その猫
自分の迂闊を、今ほど呪いたいことがかつてあったろうか。
(まあ、今までもやらかしてはきたけどね。色々。人生長いわけですし!)
でもそんな通り過ぎた反省など今はどうでもいい、現状差し迫っているのは情報を得るべく追い回していた時点で思い出すべきだったことをまんまと見過ごした事実だ。
(道理で名前に聞き覚えがあるはずだよね……。会ったことあるわー、この少年)
前の人生で死ぬ少し前、つまり十三年以上前。目の前にいる二十歳前後の青年は、今の彼女よりずっと幼かった。会ったと言っても湯が二回沸騰するかどうかの短い時間で、幼子の記憶に残っているほうがおかしい。はず。だが。
(一回死んだところで私も覚えてるんだから、死んでない少年が覚えててもおかしくない。……のか?)
その判断基準は自分でもどうかと思うが、何を基準にどう判断しているかなんて所詮他人様には分からない。僅かに目を瞠ってこちらを凝視している少年が、何を考えているか分からないように。
(でもほら、少年は長じても面影があるから私が気づくのはあれとして、こっちは姿形から違うわけだし。覚えてるはずがないって)
覚えてない、大丈夫、不審者ではないと何度となく自分に言い聞かせ、声を上げてしまった理由として猫を見た気がすると苦しい言い訳を試みる。咄嗟に猫が出たのは、かつて少年を道端の猫と評したのを思い出したから。墓穴を掘り進めている気はするが気にしない、相手が覚えているはずもないから大丈夫、
「道端?」
不審そうに主の後ろを窺っている従者の呼びかけに、再び変な声を上げそうになって慌てて呑み込んだ。ぼろを出すな、落ち着けと自分を宥めつつ、気のせいだったようですねと誤魔化しはするが口許が引き攣るのは止められない。
(つける、普通、猫に道端って名前! 嫌味か、皮肉か、嫌がらせかーっ!!)
飼い猫にそんな名前をつけるのは、屈辱を忘れるなと自分への戒めか。ともあれあの短な出会いを、彼女のみならず少年もがっつりと覚えていると知らしめられて冷や汗が浮かぶ。取り繕った笑顔の下で必死に頭を働かせ、当時の自分が何をしたか必死で思い出す。
(まさかまた会う羽目になるなんて思わなかったから、大分適当な対応をした気がする。迷子の少年は放置するんじゃなくて、せめて行く先を示すべきだったか……っ)
頭を抱えたい気分で反省するが、やってしまった過去は今更覆らない。とりあえず今は、絶対に正体を知られるわけにはいかないと気を引き締めるべきだろう。ただでさえ裳着前に一人で出歩く得体の知れない少女、と怪しいを絵に描いたような状況だ。これ以上疑わしい言動を見せれば、摘み出されるどころか切って捨てられても文句は言えない。
(まあ、実際に切られる前に逃げるくらいはできるけど。御三家を敵に回してこの国から出て行く方法を探すとか、考えただけでげんなりする……)
何のために後見を探しに来たのか、少しでも楽に身分証を得るためだったはず。そのために必要なことは?
(雪代奏はカヤ・ウェインスフォードとは別人。知らない人。目の前の静寂家当主とは会ったこともないし、猫の名前も受け流す。変わった名前なんて誰でもつける、許容範囲! よし大丈夫! 誤魔化せ!)
少年に名づけの才能がなかろうと、儀式を執り行ってもらう上で何の問題もない。元服と違って改名は必要ないのだから、奏が道端になる可能性がないならそれでいい。さっさと要件を済ませようと決めて澄ました顔をしていると、疑るような視線でこちらを見据えながら当主は自分の従者に声をかけた。
「春朗太、茶を置いたら下がれ」
「っ、ですが、」
「下がれ」
押し問答にもならないのは、当主が低い声で命じれば従者は従うしかないからだ。側にいる期間によって多少のごり押しはできても、主の本気には逆らえるはずがない。ぐっと口を引き結んで悔しさを滲ませつつも、彼女の前に茶と茶菓子を用意すると小さく一礼してそのまま部屋を出て行った。
(従者を下がらせたところで、あの頃と違って誰かに後れを取るほど弱くはないみたいだし──違う、知らないんだけど。知らなくてもほら、相手の実力を測るのは基本だしね!?)
誰にともなく言い訳しつつ、いきなり人払いをした当主をちらりと窺うと彼は相変わらずこちらを見据えている。さっきまでは風変わりな出来事を面白がっている様子だったが、今では警戒したように少しも視線を外されない。そんなに気を張らなくても何もしないのにと思いはしても、まさか言えるはずはなく。愛想笑いの一つも浮かべるべきかと、困ったまま微笑うと当主はようやく口を開いた。
「猫はお好きか」
「? はい、小動物は比較的」
「そうか。では道端がまたここに来たなら、撫でてやってくれるかな」
実際に猫がいたわけではないと分かっているだろうに、またと強調された言葉に引っかかりを覚えつつも、それは是非と笑みを深める。何の皮肉だ! と叫ぶでもないこの受け流し、私も大人の対応ができるようになりましたよと内心に胸を張る。
「ところでカヤ嬢、何か話があるのではなかったか」
「はい、ですが今日のところはお暇させて頂こうかと、」
せっかく水を向けてもらったのに惜しい気はしつつ、これ以上の失敗を重ねる前に引き上げて作戦を立て直そうとしてはっとする。今、当主は何と呼びかけてきた?
振り返って反省するまでもなく、やっぱりと何故か弾んだ声が聞こえて視線を上げると当主の顔が輝いている。
「カヤさんですね……!」
腰を浮かせて今にも駆け寄ってきそうな当主に、困ったように眉根を下げて頬に手を当てた。表情からして恨まれているわけではなさそうだが、覚えてなくてもいいんですけど! と心中に大きな悲鳴を上げても顔に出さないくらいは容易い。
「申し訳ありません、お人違いをされておられるのでは?」
「惚けないでください、カヤ嬢の呼びかけに否定もされなかったでしょう!」
「静寂家当主に呼び間違われたからといって、否定や訂正などできましょうか。会ったばかりの人間の名など、記憶されておられずとも不思議はないですし」
「もう何度か奏嬢とお呼びしていたはずですが?」
「言い間違いを指摘するなど無礼にございましょう」
「人違いは指摘されたのに?」
どうにか口にする言い訳にいちいち面倒臭く突っかかってこられ、舌打ちの一つもしたくなる。けれど、カヤなんて知らない人! と強く自分に言い聞かせ、すっ呆けて乗り切るべく小さく首を傾げた。
「呼び間違いと人違いでは、意味合いが変わってきましょう。私は雪代奏で、他の誰でもございませんので」
「いいえ、俺があなたを間違うはずがありません。言ったでしょう、あなたは俺の飼い主だと」
「っ、誤解を招く言い方をしないでくれる!? そもそも飼い主は他に見つけるって言ったでしょうが!」
勝手に責任を擦りつけてくるなと当時の心情を思い出して悲鳴を上げると、少年は蕩けるような笑みを浮かべて距離を詰めてきた。
「ああ、やっぱりカヤさんだ……っ。その姿はどうされたんですか、俺を探してきてくれたんですか、何かお役に立てますか、できることがあれば何なりと、」
「重い近い重いっ!! 自分の身分を思い出しなさい、御三家の一らしく振る舞うべきでしょうがっ」
「あなたの前ではただの道端の猫です、久し振りの飼い主に喜びを押さえられないのは仕方ないでしょう?」
咄嗟に逃げようとした彼女の行く手を阻み、許されるなら手を取ってきそうな勢いでぐいぐいと詰め寄られる。確か助けた直後もこんなやり取りをしたと思い出しながら、無造作に近づいてくる顔を押し返す。
「あの後、俺がどれだけあなたを探したか……。まさかあなたから会いに来てくれるなんて、夢にも思いませんでした」
まるで本当の猫のように、押し返す彼女の手にすりと額を寄せて懐いてくる。あの頃のように十歳にも満たない幼子がするならまだ可愛いとも言えるだろうが、二十歳に近い野郎に猫が如く懐かれても頬が引き攣るだけだ。いい加減に我慢も限界で、弟たちにしていたように語気を強める。
「いいから落ち着きなさい、少年! 姿勢! 座る!」
無礼と知りつつも鼻先に指を突きつけて短く命令すると、即座にぴしっと姿勢を正し、少し離れてきちんと座り直す当主の姿に頭痛を覚えて額を押さえ、堪え切れない溜め息をつく。
いくら聞き捨てならない発言だったとしてもあれだけきっちり反応してしまった以上、今更誤魔化しても無駄だろう。幸いにして恨んでいるのではなく未だに恩に着ていてくれるなら無理に否定することもないのかもしれないが、できるならここで当て身でも食らわせて色々となかったことにして逃げ出したい。
けれど隙を窺うような気分でちらりと視線を向けるが、覚えている頃より真面目に鍛錬を積んだらしい少年は元暗殺者であっても容易には倒せそうにない。しかも猫というよりは犬めいて尻尾を揺らしてこちらを見ている様は眩しいほど真っ直ぐで、直視に耐えない。
どこで間違った、と頭を抱えたい気分で唸る。
「何から話せばいいのか、もう……」
「? カヤさんが俺に会いに来てくれた理由からで構いませんが」
生まれ変わった云々は、実際に口にするとすごく胡散臭い。避けられるならこちらとしては願ったり叶ったりだが、そうすると説明がつかないことのほうが多いのにどうして彼はさっき口にした疑問さえ深く追及しようとしないのか。
そもそも彼女の犯した失態は名前に反応してしまい、猫と口走った二点だけのはず。それだけでカヤだと決めつけたことにも疑問を覚えるし、すんなりと受け入れた上で話を進めようとする姿勢に思わず目が据わる。
「あの頃とは姿形も年齢も違うのに、受け入れが早すぎない? もっとあるでしょう、色々と聞くことが」
「カヤさんがカヤさんだと証明された今、別に拘ることでもないですが。会いに来てくれたということは、何かお役に立てることがありますか? だとしたら光栄です」
「だから、受け入れが早すぎるっ。私がカヤを装ってるだけの可能性だってあるでしょう!?」
「俺はあの頃のことを誰かに話した覚えはないですし、猫云々と御存知なのはカヤさんだけです。仮にカヤさんが誰かに話しておられてその人物が騙るとすれば、もっと年齢を合わせた姿で最初から名乗られるのでは? それにここしばらく俺が見つけられなかったのもカヤさんだからとすれば納得ですし、何よりこの懐かしい気配はあなた以外に有り得ませんから」
にこにこと並べ立てられるが、どれもこれも納得してしまえるほどの説得力はない。凡そ思い込みで片付きそうだが、穴の多いその理屈で本人だけは納得しているのだから救いようがない。
「そんな騙しやすい性格の当主で大丈夫なの、静寂家……」
「カヤさんに騙されるなら構いませんが、誰かがあなたを騙ったならとりあえず寸刻みにして犬に食わせますよ?」
だから大丈夫ですと笑顔で請け負われるが、大丈夫のかかる場所が分からない。彼女が心配したのは静寂家の行く末だが、それよりも頭の中身を心配したほうがよかったのではなかろうか。
切実に思う。反省する。道端の猫には迂闊に近寄るな。