り返していたら、なんとなく、美空の小さな唇に口紅が収まってくれた。

「うふっ。」

美空は満足げに、鏡の中の自分を見つめた。

時には右を向いたり、左を向いたり、いろんな角度から、リンゴの様な唇の自分を確認しては、微笑む。

「今日はね、お城で舞踏会なの。」

美空は誰もいない部屋で鏡の中の自分に、話しかける。

「素敵な王子さまが、お城に来るのよ。楽しみだわ。」

美空は立ち上がり、スカートを少し持ち上げて、お姫様の様にお辞儀をする。

「王子さま、私はあなたをずっと探していました。」

今度は、目の前に王子がいる設定で話しだす。

「私の名前は、ソフィア…。」

そして、美空は自分の造り出した世界の中へ入り込んで行くのだった。


鈴木家の、毎週日曜日、午前10時頃から11時。

それは、美空の秘密の時間…。



2.「17歳、息子の恋心の秘密」


鈴木家の長男 太賀(たいが)は高校二年生の17歳。

高校では、成績は真ん中位の順位を安定的に取り、部活では、テニス部に身を置き、レギュラーとして活躍している。


平日、水曜日の夕方16時。

部活が無い、水曜日はいつもより早く家に帰る。

太賀が家の玄関のドアを開けると、一人で留守番をしていた美空が嬉しそうにリビングから顔を出す。

「お帰り。」

「ただいま。」

太賀は、美空の頭を優しく撫でた。

「うふふっ。」

美空は満足気に微笑む。

そして美空は、太賀の後ろに立つ高校生にも声を掛ける。

奏多(かなた)さん、いらっしゃい。いつも兄がお世話になってます。」

美空が大人びた挨拶をすると、太賀の後ろに立っていた高校生、野口 奏多(かなた)は、微笑ましそうに目を細めた。

「お邪魔します。美空ちゃん。」

そして、太賀と奏多は二階への階段を上り始めた。

三人にとって、それがいつもの、水曜日の夕方の光景だった。


「お兄ちゃん、私、智ちゃんちに遊びに行ってくるね。」

美空は階段を上る太賀にそう声を掛ける。

「おう。気を付けて行けよ。」

「分かった。」

美空が玄関を出ていくのを階段から見送って、太賀と奏多は二階にある、太賀の部屋に入っていった。


太賀の部屋に入ると、二人はいつものように、太賀の部屋の中心にある、小さなテーブルに教科書とノートを広げる。

「さて太賀、先週の復習はしたか?」

そう言う奏多に、太賀はノートを差し出した。

そこには、綺麗な文字で、数学の問題がぎっしりと、書かれていた。

そして、一つ一つの問題に対して、答えを導き出すための数式が太賀の踊るような文字で書かれている。

「奏多さんの作る問題、難しすぎだよ。」

「ん~。でも、これくらいは解けないと、三年になった時に苦労するぞ。」

奏多は一つ一つの数式と、答えを人差し指で辿りながら、言った。

太賀は、テーブルに頬杖をつきながら、奏多の人差し指の行く先を眺めている。

「うん。でも、よく解けてるじゃないか。」

奏多はそう言って、太賀に笑顔を向けた。

しかし、太賀はその笑顔を真正面から受ける事が出来なかった。

少し目線を反らす事で、自分の中の後ろめたさを回避する。

「じゃあ、今度はこっちな。」

そんな太賀の変化に気付かない奏多は、新しいノートを出し、太賀の前に置いた。

「教科書のこの問題をやってみな。」

太賀は、奏多に言われるままに、新しいノートに向かった。

太賀が問題を解いている間、奏多は自分の課題を進める。

それが二人の、水曜日の夕方の過ごし方だった。


太賀は、高校に入るなり、経験もないテニス部に入部した。

それを両親に伝えた時は、二人ともビックリしていた。

「中学校では、バスケ部に居たのに、どうしたの?」

母親には、そう言われた。

「ちょっと気が変わってさ。」

太賀はそう、曖昧に答えたが、本当の理由は、一つ上の先輩、野口 奏多の存在にあった。

元々、バスケ部に入ると決めていた太賀だったが、友達に誘われて行った部活見学で、二年生でテニス部の主将を務めていた奏多の面白さに釣られて、入部することにした。

奏多は、根は真面目で、人当たりも良く、誰に対しても優しい。

しかし、部活となると人が変わったように、三年生の部員達にも、激を飛ばしまくる。

そのギャップが面白くて、太賀はテニス部に入部することにしたのだ。

太賀は元々、大人しい性格だが、父親に似たのか、変わった人や物に興味を示す傾向にあった。

好奇心が旺盛なのだ。

そんな太賀だから、自分とは正反対の奏多に興味を持ち、部活以外でも、校内で奏多を見つけたら、話し掛けるし、部活中も率先して、奏多の手伝いをしていた。

それが功を奏したのか、奏多の中で、太賀が印象に強く残るようになり、先輩後輩でありながら、友達関係になっていった。

そして、お互いの家を行き来する程の仲になった時、太賀の数学の成績の悪さがバレてしまい、奏多から勉強を見てやると言われ、今の水曜日の夕方の日常が作られた。

そのお陰で、太賀の成績は、真ん中の順位に安定するようになった。


「あ、痛て。」

急に奏多が自分の右目を擦り出した。

「さかまつげですか?」

「うん。そうみたい。」

太賀は、自分が普段、コンタクトを入れる時に使う、卓上鏡を奏多に渡した。

「サンキュー。」

奏多は鏡を見ながら、目の中の睫毛を探すが、上手く出来ないでいた。

「くそっ。」

奏多は苛つき出し、また手の甲で目を擦り出した。

「あ~奏多さん!そんなことしたら、目に傷がつくよ!」

太賀は慌てて、奏多を止めた。

「だってさー!」

「ちょっと見せて。」

そう太賀が言うので、奏多は目を閉じたまま、太賀の方へ顔を向けた。

ドクンッ。

奏多の無防備な姿を見た太賀の胸が一瞬、高鳴った。

(やばっ)

太賀は焦った。

このまま、奏多に触ったら、太賀の想いが奏多にバレてしまうのではないかと思った。

それは絶対に避けなければならない。

太賀は、一回横を向き、咳払いを一つして、自分の気持ちを切り替える。

そして、そっと奏多の目元を触り、持っていたハンカチの端を使って器用に、奏多の長い睫毛を取り除いた。

「取れました。」

「おお、すげー。サンキュ。」

太賀は奏多のいつも通りの態度に、ほっとした。

(良かった。)

「太賀はやっぱり器用だな。シェフの親父さんに似たのか?」

奏多は卓上鏡で、目元を写しながら聞いた。

「いや、さかまつげは美空がよくなるんで、慣れてるんです。それより奏多さん、ここが分からない。」

「どこ?」

奏多は、卓上鏡をテーブルの端に置き、太賀に体を寄せながら、太賀のノートを見る。

すると、そんな奏多の行動に、太賀の胸がまた、高鳴る。

しかし、今度は、さっきよりは冷静で居られた。

それに、こう言うことは、勉強を教わる様になってから、頻繁に起こるようになった。

触れられる程の距離に居ながら、触れ合うことが許されないと感じている太賀は、近くに奏多を感じることや、奏多の匂いを密かに胸に、しまいこむ。

だが、同時に、奏多に笑顔を向けられる度、自分の中で広がっていく罪悪感もある。

それは、大切な友達を騙しているような気持ちになるからだ。


奏多には、絶対に知られてはいけない、太賀の想い。

もし、知られてしまったら、奏多はきっと自分から離れていく。

ずっと友達だと思っていた相手が、自分に対して、好意を持っていたなんて、普通の男子には、耐えられないだろう。

だからこそ、近くにいて、自分だけをみてくれるこの時間は、太賀にとって、幸福な時間。

絶対に、失いたくない時間。


鈴木家の毎週水曜日の夕方16時は、太賀が友人に、恋心を募らせる、秘密の時間。


3.「妻の禁断の秘密」


美空と太賀の母親、翔子はコンビニでパートとして、週3で働いている。

太賀が、中学校に慣れた頃、美空が保育園に入った。

そろそろ、社会との繋がりを持ちたいと考えていた翔子は、パートを始めた。

働き始めてすぐの頃は、仕事になかなか慣れず、落ち込んで帰ってくることもあった。

しかし、半年を過ぎた頃から、仕事を楽しむ様になり、自分が休みの日に、他のパートがキャンセルになれば、替わりに仕事に出たりしていた。

そんな翔子の頑張りが認められ、翔子はバイトリーダー的立場になっていた。

「翔子、今日は帰りが遅くなるから。」

翔子の夫は、玄関で靴を履きながら翔子に言った。

「分かったわ。あんまり無理しないでね。」

翔子はよく働いてくれる夫の体を、気遣う。

「大丈夫だ。仕事を任せて貰えるうちは、頑張りたいんだ。」

夫はそう言って、翔子を抱き寄せた。

その姿が、玄関の鏡に映る。

「いってらっしゃい。」

翔子はいつものように、夫の背中を軽く抱き返す。

「いってきます。」

そして、夫はいつものように、翔子の唇に軽くキスをして、玄関のドアを開け、仕事に向かった。

両親のそんな、仲睦まじい様子を美空は毎朝見ながら、結婚生活への憧れを募らせ、太賀は呆れながらも、夫婦仲の良さに、精神的な安定感を感じていた。


子供達も学校に出掛けると、翔子はバタバタとパートの準備を始める。

鞄に制服を詰め、玄関に置く。

服装は動きやすい、ジーンズと決まっている。

後は、化粧をして出掛けるだけ。

しかし、翔子は化粧に時間が掛かる。

そのお陰で、いつも車を飛ばさなければならない。

パートなのだから、化粧は軽めにと思っているが、つい、新しく買ってみた、化粧品を試したくなる。

それは、下地クリームだったり、シミを隠すものだったり、新色が出たパレットだったり、いろいろあった。

休みの日に、近くのドラッグストアに行った時に、新しく出ていると、つい買ってしまう。

パートと家事を頑張っているのだからと、自分へのご褒美は、年々増えていった。


「急がないと。」

そう呟きながらも、出掛ける前の最終チェクは忘れない。

玄関の鏡で、もう一度、化粧のノリや、肌の調子、髪のまとまりを確認する。

「よし!」

全てに手直しが要らない事に満足すると、翔子は鏡の中の自分に「いってきます。」と言い、玄関のドアを開けた。


毎週金曜日は、翔子の定休日。

だが、家事に休みなどなく、金曜日の朝もいつものように、夫を送り出し、子供達の登校する姿を見送る。

「さて!」

翔子は気合いを入れ直し、一人になった家で、普段はなかなか出来ない家事を済ませていく。

お昼になると、一人で昨日の晩ごはんの残り物を食べる。

そして、食べ終わったら、二階に行き、クローゼットを開ける。

翔子は鼻唄を歌いながら、気分に合う一着を選び出し、着替えた。

今日は黒の生地にドット柄の入った、ワンピース。

大人の中に、少し可愛らしさがある、このワンピースが今日の翔子の気分にぴったりだった。

鏡台に座り、メイクを施していく。

鏡の中の翔子は、どんどん綺麗になっていく。


身支度を整えたら、玄関で靴選び。

普段は開けない、玄関の棚の扉を開け、ヒールを取り出す。

すると、翔子のスマホがなった。

翔子は急いでスマホの画面を見た。

画面を確認して、翔子の顔が綻ぶ。

「もしもし、今から出るところよ。」

電話に出た翔子は、少し高めの声で、どこか女性らしさを醸し出している。

「うん。大丈夫。迎えに行くから、待ってて。」

玄関の鏡に映る、電話中の翔子の頬は、少女のように赤く、色づいていた。


車を運転しながら、信号で止まる度、翔子はバックミラーで、自身を確認する。

それは、ある場所が近づくと頻度を上げていった。


翔子はある大学の近くで車を止めた。

そして、スマホを取り出し、LINEをする。

少しすると、返信が返ってきた。

その後、待つこと5分。

ある人物が、翔子の車の中に入ってきた。

「お待たせ。」

入ってきたのは、まだ幼さの残る、男子大学生。

「今日はどこに行く?流星(りゅうせい)

「その前に…。」

そう言うと、流星は翔子の肩を引き寄せ、キスをした。

「まだ、大学の近くでしょ。」

翔子は不意打ちのキスを満更でもなく受け入れたが、大人としてのケジメを流星に伝える。

「大丈夫ですよ。ここ、あんまり人通りないし。」

流星は、翔子の後頭部に手を当て、今度はさっきよりも深めにキスを始めた。

「りゅっ!…ん!」

翔子の声は、流星の深いキスに奪われる。

そんな流星のキスは、いつも荒っぽく、余裕の無さを感じる。

それがまた、翔子の感度を上げていく。

平和な家庭生活の中で慣らされた翔子は、流星の若さ溢れるキスに、忘れていた何かを思い出していた。


夫に不満があるわけではない。

いつも家庭を大事にして、翔子に対しても、いつも優しい。

仕事も頑張ってくれていて、お給料も申し分ない。

翔子がパートで稼いだお金は貯蓄に回せるし、貯蓄からはみ出した分は、翔子の自由になるお金になっている。

夫との生活は、とても平和で、暖かい家庭をきずいてくれていた。

そんな満足度100%の生活の中で、翔子は贅沢にも、物足りなさを感じてしまった。

それは、夫との結婚前の出来事に遡る。


夫とは、あるレストランで出会った。

翔子は大学生で、そのレストランでバイトをしていた。

そこに新しく入ってきたバイトが夫だった。

夫は当時26歳で、海外留学から帰ってきたばかりで、就職活動をしながら、バイトをしていた。

他にもバイト仲間は沢山いたが、翔子は海外留学の経験のある夫の話がとても楽しく、まだ20歳で海外に行ったことのない翔子にとって、興味深い話ばかりの夫にどんどん惹かれていった。

そのうち翔子と夫は、いつも一緒に居るようになり、自然と交際が始まった。

そして、半年がたった頃、翔子にある変化が現れた。

やたらと匂いに敏感になり、何を食べても、胸焼けを起こすようになった翔子は、病院を訪れた。

そこで翔子は、妊娠していることを知らされた。

相手は、もちろん夫。

翔子は妊娠の事実をすぐに夫に報告した。

すると、夫は一瞬戸惑った表情を見せたが、翔子の手を取り、「結婚しよう。」と言ってくれた。

翔子は妊娠が分かると、大学を辞めた。

そして、就職が決まっていなかった夫だが、手先の器用さと、真面目な性格が評価され、レストランにそのまま就職が決まった。

そのお陰で、翔子は家庭に入る事ができたのだが、翔子はまだ20歳。

自分の興味があるものや、やりたいことを我慢して、家事や子育てをしなければならない事に、少しの窮屈さを感じていた。

また、夫との交際も半年と短く、恋人らしさをあまり、感じることができないまま、夫婦となった。

そんな事が心に引っ掛かったままの翔子の目の前に現れたのが、大学生で、コンビニのバイトに入った、流星だった。

流星は、翔子に新鮮な空気をもたらした。

最初はバイトリーダーとして、流星の相談に乗っていた、翔子だったが、いつの間にか、流星を一人の男として意識するようになった。

別に流星と結婚したい訳ではない。

ただ、翔子が失った、恋心を満たしてくれる存在。

それが流星だった。

翔子は、流星との時間を持つことで、20歳の頃を取り戻しているような、満足感に浸っていた。

それは、娘の美空が、空想の世界で王子様を探しているのと、同じ感覚だった。

流星は現実を忘れさせ、若い頃の自分を取り戻してくれる「王子様」

そして、夕方17時になると、翔子は現実世界に戻る、「シンデレラ」


17時。

翔子は流星との時間が終わり、家に戻った。

玄関の鏡で、自分を見る。

「ただいま。」

鏡の中の翔子は、楽しい舞踏会が終わって、現実に戻ったシンデレラのように、少し寂しそうな顔をしていた。

「さっ!晩ごはんの支度しないと!」

翔子は自分に気合いを入れ直し、主婦に戻っていく。

(楽しい時間は、少しで良いんだ。)

翔子は知っている。

楽しい時間も日常になると、いつか冷めてしまう事を。

流星との関係は、短いから楽しい。

そして、平穏は夫との生活にしかない。

両方を手に入れた、今の翔子は、人生の中で一番輝いていた。


平日の金曜日の昼下がりは、主婦、翔子にとって、禁断のシンデレラタイム。


4.「夫の過去に秘められた秘密」


月曜日の夜20時。

鈴木家の全員がリビングでテレビを見ていた。

月曜日は、鈴木家の大黒柱、圭吾(けいご)の勤めているレストランが休みで、家族全員が集まれる日だった。


「未解決かぁ~。こんなに世の中は発展してんのに、なんで、分からない事が起きるんだろう?」

テレビを食い入るように観ていた太賀が、呟いた。

「その時代、その時代で解決しない事はあるよな。」

太賀の呟きに、圭吾が同意するように言った。

「なんか、怖いね。殺人事件でしょう?これ。」

美空は眉間にシワを寄せ、不安そうに圭吾の膝に来た。

「大丈夫だよ。ここには、怖い人なんていないんだから。」

圭吾はそう言って、美空の頭を優しく撫でた。

テレビでは、未解決事件ばかりを取材した番組を放送していた。

太賀が興味津々で観ていたのは、22年前に起きた、銀行強盗殺人事件の再現ドラマだった。

内容は、複数の犯人が夜中の銀行に押し入り、金を奪い、警備員を一人、銃で殺してしまったという、ものだった。

犯人達は、手練れだったらしく、証拠も何も残さず、逃げ切っていると言う。

「太賀は本当に、お父さんによく似てるわね。こんな怖い話に、興味を持つなんて。」

翔子は太賀の性格は、小さい頃から、夫によく似ていると感じていた。

「だって、未解決だよ。面白いじゃん。」

「もう、そんなテレビは終わりにして、早くお風呂に入りなさい。」

翔子がそう言うと、圭吾がテレビのリモコンで、スイッチを切った。

「折角、面白いところだったのに。」

太賀が口を尖らせると、圭吾が「さぁ、お母さんを困らせないで、順番にお風呂にしような。」と言ったので、今日の家族タイムは終了となった。


太賀がお風呂を済ませて、二階の自分の部屋に行くと、今度は美空と圭吾の番だ。

美空は圭吾がいる日は、いつも、一緒にお風呂に入りたがり、夫婦のベッドで、両親に挟まれて寝ることを希望する。

小学生とは言え、まだまだ幼いなと圭吾は思う。

そして、そんな美空が可愛くて仕方がなかった。

もちろん、太賀も圭吾にとって、誇らしく、立派に成長してきたと胸を張って言える、自慢の息子だ。

そんな二人を子供に持てて、圭吾は幸せだといつも思う。

また、二人を生んでくれた、翔子にも感謝していた。

その気持ちは、常に家族に伝えていきたいと思う。

人間はいつまでも生きていられる訳ではないし、いつか別れの時は、訪れる。

その時に後悔しないように、自分の気持ちは表しておきたい。

それが圭吾の信念でもあった。

だから、圭吾は毎日、家族に対して、愛情を注ぎ、常に愛している事を伝え、その気持ちを、体現してきた。


「こんな俺に、家族が出来た。こんな普通の幸せを手にすることが出来た…。」


深夜2時。

家族が寝静まった頃、寝室のベッドで圭吾はうなされていた。


息苦しさに目が覚めた。


圭吾は横で寝ている、美空の顔を見た。


(大丈夫。あれは夢だ…。)


圭吾の体は、汗を掻いていた。


(シャワーを浴びよう。)


圭吾は風呂場へと向かった。


(あんなテレビを観たからかな。)

圭吾の脳裏には、家族で観た、未解決事件の番組が浮かんでいた。

(今更、あんな夢を見るなんて…。)

圭吾は、シャワーの熱で曇った、風呂場の鏡を見詰めた。

自分がはっきりと見えない。

それは、圭吾の心の中を映しているようだった。

何か、(もや)が掛かった、森の中に一人取り残されたような不安。

圭吾は急に、目の前が暗くなるのを感じた。


火曜日の朝。

子供達は、いつも通り、元気に学校に向かった。

しかし圭吾は体が重く、なかなかベッドから起き上がれないでいた。

そんないつもと違う夫を心配して、妻の翔子が声を掛けた。

「あなた、大丈夫?」

「大丈夫だ。ちょっと疲れが出たのかもしれない。気にしないでくれ。」

圭吾はベッドに横になったまま、答えた。

「でも…。」

「…今日は仕事を休むよ。」

「そうね。その方が良いわ。」

翔子は布団に隠れた圭吾の頭にそっと手を置いた。

「私、仕事に行くけど、何かあったら、連絡してね。」

「ありがとう…。翔子。」

ベッドに横になったままの圭吾が、背中越しに、部屋を後にしようとした、翔子を止めた。

「何?」

翔子は振り返り、優しく問う。

「今日は車を置いていってくれないか…もしかしたら、病院に行くかもしれないし…。」

圭吾は、背中を向けたまま、そう翔子に言った。

「…分かったわ。」

翔子はそう言うと、寝室のドアを閉めた。


家に一人になると、今度は落ち着かなくなった。

翔子には、病院に行くことを匂わせたが、そんなつもりは全くなく、圭吾は、車を走らせたくなった。

じっとしていては、いけない気がしたのだ。


一体どのくらい、走っただろうか。

気づいたら、海に来ていた。

目の前には、崖がある。

そんな場所だからか、人気はなかった。

だが、今の圭吾には、そんな淋しい場所だからこそ、自分を落ち着かせる事が出来た。

圭吾はシートベルトを外し、運転席のリクライニングを倒した。

座席をベッドのようにして、自身も後ろに倒れる。

そして、目を閉じる。

(一体何が、いけなかったんだろうか?俺は、どこで…間違えた…?)

圭吾は自分の過去を振り返る。



圭吾は生まれた時から、施設に預けられて、育った。

最初は乳児院、次に児童養護施設。

里親制度もあったが、圭吾の出生が分からないと言う理由で、引き取られる事がなかった。

そんな圭吾だったが、施設の職員のお陰もあり、まっすぐで真面目な子供に育っていた。

そして、18歳で施設を出た後は、旅館に就職。

そこで厨房に入ることが多くなり、調理の世界に興味を持ち、20歳で、調理師専門学校に入学。

専門学校の二年間を無事に終える前の、3月。

圭吾の人生を大きく変える、出来事が起こる。


その日は、専門学校の友達と、最後の飲み会をしていた。

その帰り道、夜11時、一人で繁華街を歩いていた圭吾の目の前に、一枚のビラが差し出された。

突然の事に、圭吾はびっくりして、ビラを差し出した相手を見た。

「良かったら、どうぞ。」

その人物は、圭吾位の若い男で、にこやかに話し掛けて来た。

圭吾は、男が明るい喋り方だったので、思わず、ビラを受け取った。

ビラに目を向けると、そこには、大きな文字で、「急募」と書いてあった。

「今、そこの探偵事務所で、助手を募集してるんですよ。」

「探偵事務所?」

「興味あります?」

そう言われると、無いとは言いきれなかった。

圭吾はもともと、好奇心旺盛な性格で、いろんな事を知りたいと言う、探求心の持ち主だ。

子供の頃も、その好奇心から、夏に蝉が脱皮していく姿を、何時間も眺めていたり、愛読書は辞書だった事もあるくらいだった。

探偵事務所と言うワードは、そんな圭吾の好奇心を刺激するには、十分だった。

「まぁ。少しだけ…。」

「そうなんですか!じゃあ、試験受けてみませんか?!」

圭吾は控えめに興味を伝えたはずだったが、相手の男は、両手を上げて喜んだ。

その喜び方は、少年の様で、圭吾はその男を、面白いと感じた。


男の名前は「武蔵(むさし)

年齢は圭吾と同じ21歳。

二人は同い年と言うこともあって、すぐに打ち解けた。

圭吾が連れていかれたのは、繁華街を外れた場所にある、建物だった。

探偵事務所は、その建物の地下にあると言う。

「簡単な筆記試験と体力テストがあるんだ。俺はもう両方合格したから、助手として、働いてる。」

「そうなのか?」

「と、言っても、まだ見習いだから、こんなビラ配りばかりだけどな。」

武蔵は舌を出して、おどけた表情をして見せた。

建物の中にある階段を降りていくと、あるドアの前に着いた。

「おつかれーす!」

「お帰り。ビラ配り、終わったのか?」

武蔵が開けたドアの向こうには、2~3人のスーツを着た男達が、パソコンに向かったり、電話を受けたりしていた。

雰囲気は、子会社のサラリーマン達といった感じだった。

(ここが探偵事務所?意外と普通だな。)

そんな事を思いながら、圭吾は部屋の入り口に立っていた。

(ひら)さん。彼、試験を受けたいって。」

武蔵は、窓を背中にした机に座っていた、50代くらいの男に、圭吾を紹介した。

「あっ、ちょっと、まだ受けるとは…。」

先走っている武蔵に、圭吾は急いで、口添えした。

すると、平さんと呼ばれた、50代くらいの男が、圭吾ににこやかな笑顔を向けた。

「一応、履歴書書いてもらえるかな?話はその後で。」

平さんと言う男に、断りずらい笑顔を向けられ、圭吾はとりあえず、履歴書だけ書いて、帰ろうと考えた。

平さんは、圭吾を手招きして、部屋の中へと導いた。


平さんは顎に手を添えて、圭吾の履歴書を見ていた。

「へぇ、B施設出身なんだね。」

圭吾の履歴書を見ながら、平さんが言った。

「あっ、はい。俺、生まれてすぐ捨てられたみたいで。」

平さんは圭吾をまっすぐ見た。

「そんな風には見えないな。B施設の所長、まだあの人なの?」

平さんの口振りに、圭吾は興味をひかれた。

「B施設をご存知なんですか?」

「あぁ、知ってるよ。おい、小島!」

小島と呼ばれた男は、平さんに呼ばれ、顔を上げた。

「あいつもB施設出身だよ。」

「え?」

小島は、圭吾に軽く頭を下げた。

「小島は親の虐待から逃げるために、B施設に入ったらしい。」

圭吾の育った施設は、虐待を受けていた子供達もたくさん、入所していた。

見た目30歳位の男だし、圭吾とは施設で一緒にはなっていないだろうが、なんとなく、親近感を覚えた。

「うちとしては、若手が居てくれると助かるんだけど…試験受けてみるかい?」

平さんは笑顔で、そう言った。

武蔵も、小島も、圭吾と目が合うと微笑んでくれる。

圭吾は短い時間で、この探偵事務所に居心地の良さを感じ始めていた。

(まあ、合格するとは限らないしな。)

そう結論を出して圭吾は、探偵事務所の試験を受けることにした。


合否は、意外と早く届いた。

それは、圭吾の携帯に直接メールで通知された。

(受かっちゃったな…。)

携帯画面には、探偵事務所の試験に合格した事、契約書を書きに来る日と、時間が記されていた。

少々戸惑いはしたが、探偵事務所の助手と言う、珍しい職業である事と、平さんや武蔵、小島に親近感を持てた事が影響して、圭吾は契約書を交わしに、また探偵事務所を訪れた。


事務所に行くと、武蔵が「おめでとう!」と出迎えてくれ、平さんが「これから、よろしくな。」と言って、握手をしてくれた。

圭吾が、出された契約書にサインをすると、平さんが言った。

「圭吾、これから探偵の助手になると言うことは、自分の身を誰かに知られてはいけないと言う事だ。」

平さんの真面目なトーンに少しビクッとなりながら、圭吾は話を聞いた。

「まず、引っ越しをして欲しい。そして、俺達と話をする時は、圭吾ではなく、別の名前になる。」

「引っ越し?別の名前?」

圭吾はいきなり、そんな話を出されて、戸惑った。

すると、平さんは先ほど圭吾が書いた契約書を見せた。

「この契約書にも書いてあっただろう?ちゃんと内容を読んで、サインを書いたよな?」

契約書は一枚だったが、小さな文字でたくさん書かれており、圭吾は内容をしっかりと読まないまま、サインをしていた。

圭吾は不安になった。

「あの、やっぱり!」

「大丈夫だよ!こっちの仕事の方が、楽しいしさ!」

圭吾が言いかけたところを、武蔵が口を挟んだ。

武蔵は笑っている。

「まぁ、最初は戸惑うかも知れないが、そのうち慣れるさ。」

平さんも笑顔で圭吾の肩を叩いた。

圭吾は戸惑いながらも、二人の言う事に逆らえなかった。


平さんはいつも笑顔で、優しい。

だが、その中に、強い何かを持っている。

圭吾はそれがなんなのか、分からなかったが、平さんに従わなければいけない気持ちにさせられていた。

しかし、日にちが進むに連れ、平さんに対しての戸惑いは、だんだんと影を潜めていった。

圭吾は言われた通り、住み込みで勤めていた旅館を退職し、アパートで独り暮らしを始めた。

専門学校は無事に卒業出来た。

旅館からも、学校からも、就職について聞かれたが、「知り合いの店に就職が決まった。」と、嘘を付いた。

それは、探偵事務所の存在を明らかに出来ないからだ。

そして、圭吾には新しい名前が付けられた。

「幸村、これも運んでくれ。」

幸村こと、圭吾は、武蔵に大きな段ボール箱を渡され、それを持って、地下へと続く階段を降りた。

事務所の前に来ると、その段ボール箱を小島に渡し、また階段を登り、武蔵から段ボール箱を受け取る。

最近は、こういった荷物運びが主な仕事になっていた。

圭吾が事務所に入ってから、武蔵のビラ配りの仕事がなくなった。

その代わり、武蔵はある警備会社に時々派遣されるようになった。

平さんから、「そのうち、探偵業だけではなく、警備の仕事も始めたい。」と言われ、勉強がてら、入っている。

そして事務所には、時々平さんの知り合いが出入りするようになった。

神経質そうな男や、体の大きな外国人など、様々な人達がいた。

平さんの知り合いが来ると、武蔵は圭吾を誘って、ランニングに出かける。

探偵の助手は、体力を衰えさせては、いけないらしい。

だが、これも平さんの指示と思われた。

「なぁ武蔵。お前はなんで探偵事務所に入ったんだ?」

並んで走る武蔵に圭吾は尋ねた。

「俺さ~、三年前に田舎から出てきたんだよ。でも、家出だったから働ける場所がなくてさ。で、路頭に迷っていた俺を、平さんが拾ってくれてさ。探偵の助手になる為の名前も、平さんが付けてくれた。」

武蔵は嬉しそうに語る。

「俺、その頃、体も細くて力もなくてさ。だから、平さんが強い男になる様にって、武蔵って名前にしてくれた。ほら、剣豪で有名な武蔵。」

圭吾はそれを聞いて、武蔵が平さんに懐いている理由が分かった気がした。

武蔵はいつも、平さんの言葉に忠実で、圭吾が何か不安な事を少しでも口にすると、「平さんの言う通りにしていれば、大丈夫。」と、自信満々に言う。

そんな武蔵と一緒にいると、圭吾も少しずつ、平さんに感じていた、戸惑いも、薄れていく。

しかし、それはすっかりとは無くならない。

心のどこかで、存在はするが、それを口にするのは、いけない気持ちになる。

「最近、平さんにお客さんが多いだろ?」

武蔵は走りながら、圭吾に耳打ちしてきた。

圭吾が頷くと、武蔵はニヤリと笑った。

「近々、デカイ案件が入る予兆だぜ。」

武蔵はそう言って、ウインクをした。


「俺、まだ本番に立ち合った事、ないんだ。いつも、小島さんが平さんについて行くからさ。でも、今回の依頼は小島さんだけじゃ、足りないらしい。だから、平さんの知り合いが、手伝いに入るんだ。それで、もしかしたら、俺達も駆り出されるかも知れない。」

武蔵は目をキラキラとさせている。

「なんで、分かるんだ?」

「この前運んだ、段ボールだよ。あの中に、通信機が幾つも入ってたんだ。他にも、いろんな変装道具とか…。」

武蔵が圭吾に顔を近づけて、小声で言った。

「拳銃とかさ。」

圭吾は、ビクンと体を跳ねさせ、武蔵を見た。

武蔵は、少年のような眼差しで、圭吾を見返した。


事務所に戻ると、平さんや小島の姿はなかった。

武蔵は圭吾を手招きして、倉庫へと連れてきた。

「ほら!」

武蔵は、倉庫に納められている段ボールの一つを開けて、中身を圭吾に見せた。

そこには、新しそうな拳銃が、何丁も詰められていた。

圭吾はその一つに、そっと手を伸ばした。

触った指先から、冷たい感触が伝わる。

「何をしている。」

突然後ろから、低い男の声が聞こえた。

二人はビクッとなりながら、そっと後ろを振り返った。

「なんだ~平さんか~。びっくりさせないでよ。」

武蔵は声を掛けてきた平さんを見て、安堵した。

しかし、武蔵とは対照的に、平さんはこちらを睨んでいる。

その横には、小島が無表情なまま、圭吾達を見ていた。

「触ったか?」

平さんは、圭吾の横に立ち、段ボールの中を見た。

「…すみません。少しだけ、指先だけ…。」

圭吾は、平さんの横顔に、そう告げた。

平さんは小島に合図した。

すると、小島は圭吾に「どれを触った。」と、聞いてきた。

普段は喋らない小島の声に、驚きつつ、圭吾は触ってしまった一つを指差した。

小島はその拳銃を持っていた布に包み込み、拭き始めた。

「二人とも、ちょっと来い。」

平さんが、低い声のまま、二人に言った。


平さんに言われるまま、ついていくと、事務所の中に戻ってきた。

暗い倉庫から、電気のついた明るい事務所に入ると、圭吾は少しほっとした。

事務所には何人かの男達が、二人を待っていた。

何か威圧的な空気を感じ、圭吾は安心したのもつかの間、また緊張に包まれた。

男達を見ると、平さんの知り合いで、最近事務所に出入りしていた顔ぶればかりだった。

「平さん!一体どんな仕事が始まるの?。あの拳銃、本物だよね?俺も触りたかった~。」

事務所に戻るなり、武蔵が興味津々で平さんに寄った。

圭吾とは対照的に、武蔵は威圧的な空気を感じていなかった。

ドカッ!

鈍い音がして、武蔵は壁に背中からぶつかった。

平さんが、武蔵を思い切り、殴ったのだ。

そして、武蔵の胸ぐらを掴んだ。

「馴れ馴れしく口を聞くんじゃねぇ。」

「…ひ、ひら、…さん?」

ドカッ!

武蔵はまた、平さんから殴られた。

圭吾は、息を飲み、その様子を見ていた。

とても武蔵を気遣ってやれる雰囲気ではなかった。

「お前は少し、調子に乗りすぎた。馬鹿な見習いのまま、こっちの言うことを、ひたすら聞いていたら良かったのによぉ。」

今まで、見たことも聞いたこともない、平さんの口振り。

武蔵は殴られたショックと、平さんの変貌ぶりに、言葉を失っていた。

平さんは、横目で圭吾を見た。

しかし、すぐに目線を武蔵に向けた。

「武蔵、そんなに俺の仕事に興味があるなら、教えてやるよ。」

そう言うと、平さんは知り合いの面々に目線を送った。

すると、3人の男達が、武蔵を囲った。

平さんは机に座り、煙草に火を付けた。

それを合図にするかの様に、男達は武蔵を殴り始めた。

時折、武蔵のうめき声が聞こえる。

それをBGMにするように、平さんが語りだした。

「俺達は数日の間に、ある作戦を決行する。その準備の為に、この事務所を使ってきた。」

平さんは、遠くを見るような目をした。

「長かった…。今日に辿り着けるまで…。何度も苦い汁を飲まされた…。」

平さんは、胸に煙草の煙を溜め込み、ゆっくりと、吹かした。

「ある時、俺は気付いた。この作戦を成功させるには、一般人の協力が必要だと。何も知らない一般人の動きは、誰の目にも止まらない。そうすることで、必要な情報と物資を集めることが出来た。…武蔵、お前は本当によく働いてくれたよ。」

平さんの言葉に、三人の男達が動きを止めた。

武蔵は、顔を腫れ上がらせ、お腹を押さえながら、倒れ込んだ。

「ひ、ひら、…。」

そう言い掛けて、武蔵は言葉を切った。

「俺は…あなたの…なんだったんですか…?」

武蔵は敬語に変えて、尋ねた。

平さんは武蔵にいつもの笑顔を向けて言った。

「道具だよ、武蔵。」

武蔵の目に、一気に涙が溜まった。

「俺は…あなたを、お父さんだと思っていました。…とても、大切にしてくれたと…。」

武蔵は、小刻みに震えながら、泣いていた。

そんな武蔵の言葉に、平さんは、堪えきれず、大笑いをした。

「なぜ、俺に…強くなれと…名前をくれたんですか?…。なぜ、俺を…選んで…くれたんですか?」

「強くなれ?そんな事、言ったか?覚えてねぇなぁ。」

平さんはため息混じりに答えた。

「お前達を選んだのは、ただ一つ。身寄りがなくて、めんどくさくねぇって事だ。」

路頭に迷っていた武蔵と、履歴書を書かされた圭吾。

二人とも、家族がいないのは、バレバレだ。

圭吾は、少しずつ分かってきた。

平さんに感じていた、戸惑い。

それは、本当の姿が分からないと言うことだ。

平さんは、何かを成し遂げようとするため、世間から距離を置き、圭吾達を使って、準備をするため、自分を偽り続けていた。

最初に向けてくれた笑顔も、優しい言葉も、全ては目的の為。

「武蔵、幸村。」

平さんは、鋭い目付きで、二人を見た。

「お前達の動向は、俺の手の中だ。」

圭吾は、平さんから逃げられない事を知った。


次の日から、事務所での雑務は圭吾一人になった。

平さん達は、奥の部屋で集まることが増えた。

その部屋で何が行われているのか、圭吾は分からなかったが、平さんが言っていた「ある作戦」に関係することなんだろうと推察していた。

きっと、決行される日は近い。

平さん達から放たれる緊張感が、日に日に増している。

そして、殴られた武蔵は、顔が腫れたまま、警備会社の仕事に行っていた。

きっと、警備会社にも平さんの仲間がいるはずだから、武蔵の顔の腫れの事も、深く追及されることはないだろうと圭吾は想像していた。


武蔵とは、あれから会話をしていない。

事務所で会うことはあっても、言葉を交わすことはなかった。

きっと武蔵は怒っているのだろう。

殴られていた武蔵を、圭吾は助けようとしなかったのだから。

武蔵から軽蔑されても仕方がないと、圭吾は思っていた。

また武蔵は、笑わなくなった。

それだけではなく、明るくて、陽気な性格の武蔵が、まるで別人のように喋らなくなってしまった。

しかし、平さんに対しての、忠誠心は増している。

逆らえないのではない。

心まで、平さんに支配され、平さんの言葉しか耳に入らなくなっていた。


ある雨の日。

午後11時。

圭吾は平さんに呼ばれ、作戦決行を知らされた。

ついに、平さん達が動き出す。

圭吾は、警備員の制服を渡され、ワゴン車に乗せられた。

詳しい事は、何も言われなかった。

ただ、言う通りに動けとだけ、伝えられた。

一体平さん達は、何をするのか。

圭吾は何をさせられるのか。

不安と緊張が圭吾を包む中、ワゴン車は、あるビジネス街に入っていった。

ビルとビルの間に、ワゴン車が停められた。

「ここで、平さんの連絡待ちだ。」

ワゴン車を運転していた、小島が前を向いたまま、圭吾に告げた。

平さん達は、別行動をしている。

「あの…。」

圭吾が小さく呟いた。

小島は運転席に背中を預け、耳にはイヤフォンを付けている。

平さん達からの連絡が、小島のイヤフォンに届くのだろう。

圭吾の呟きなど、聞こえていないと諦めかけた時、小島が口を開いた。

「武蔵なら、警備会社の一員として、この銀行にすでに入っているさ。」

圭吾は、小島に心を読まれたと思った。

そのくらい、的確に、圭吾が聞きたい事が、小島から告げられた。

「あいつは、この日の為に、警備会社に入ったんだ。」

「武蔵は、その事を、知っているんでしょうか?」

「知っている。殴られたあの日、作戦の全てを知らされている。」

それを聞いて、圭吾はなぜだか、安心した。

武蔵は全てを知った上で、平さんに付いているのだ。

その事が、武蔵には幸せなのではないかと思えたからだ。

「幸村、お前は変わってるな。」

小島は、車の窓を流れる雨粒を眺めながら、言った。

「普通なら、自分の行く末を聞いてくるもんなんじゃないのか?」

そう言われ、圭吾はしばらく考えた。

そして、一つの答えが出た。

「俺は、今の状況を、楽しんでいるのかも知れません。」

「…やっぱり、お前は変わってる。」

そう言って、小島は小さく笑った。

圭吾は、小島が本心から笑うのを、初めて見た。

「…何が起こるのか、何も分からないのは怖いです。でも、何も知らされていないから、逆に、何が起こっても、知らないで通せる。もし、警察に捕まるような事件に、首を突っ込んでいたとしても、何も知らないのだから、何も話せない。…だから、少し気楽なんです。」

「なるほどな。」

圭吾は今なら、小島にいろんな事を聞いてもよい気がした。

「…小島さん。平さんは俺に全てを偽っている。あなたはどうなんですか?」

しばらく沈黙が続いた。

でも、圭吾は小島なら話してくれると感じて、言葉を待った。

「…俺は、小島じゃない。それに、B施設出身でもない。」

「…初めて会った時は、平さんの話に、合わせていただけなんですね?」

その言葉に、返事はなかった。

しかし、それこそが小島の返事なのだと、圭吾は思った。

そして圭吾は、平さんも小島も、本当の姿を見せない事に、感謝した。

可笑しな話だが、そう思うのだ。

訳も分からないまま、作戦に加担させられた。

しかし、逃げ道も用意されているように感じる。


パン!

パン!


雨の中、乾いた銃声が響いた。

ビルの中からだ。

圭吾の体に、一気に緊張が走った。

小島を見ると、イヤフォンからの声を聞いている。

「幸村、車を出ろ。」

圭吾は言われた通りに、すぐに車を降りた。

「そこの道口に立て。この道に、誰も通らないようにするんだ。」

頷くと圭吾は、雨の中を走って、道口に出た。

圭吾が立つと、何人かが、さっきの音は何かと、警備員の制服を着た圭吾に聞いてきた。

「離れてください。ガス管が破裂したかもしれません!」

圭吾は咄嗟に嘘をついた。

我ながら、上手な嘘だと思った。

集まってきていた人たちが、圭吾の言葉を信じ、わらわらと離れていく。

圭吾の数メートル後ろでは、何かガタガタと物音がしているが、圭吾は振り返らず、まっすぐ前を向いて、立っていた。

圭吾の心臓は、緊張と興奮で、高鳴り続けている。

そして、なぜか、平さん達の作戦が成功することだけを願う自分がいた。

不思議だ。

平さんには、騙され、怖い目に合わされたのに、こんな感情を持つなんて…圭吾にも信じられなかった。

銃声から5分もしただろうか?

ワゴン車のドアが閉まる音が聞こえた。

圭吾が振り返ると、小島が圭吾を手招きしている。

圭吾は、急いで車へと走った。

圭吾が乗ると、車は後ろに一気に下がり、後ろに広がる大きな通りを走りだした。


車の中には、平さんと仲間達が三人、そして、幾つものジュラルミンケースが詰め込まれていた。

仲間の三人は、以前武蔵を殴っていたメンバーだと認識した瞬間、圭吾に、ある疑問が浮かんだ。

(武蔵…武蔵がいない…。)


ワゴン車は、ある港に着いた。

そこには、一隻の船が停泊していた。

移動の間に圭吾を含む、全員が着替えを済ませていた。

圭吾は船の乗船チケットを渡され、平さん達と船に乗り込んだ。

小島は、ジュラルミンケースを大きな布で隠し、ワゴン車を船内にある駐車場に停めた。

船の中には、広いスペースがあり、そこに乗客が適当に座っていた。

決められた席などなく、みんな床にそのまま座っている。

圭吾達の他にも、何人かの客がいたが、夜中だったこともあり、船の中は、静かだった。

圭吾は誰とも喋らないまま、船に乗っていた。

平さんや小島達は、時々会話をしていたが、和やかな雰囲気ではなく、情報を集めている感じだった。

圭吾自身もまだ、緊張の中にいた。


船に乗って、何日か経つと、段々と平さん達の言葉数は増え、緊張感も薄れていった。

しかし、圭吾の緊張感と不安はまだ、続いていた。

(これからどうなるんだろう?この船はどこに向かっているんだろう?)


圭吾は時々、小島と他愛のない会話をした。

何が起こったのか、これからどうなるのか、一切触れなかった。

そして、武蔵がいない理由も聞かなかった。

平さん達の和やかな雰囲気を壊してはいけない気がしたのだ。


船に乗って、何度目かの朝を迎えた。

船は、とある港に着いた。

平さん達と、船を降りる。

そして、またワゴン車に乗り換える。

ワゴン車は、広大な茶色の道を走っていく。

圭吾達は、アメリカの地に、足を踏み入れていた。


ワゴン車のタイヤが土煙を巻き上げながら、走っていく。

アメリカの大地は広く、どのくらい移動したかも分からない位、同じ様な景色が続いていた。

空が暗くなり始めた頃、小さな街に入った。

その街で唯一、存在していたホテルにチェックインをして、近くの酒場で、食事を取った。

食事が終わると、圭吾はホテルの部屋に一人で戻った。

平さん達はまだ飲み足りないと、酒場に残っている。

圭吾の同室者は、小島だった。

しかし、小島が部屋に戻ってくることはなかった。


朝になり、目が覚めると、圭吾はあることに気付いた。

同室者だったはずの小島の姿だけでなく、他の部屋に誰もいないのだ。

そして、圭吾の部屋には、小さなバックが置かれていた。

中を見ると、そこには、換金された札束が、乱雑に入っていた。

圭吾は、手切れ金と共に、ホテルに置き去りにされたのだと、理解した。

すると、身体中の力が抜け、圭吾はその場に座り込んだ。

平さん達と一緒に過ごしていた間、気が休まる日はなかった。

常に緊張が付きまとっていた。

圭吾は、やっと解放されたのだ。


それからの圭吾は、手切れ金を使って、しばらくアメリカで過ごした。

生活の基盤を作るため、闇の人間に、お金を渡したりもした。

平さん達が置いていった手切れ金が、綺麗なお金な訳がないと、圭吾には分かっていた。

何が起こったのか、はっきりとは分からないにしても、手元にあるお金をいつまでも持っていてはいけないと感じていた。

お金を早く手放し、自分を綺麗にしたかった。

忘れたかった。

何もかも。


アメリカで生活をして5年が経った頃、自分で働いたお金で生計を立てられるようになっていた。

そして、自分が稼いだお金を使い、日本に戻った。

日本での生活の為、アルバイトを始めた。

あの日、チラシを受け取らなければ、旅館の厨房で働いていただろう。

そう思うと、料理の世界でもう一度人生をやり直したいと思った。

圭吾は、街中を歩き回り、一軒のレストランに辿り着いた。

そのレストランの壁には、アルバイト募集のチラシが貼ってあった。

(ここだ!)

圭吾はすぐに、レストランの店員に声をかけ、アルバイトの希望を伝えた。


レストランでアルバイトをしながら、圭吾は図書館に通った。

レストランでは、就職先を探していると言っていたが、本当は、あの日起きた事について、図書館にある昔の新聞記事を探し、調べていた。

5年前の春頃の新聞から、圭吾は平さん達が起こした、とんでもない事件について、知ってしまった。

そして、自分がその事件に加担している事実を知った。


あの雨の日、平さん達は、ある銀行で強盗事件を起こしていた。

深夜の銀行に、数人の人間が押し入り、警備員を脅して、現金を奪った。

そして、脅された警備員は、犯人が持っていた拳銃で胸を打たれ、殺されていた。

新聞には、犠牲になった警備員の顔写真が載っていた。

(…武蔵…。)

圭吾は理解した。

平さんが武蔵を警備会社に入れたのは、銀行を襲う為だと小島が言っていた。

そして、武蔵はそれを分かった上で、警備会社に入り、現金の保管場所や金庫の開け方を、知ったはずだ。

あの日の現場は、武蔵が一人で警備を任されていた。

そして平さん達と合流し、一緒に現金を奪って逃げるはずだったのだろう。

しかし、予想外の何かが起き、武蔵は殺された。

もしくは、平さんは始めから武蔵を犠牲にするつもりだったのかもしれない。

どちらが本当なのかは、圭吾には分からない。

もう、知ることも出来ない。

新聞の記事の最後に、「犯人達の手掛かりは、何も見つかっていない。」と、書かれていた。

(見つかるわけがない。何も痕跡を残さないように、用意周到に動いていたんだ。俺と武蔵を騙し、全てを偽っている。あの平さんが、へまをするはずがない…。)

そして、圭吾は気付いた。

いつの間にか、心を平さんに操られていた事を。

最初は偽りの笑顔に騙された。

そして、武蔵を殴ると言う、凶悪な人間像を見せつけられ、逃げられない様に、支配された。

また、作戦内容を告げないことで、圭吾の逃げ道を作ると言う優しさを見せ、裏切りの心を持たせないようにしていた。

全ては、平さんの計画通りだった。

(…この事件は、迷宮入りだ。)


過去を振り返り、圭吾はため息をついた。

(ろくでもない、人生だ。)

手を額に当て、もう一度目を閉じた。

瞼の裏に、武蔵や平さんの顔が浮かんでくる。

(この人達に、出会わなければ…。)

しかし、違う考えも浮かんでくる。

(知らない人間に、迂闊についていったのは、俺か…。)

圭吾は、自嘲気味に笑った。

探偵事務所なんて、めったに触れることのないものに、自分の好奇心を揺さぶられた。

全ては自分の判断が、間違った方向に導いていた事に気付く。

「間違いは、俺か。」

そう考えると、自分自身の存在が間違いのように感じる。

(元々は、親に捨てられていた。邪魔な存在だったんだ。なのに、なぜ生きてきた?俺の存在に、意味なんてあるのか?)

辺りはすっかり暗くなっていた。

そんな中で考えていると、とことんマイナスに引っ張られる。

圭吾はシートを上げ、目の前に広がる景色を目に入れた。

暗闇の中に、微かに先が見える。

(このまま、車を走らせれば、あっちに行けるのかな?)

圭吾は車のエンジンを回した。

車のライトが自動でつき、崖までの道のりを教えてくれる。

圭吾はアクセルをゆっくりと踏んだ。


ピリリリリ。

ピリリリリ。


突然圭吾のスマホが着信を知らせた。

その音に、圭吾は自己の思慮の中から、目を覚ました。

圭吾はブレーキを踏み、車を止めた。

スマホは鳴り続けている。

「もしもし。」

電話に出ると、翔子の焦った声が聞こえた。

「あなた!どこにいるの?こんな時間まで!心配したんだから!」

翔子は涙声で怒っている。

圭吾は車の時計を見た。

もう19時を回っている。

「心配してくれてたのか?」

さっきまで、自分の存在意義に疑問を感じていた圭吾には、そんな言葉しか出てこなかった。

「当たり前じゃない!なんの連絡もないし、朝から調子悪そうだったし、心配するに決まってるでしょう!」

翔子が自分を心配してくれている。

その事実を知って、圭吾は目頭が熱くなるのを感じた。

(そうだ。俺には家族がいる。)

圭吾は目頭を押さえながら、翔子に言う。

「心配かけてごめん。ちょっと遠出をしてしまって。今、帰るとこだよ。」

声の震えが翔子に伝わらないように、圭吾は出来るだけ明るく伝えた。


圭吾は車を走らせながら、翔子との過去について、思い出していた。


平さん達が起こした事件の記事を読んでから、圭吾はより一層、仕事に励んでいた。

自分が犯した罪を償うように、そして、自分自身を綺麗にするために。

そんな時、大学生の翔子と、恋に落ちた。

子供が出来たと言われた時は、戸惑った。

あの雨の日の事件が、頭をよぎったからだ。

しかし、5年という月日が流れ、圭吾自身も普通の生活を送れていると言う現実が、圭吾から過去を消し去った。

そして子供が出来たと言う翔子の手を取り、圭吾は言った。

「結婚しよう。」


(俺はあの人の様にはならない。)

そう思いながら、生きてきた。

自分の全てを偽った平さんの様な人間には、なりなくなかった。

だから、大切な家族には自分をさらけ出してきた。

家族もそれを受け入れてくれていた。

(もう、見てみぬ振りは、しなくない。)

平さんの仲間達に殴られていた武蔵を、助けられなかった過去を、圭吾は忘れられない。

二度と同じ轍は踏みたくない。

だから、家族を一番に考えてきた。

(大丈夫だ。俺は変われた。)

翔子と家庭を築けた事は、圭吾の誇りだ。

(俺は、綺麗になれたんだ。)

そう思うと、暗闇だった目の前が、開けるようだった。


圭吾が家についた頃は、21時を回っていた。

玄関に入るなり、翔子は泣きながら、圭吾を抱き締めた。

その様子を、ほっとした顔で見る、太賀の姿があった。

小学生の美空は、太賀が寝かしつけてくれた後だった。

圭吾は、翔子と太賀に、連絡をしなかった事を謝った。

つい、自分の世界に入り込み、ドライブを長引かせてしまったと、説明した。

「まったく、あなたって人は…。」

翔子は呆れながらも、微笑んでくれた。

「父さんらしいけど。」

太賀も肩を竦めながら、笑ってくれた。


遅めの食事を終え、風呂に入った。

階段を上がり、太賀の部屋の前を通ると、微かにペンを走らせる音や、本などのページを捲る音が聞こえた。

時刻は11時を回っている。

(遅くまで、勉強してるんだな。)

普段なら、圭吾が先に寝室に入っているため、気付かなかったが、太賀は、遅くまで勉強をしていた。

「はぁ~。」

太賀が背伸びでもしたのだろうか?

ため息と共に、椅子の背もたれがギィーと音を立てた。

コンコン。

圭吾は、太賀の部屋のドアをノックした。

「はい。」

太賀の声が返ってきたので、圭吾は息子の部屋へと足を踏み入れた。


「久しぶりだな。お前の部屋に入るのは。」

そう言いながら、圭吾は部屋を見渡した。

思ったより、片付いている。

「ちゃんと、掃除してるんだな。」

「たまに友達が遊びに来るからさ。」

圭吾は気付いた。

部屋を綺麗にして迎えるのは、友達じゃないと。

「彼女か?」

太賀は体をビクッとさせて、圭吾を見た。

その表情には、驚きと焦りが出ている。

(年頃の子供に、直球過ぎたか。)

「いきなり、ごめんな。」

圭吾は苦笑いをした。

「あ、…いや、…別に…。」

太賀は圭吾から顔を反らし、また机に向かったが、なんだかバツが悪そうにしている。

(太賀もそんな年頃か…。)

そのうち太賀も、結婚するだろう。

まだ気が早いが、きっと翔子の様に、綺麗で家庭的な女性を連れてくるんだろう。

そんな想像をしてしまう自分が少し可笑しくて、圭吾はクスクスと笑った。

「なんだよ。」

圭吾が自分を見て笑ったのだと誤解した太賀が、むすっとした声で言った。

「いや、ごめん。違うんだ…。お前は俺に似た所があるから、きっと母さんみたいな女性(ひと)を、いつか連れてくるのかなって想像してしまったんだよ。」

圭吾のその言葉に、なぜか太賀はうつむいてしまった。

そして、小さい声で呟いた。

「たぶん、結婚はしないよ。」

結婚の想像なんて、17歳には難しいよなと、圭吾は思いながら、太賀の頭に手を置いた。

「まだ想像もつかないよな。」

「…そうじゃないよ。」

太賀は下を向いたまま、また呟く。

圭吾は太賀が何かを抱えているのかもしれないと感じ、話を聞くために、太賀のベッドに腰をおろした。

その圭吾の行動から、太賀は自分の話を圭吾が聞くつもりなんだと理解した。

「俺は、父さんみないに、普通じゃないんだ。」

太賀の言葉が、圭吾の胸を締め付けた。

(普通…か…。)

自分の過去を知らない太賀には、自分は普通の父親に見えている。

胸の中が、ざわつき始める。

太賀に嘘をついているような、罪悪感。

しかしそれとは逆に、普通の父親になれている事への満足感もある。

圭吾の感情は、振り子の様に揺れるが、今は父親でなくてはならない。

「何か、あったのか?」

圭吾は自分の胸の内をしまいこみ、太賀と向き合った。

「俺、友達に嘘をついてるんだ。」

「どんな?」

太賀は黙ってしまった。

「じゃあ、どうして、嘘をついたんだ?」

「そうしないと、…いけないから。」

その太賀の言葉に、今の自分が重なる。

「…辛いな。」

それは、圭吾の本心だった。

圭吾も家族に嘘をつき、生きてきた。

後ろめたさが完全に消える時など、一度もなかった。

だから、常に家族に誠意を見せてきた。

「太賀。」

名前を呼ばれ、太賀は顔を上げたが、圭吾に背中を向けたままだ。

「つかなきゃいけない嘘も、世の中にはある。嘘をつくことで、守れるものだってある。」

(俺は、嘘をつくことで、家族を守ってきた。)

「だから、必要以上に自分を責めなくて良いんだ。」

太賀は、振り返り、圭吾を見た。

圭吾は太賀に頷いて見せた。

「でもな、嘘をつくなら、やっちゃいけないことがある。」

「何?」

「自分を偽ることだ。」

圭吾は立ち上がり、太賀の肩に手を置いた。

「自分を偽るな。相手に自分をさらけ出せ。それが、嘘をついている事への、せめてもの償いになるはずだ。」

「さらけ出すなんて…。」

「真実を言えなくても、形を変えて、その想いを伝える手段はいくらでもある。」

そう言われ、太賀は想いを巡らせていた。

その様子に、圭吾は安心した。

「それで良いんだ。いつでも、相手に真剣に向き合え、太賀。」

圭吾が自信を持って伝えられるのは、それしかなかった。

家族に嘘を突き通してきたが、家族に自分の想いを偽ったことはない。

(俺は、お前達を愛してる。)


深夜2時。

外から雨音がしていた。

静かな住宅街に建つ、鈴木家に突如、インターフォンが鳴り響いた。

「誰?こんな夜中に。」

来客にはあり得ない時間のインターフォンに、翔子は驚きと怖さに身を震わせた。

横で寝ていた圭吾は、ゆっくりと起き上がった。

そして、翔子の肩を引き寄せ、一瞬抱き締めた。

「俺が出るよ。」

そう言って、翔子の額に軽くキスをして、ベッドから降りた。

寝室を出ると、太賀が圭吾を不安そうに見ていた。

そんな太賀に、かわいそうかも知れないが、託すしかなかった。

「母さんと、美空を頼む。」

そう言うと、圭吾は階段を降りていった。

「父さん!」

圭吾の背中に、太賀の戸惑った声が響いた。


圭吾は、玄関の鍵を開ける前に、息を吐いた。

自分を落ち着かせるためだ。

そして、しっかりと目を開けて、玄関の鍵を解除した。

「夜分に申し訳ありません。鈴木圭吾さんですね?」

開けた玄関のドアの前に、背広を着た男性が二人、その後ろに、スーツ姿の女性が一人立っていた。

さらに、その女性の後ろにもう一人、背広を着た男性がいた。

四人とも、真顔で圭吾を見ている。

「我々は、こういう者です。」

背広の男性のうちの一人が、背広の内側のポケットから、あるものを出し、圭吾に見せた。

(やはりな。)

インターフォンが鳴った時から、何となく気付いていた。

「警察の方ですね。」

出された警察手帳を見て、圭吾が言った。

すると、警察手帳を出した警察官が、手帳をしまいながら言った。

「少し、お話を伺いたいんですが…。」

そこまで言って、警察官は、話を止めた。

階段から、太賀と翔子が降りてきたからだ。

二人の表情は、不安と戸惑いに満ちている。

「ご家族の前ですが、話を進めます。」

警察官は圭吾に向き直った。

圭吾は、背筋を伸ばした。

「鈴木圭吾さん。22年前に起きた、銀行強盗殺人事件、ご存知ですよね、」

圭吾は頷く。

「捜査線上に、あなたの名前が上がってきました。任意同行願えますか?」

その警察官の言葉に、翔子は言葉を失い、太賀は何が起きたのか分からず、混乱していた。

「父さん!何?何の話をしているの?」

「太賀。父さんは過去を清算してくるよ。いつ戻れるか、分からない。だから、お前にしか頼めないんだ。」

圭吾は、取り乱す太賀の肩を強く掴み、太賀の目をしっかりと見る。

「もう一回言うぞ。母さんと、美空を頼む。」

圭吾の覚悟を決めた目に、太賀は言葉が出なかった。

「鈴木さん。良いですか?」

警察官が、圭吾に確認をする。

「はい。」

圭吾は警察官に付き添われながら、玄関を出る。

その直前、玄関の鏡に、圭吾が映った。

圭吾は鏡の中の自分を、横目に見た。

(俺も、年を取ったな…。)

ふと、そんな事を思った。

この家に来たときは、まだ若く、ままごとの様な結婚生活だった。

しかし、時を重ねる内に、圭吾はちゃんと父親になっていた。

圭吾は改めて思う。


「こんな俺にも家族が出来た。普通の幸せを手にすることが出来た。」


そして、誓う。


「お前達をずっと、愛し続ける。たとえ、お前達が俺を憎んでも、俺はお前達と家族になれたことを、誇りに思う。…もう二度と、会えなくても…。」


そして、静かな住宅街が目を覚まさないように、音を立てずに、パトカーは進んでいった。

家には、取り残された翔子と、太賀が玄関に立ち尽くしていた。

何が起きたのか、全く飲み込めない。

そんな二人に、残っていた女性警察官が付き添っていた。


圭吾が警察に連れていかれてから、一週間後、(わたし)はこの家族の行く末を見守った。

玄関の(わたし)の前を、ふらふらになった翔子を支えながら、太賀が歩き、

その後ろを、美空が不安そうな顔で、翔子の服の裾を掴みながら、通っていく。

三人は、家を出るのだ。

玄関を出る前、翔子が(わたし)を見た。

若くて綺麗なはずの翔子が、年老いて見えた。

そして、彼女の目には、輝きが感じられない。

そんな翔子を支える太賀は、幼い顔立ちの中に、決意を感じる目をしていた。


またこの家族が、(わたし)の前に現れる日は来るのだろうか?


(わたし)が見つめ続けたこの家族の未来を、(わたし)はまた見つめてみたい。


切に願う。


どうか、またいつか…。


読んで頂き、ありがとうございました。

気に入って頂けると、幸いです。


他にも雰囲気の違う作品を投稿しております。

連載で

「初心者マークの勇者」

「妖怪探偵 サイコロ(がん)

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