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猫の尻尾と女の名前  作者: あつろ
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それが出会い

 その時、カヤ・ウェインスフォードはソルボの国にいた。ヴィシュムから見て海を挟んだ西隣、ソソロトロ大陸に割拠する国の一つ。革命によって軍部が国を治めることになって三年、そろそろと反政府活動も起き始めていて治安がいいとは決して言えない。諸外国に向けては軍のある限り平和は維持できると主張しているが、活気づいていていいはずの港町でさえどことなく荒んだ空気を醸し出している。そろそろ末期だなと、肌で実感できる有様だった。

 そんなソルボで最も人が往来する港町の、荒廃した裏通りでひっそりと朽ちていく途中の廃墟、その屋上。標的の動きを探るべくぼんやりと周りを窺ったところ、明らかに他国の衣装に身を包んだ少年が結構な人数の男たちに追い回されているのに気がついた。


 動きやすそうな小袖に小袴、秀真まほろでしか見られないその衣装は久し振りに見た。世界中をうろうろしているカヤでさえ珍しく思うくらいだ、ソルボの人間にとっては見慣れないだろうが品質の良さは一目で分かる。そんな少年が供もつけず一人で不安げに歩いていたなら、悪い大人に付け込まれるのは当然の流れと言える。


「鴨が葱を背負って歩いてきたら美味しく頂くのは、万国共通だからねぇ」


 秀真から連想して浮かんだ言葉を呟きながら、こっちには近づいてくれるなの警告を込めて殺意を露にする。びくりと身体を竦めたのは逃げている少年だけ、追いかける男たちはそれにも気づけない類の雑魚らしい。


「……武術の心得はありそうだし、数がいようと勝てそうなのに。無手は苦手なのかな」


 教育が偏っているとこういうことが起きるのかと、ようやくの実感を得て感心する。得意な得物を見つけるのも大事だが、やはり基本は無手だ。倒しきれずとも武器を探すまでの時間を稼げるよう体術は必須だとして、どれだけの虐待──もとい、指導を受けたか。当時はただの鬱憤晴らしに使われているとしか思えなかったが、無手で戦う術を知らないまま追い回されることになったらカヤもあの少年が如く逃げ回るしかなかったのだろう。


 ね、だから言ったでしょう? と自慢げに胸を張る家族の顔が思い浮かび、はいはいと適当に同意しながら軽く手を揺らして想像を追い払う。生憎と、理解したからと言って納得ができるかどうかはまた別問題なのだ。


「とりあえずあの少年は、体術以前に生き残る覚悟を持つべきだけどねぇ」


 逃げるのは恥ではない、生き残りさえすれば何とかなる。が、ウェインスフォードの家訓だ。尤も、家族の大半は逃げる前に殺せ。を信条として実践しているので、律儀に家訓を守っているのはカヤくらいだろうが。その“逃げる”とは誰を巻き込んで犠牲にしても、が大前提であり、今回は人通りの多い表通りで人混みに紛れるのが最適解だ。まだ体格の出来上がっていない少年であれば上手く人の足の間を抜けて逃げられるだろうし、追っている連中の目的が別の人間に移れば逃げ延びる確率が上がる。

 けれど未だ走りやめない少年は、カヤの放つ殺気に怯えつつも人気のない道を辿り続け近づいてきている。明らかに誰も巻き込む気がない意志の表れであり、袋の鼠というどこかで聞いた言葉が正にぴったりだ。


「勝つ見込みがあるなら人気のないほうが戦いやすいけど、こっちに来たって抜けられる道なんかないよー」


 この辺りを根城にする人間は、不法占拠という単語を知らぬ存ぜぬで押し通す。ここ取った! と子供の理屈で自分の居場所を定め、道路を塞ぐことになろうと気にしない。誰の土地だろうと、誰の邪魔になろうと知ったことか。の精神だ。誰もがそんな感じで居座るため、建物を跳び越せない限り先に進む方法がないという、迷路としては甚だ失格な袋小路しか形成されていない。逃げる先としては最悪の選択肢だ。

 そうとも知らず後ろばかり気にして走っている少年は、カヤがいる建物が行く手を阻む行き止まりにぶち当たって行き場を失っている。


「はい、終了」


 ご愁傷様でしたと内心に手を合わせ、冥福を祈る。カヤからすれば雑魚が何十人と集っていようと物の数にはならない、少年を助けるだけなら至極簡単だ。けれどこれから仕事を控えているのに、何の得にもならない親切を振り撒く気にはならない。


「ごめんねー、猫なら助けた。若しくは烏の雛。あ、獅子の子供でも助けるな。……蜥蜴もか。え、強弱関係なく小さいものを助けるなら少年も助けろってこと?」


 例に挙げた動物が、助けて礼を言うとは限らない。むしろそんなものを期待して助けるわけではない。何の得も見返りもないのに助けるなら、人の子供を除外する理由って何。と我ながら理不尽に思って考え込む。


 カヤは人嫌いだねと、感心したのか呆れたのかよく分からない調子で弟に言われたことを思い出し、そんなことはないと反論した以上は助けるべきか。しかし当の弟が見ていないのに見栄を張る必要もないかと考え込んでいる間に、少年は追いついてきたごろつきたちに取り囲まれている。


 こうなってはもう、選択肢は二つ。屈辱を呑んで生き延びるか、無駄に抵抗して殺されるか。

 死ぬよりは生きていたほうがいいのではないかなと完全に他人事として考えていると、少年は殺されたくはないとぽつりと呟いた。然もあらんとカヤが同意する直前、


「でもそれ以上に、死にたくないんだ……っ」


 決意のこもった少年の声は、思った以上にカヤの心に響いた。肉体の魂のと小難しい話はどうでもいい、ただ自分の矜持は捨てられないと噛みつくような宣言はカヤにとって非常に好ましい。言葉の真意に至らず、そりゃ同じ意味だと不調法に笑っている男たちとは違った意味で口許を緩め、わあおと感嘆して音もなく屋上から飛び降りた。


「一丁前にかっこいいね、少年。もう十年経ってたら惚れてたかも?」


 からかうように声をかけると、少年が驚いたように振り返ってきた。よく手入れされた艶やかな黒い髪と、真っ直ぐに強い黒い瞳。その服装のみならず、僅かに黄みを帯びた白い肌からも少年が秀真の出身なのは見て取れる。幼いのに整った顔立ちには悲壮というには凛とした覚悟を湛え、石くれを拾って握り込んでいる。何もない路地でせめてもの凶器たりえるそれを手にしているのを見て、カヤは知らず笑みを浮かべた。


「足掻いて生きる、その心意気やよし」


 弟たちを褒めるような気分で軽く少年の頭を叩き、石を持つ手を軽く下げさせると代わりに前に出た。いきなり現れたカヤに戸惑うだけで対応できていない雑魚など、纏めて瞬殺できる──殺さないだけの手加減をして尚、だ。人攫いだか人買いだか知らないが、女一人も倒せない弱々しさで大丈夫かと思わず心配になる。とりあえず最後の一人を片付けようと振り返ると、落ちていた剣を拾った少年がちょうど切り捨てたところだった。やはり得物さえあれば、後れを取らない程度には心得があったらしい。


(それならここで置いて行っても問題ないよね、よかったよかった)


 一先ずの危機は脱した。通りすがりの無料奉仕としては、十分に役目を果たしたと言えるだろう。



「足掻いて生きる、その心意気やよし」


 故に助太刀致しましょうと軽く語尾を上げて理人の頭を軽く叩いたのは、見覚えのない女性。一条の光も許さない闇のような黒髪と、夏の夜空みたいな紺青の目。色だけ見れば、理人あやひとと同じ秀真の出身にも見える。ただあまりに特徴のない、平凡というより他にない顔立ちは彼女をどこの人間だと断じさせない。強いて言えば二重でぱっちりとした目をしているが、特筆すべき特徴とは言えない。目印になるような黒子や傷もなく、身体の線を隠すような服のせいで声を聞くまで性別さえ分からないくらい曖昧な存在。


 確かに触れられたにも拘らず本当にそこにいるのだろうかと疑る間にも、取り囲んでいた男たちの排除が始まっていた。


 手近の一人の顎を掌底で突き上げて、隠しようのない喉元に手を添えると何の躊躇もなく締め上げ。ごばっとおかしな音と共に血を吐いた男を無造作に捨てた彼女は、目を瞬かせるだけで反応ができていない近くのもう一人に向けて手を一閃させた。途端、鮮血と悲鳴を撒き散らして男が蹲っている。武器を使った様子はないのに男の両目の上には真っ直ぐな傷ができていて、覆った手の間から涙のように血が流れている。自分の仕事を確認することもなく次に向かっている彼女は、ようやく振り回された男の剣を掻い潜って肘を捕まえ、関節とは逆方向に曲げると上がった悲鳴も聞かない顔で足を払い、男の後頭部を地面に打ちつけるとまた次に取りかかっている。


 訓練の試合とはいえそれなりに戦い慣れた理人の目から見ても鮮やかに、気を抜けば見落としてしまいそうな早業で次々と男たちが片付けられていく。片時も目を離せないのは流麗な仕種に見惚れたばかりではない、さっきまで感じていた肌を刺すような嫌な気配が確かに彼女から発せられていると気づいたから。


(近づくな。あれは逃れようのない災厄……)


 理人の本能が警告してくる、冷や汗まで吹き出しそうな確かな恐怖。野分から逃れるには身を隠すしかない、同じように彼女から逃れるには見つからないことが大事だった。巻き込まれたなら最後、高く吹き飛ばされて地面に叩きつけられる。そんな最後しか浮かばないのに足が動かないのは、竦んでいるからだけではなく。


 彼女が動くたびに血が舞う、悲鳴が上がる。さっきまで理人を追い詰めていた男たちが戦闘不能に陥っていく、無手の女性がここまで戦えることにじりじりするほど焦がれるから。


(極めたものは、須らく美しい)


 聞き慣れた父の言葉は、決して誉め言葉としては使われなかった。理人はまだその域まで達していないと、嘆く時の言葉だ。憎々しく思っていたそれは、けれど彼女を見て昇華される。確かに言葉を失うほどに美しい──例えどれほど凄惨で、死神のような行為でも。見入っている間に命を刈られるのなら、悪くないのではないかと本気で思うほどに。


 その完璧な一連を損なう存在に気づいた理人は、不愉快を隠そうともせず駆け出した。誰かが落として転がっていた剣を拾うなり彼女の背後に回り、背中から襲い掛かろうとしていた一人を切り捨てた。残った数人を蹴り飛ばして対処した彼女は後ろに向けて投げようとしていた短刀を構えたまま肩越しに振り返ってきて理人を見つけ、目を細めるように笑った。


「やっぱり戦えたね、少年」

「無手では無理でした」


 褒めるような言葉が身に余り過ぎて急いで否定すると、彼女はご謙遜をと語尾を上げながら向き直ってきた。気づけば馬鹿みたいな数に膨れ上がっていた無頼漢はすべて、死屍累々とそこに積み上がっている。


「いやいや、殺してませんよ。お金にもならない仕事は嫌いなので」


 しばらくは動けないようにしたけどねと肩を竦められ、よく観察してみれば全員息をしているようだ。単純に殺してしまうより手間だったのではと彼女を見上げると、返り血の一つも浴びずに白いままけろっとしている姿に自分の未熟を噛み締める。


「あの、助けて頂いてありがとうございます」

「ご丁寧にどうも。でもお気になさらず、ただの気紛れだから」

「そんなわけには参りません。何でも仰ってください、できる限りでご恩は必ず返しますっ」


 六歳児にできる範囲など限られている。それでも本気の強さで主張すると、彼女は困ったように苦く笑った。


「その心意気を大事に長じてくれたらそれでいいよ、大したことはしてないから」

「お言葉ですが、俺の命はそんなに安くありません」


 大したことをしてもらいましたとむっとして言い募ると、彼女は驚いたように目を瞠ってから柔らかく笑って膝を突き、目線を合わせてきた。近くなった顔に心なし腰を引かせると、彼女は少しだけ揶揄したような仕種で恭しく胸に手を当てて一礼した。


「これは大変失礼致しました、失言をご容赦ください」


 丁寧に謝罪した彼女は悪戯っぽく片目を瞑り、でもねと面白そうに語尾を上げる。


「仰る通り、君の命は尊い。けど残念ながら、誰かの命の価値は人それぞれなのです。私にとっては、私や自分の家族の命は尊い。けれど君は……、こう言うと怒るだろうけど、事実だから言ってもいいかな」


 許可を求められ、よほどひどい言葉が繰り出されるのを覚悟してきゅっと唇を噛んだがそのまま頷いた。彼女はさっきも見たように褒めるように笑い、衝撃を紡ぐ。


「私にとって君の存在は、道端の猫と同じ」

「っ、」


 思わず持ったままだった剣をぎゅっと強く握ると、ごめんねと苦笑気味に謝罪される。


「でも私にとって今の行為は、弱った猫がいるのを見つけて目の前の危機を取り払っただけ。だから、そんな適当な助けはいらなかった、拾ってもくれないくせにって怒ってもいいところだよ」


 そのくらいしかできないと予防線を張る彼女は、この後の手助けをする気がないと暗に告げている。例えば理人が親に捨てられて彷徨っていたとしても、今命を助けた以上のことはしないということだろう。幸いにして理人には帰る場所がある、今手にしている剣を取り上げられないのなら自力で帰ることもできる。彼女が言うように責める筋合いなどはない、本気でちょっと傷つく表現だったが納得もできたなら尚更だ。


(それに、道端の猫にだって言い分はある。拾ってくれずとも助けてもらって懐くのは、猫の勝手だ)


 秀真では静寂しじまの跡継ぎは将軍に仕えると定まっている、自分で主を選ぶ自由など与えられていない。だがここは初めて訪れた異国で、理人が自力で戻るまで何にも干渉されない。見捨てていくと分かっている命の恩人に剣を捧げる酔狂を咎める者は、誰もない。

 拾った剣では申し訳ないが形を整えるのは重要だと判じて、理人は剣の柄を右手に向けてそっと自分の前に置いた。それから片膝を突いて彼女を見上げ、威儀を整える。


「アヤヒト・シジマと申します。あなたのお名前をお伺いしてもよろしいですか」


 多分に彼女の国に合わせた名乗りを上げると、二度ほど瞬きをした彼女はどこか意味ありげに口許を緩めた。


「カヤ・ウェインスフォード」


 怖れを期待したような口振りの名乗りに、理人も僅かに反応した。遠く離れた小さな島国である秀真にも轟く、その悪名。大国ヴィシュムに凝る闇、死神と恐れられるその一族を迂闊に騙れば死を招く。故にその名を持つのは本物か死を恐れぬ馬鹿のどちらかであり、彼女は明らかに前者だろう。


 けれど予期せぬ事実に驚きはしたが、彼女の家名がどうあれ受けた恩に変わりはない。それに、と理人は勝手に夏の夜と変換した名前に笑み崩れた。


「綺麗な御名ですね。では、その御名にかけて、静寂理人は生涯あなたに忠誠を尽くすとお誓いします」

「待って、重い重い重い! 君、人の話を聞いてた? 野良猫を助けたくらいで生涯の忠誠とか重すぎる、いらない!」

「あなたこそ俺の話を聞いてましたか? 俺には一つしかないこの命を救われたからには、この身を捧げるしか恩の返しようがない」


 なので誓いを受け取ってくださいとさらりと告げると、彼女──カヤは無理だってと悲鳴紛いに拒絶する。


「拾って飼い猫にしたなら懐かれるだろうけど、置いていくから。飼ってあげられないから! 他にいい飼い主さんを見つけなさい、私に責任を負わせないでっ」

「責任などとんでもない。ただ俺が勝手にあなたに懐くだけです、拾ってくれなくても構いません。飼い主はあなたと勝手に思うだけですから」

「だからそれをやめて! 無理無理無理、家には既に手に負えない双子がいるのにこれ以上は無理、絶対に無理!」


 重すぎるっと全力で拒絶され、さすがに理人もしゅんと項垂れた。傷つくと本気で泣き言を溢すと、カヤも少し慌てて様子を窺い、しばらく逡巡した後にそれじゃあと代替え案に指を立てた。


「飼い主は他所で探して。でも助けた恩を忘れないでくれるなら、……私を敵とは思わないでくれると嬉しい」

「敵、」


 思いがけない言葉を繰り返してきょとんとすると、カヤは少し気まずそうに、悲しげに眉を寄せて笑った


「君みたいな小さな子でも知ってる通り、私の家は闇を体現してる。でも仕事以外に好んですることはないから、それは誰かに知っててほしいかな、と」


 独り言めいて呟くように説明したカヤは、はっと我に返ったようにそれも結構な無茶だねと困ったように笑った。今にも忘れてと言い出しそうな雰囲気に、急いで口を開く。


「必ず」

「、……え」

「気紛れにでも助けてくれたあなたを、どうして敵にしようと望めるのか。あなたを敵にはしないと誓う。必ず。今は他人の剣だが、俺の剣に懸けて。あなたの名に懸けて。俺はあなたの剣となり、あなたを守ろう」


 どこまでも真摯な誓いにカヤは何度か目を瞬かせ、滲むように泣き出しそうな笑みを広げた。


「それも重い。お姉さんは、君のこの先の人生が心配だよ」


 からかうように語尾を上げたカヤの白い手が、少し躊躇ってからそっと頬に触れてきた。


「君の気持ちがいつ変わっても責めないよ。でも今は嬉しいから、そうして。私を覚えてくれてる間は、きっと」

「忘れない間、ずっと」


 多分それは理人の生涯に渡ってだと確信していたが、カヤの目があんまり寂しげに揺れていたので彼女の言葉を借りて繰り返す。最後が少しばかり違うくらい、見逃してもらえる範囲だろう。カヤも気づいただろうがそれには触れず、理人の頬から手を離して少し身体を起こした。


「ところで君の名前、どう書くの?」

「静寂のしじまに、ことわり、ひと。あやひと、です」

「へえ……、ふうん。リト少年」


 秀真でしか通じないはずの文字を理解している証拠に、彼の名前を別の読み方で呼んだカヤは立ち上がるとさっきまでのどこか危うい空気を一変して悪戯っぽく笑った。


「君の誓いが嬉しかったから、警告してあげよう。名前と言うのは世界最古の呪、だから。迂闊に名乗るのは感心しないなあ」


 真名を取られたら呪われちゃうよと揶揄するように告げると理人が止める間もなくさっと踵を返し、しばらく離れた場所から振り返ってきてひらりと手を揺らした。


「じゃあ、また。機会があったら」

「っ、カヤさんだって、真名でしょう!」


 遠く、もう会えないことさえ予感しながらも咄嗟に口を突いたのは、引き留めるではないそんな言葉だった。自分でも何を言いたかったのか分からないが、カヤは遠くからも分かるほど驚いた顔をしてから否定するように軽く指を揺らした。


「残念。猫の尻尾と女の名前は、幾つもあると相場が決まっているのです」


 君は呪われないように気をつけてと揶揄した時には、もうカヤの姿はそこから消えていた。時間にすれば四半刻にも満たない、僅かの間。印象深く心に焼きついて離れない、大事な邂逅。


 人生さえ揺るがす衝撃は、何の前触れもなく訪れる──例えば一方通行だとしても。

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